「伝統」の進化を目指して“科学”に挑む京都老舗料亭の料理人たち
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人類学の博士課程に在籍していた頃、グローバル化の中での京都ブランドの食品・農産品という研究テーマを選び、農家、地方公務員、茶師(=茶葉の選定と調合を行う職人)、消費者などに取材した。だが料理人は取材リストに加えなかった。どうせ応じてもらえないだろうと思ったからだ。日本社会では結局のところ、コネが物を言う。高級料亭の中には、「一見さんお断り」をうたっているところもある。初めての客は、常連客の連れでない限り受け入れないという方針である。それに、マスコミが取り上げる人気料亭の料理人はいまやセレブ扱いだ。
ところが意外や意外、京都の老舗料亭の料理人は、狭い枠を超えた新たな関係づくりに積極的であることを知った。その代表例が、食品科学の研究者たちとのコラボレーションである。ありがたいことに、彼らは私のような外国人にもオープンだった。筆者は当時研究生として所属していた京都大学のつてを通じて2012年、「日本料理ラボラトリー」の会合に参加させてもらった。
おいしさの追求だけではない
京都に拠点を置くNPO「日本料理アカデミー」が主催する「日本料理ラボラトリー」(通称「ラボ」)は、関西の料理人や研究者の集まりである。会員は月1回夜に会合を開き、その時々のテーマに沿った調理実験とその試食料理を巡って意見を交わす。2009年の初会合以来、「日本料理ラボラトリー」が俎上(そじょう)に載せてきたテーマは、(高温水蒸気や遠心分離機などの技術による)分離、アワビと調理温度の関係、ゲルと食感の関係などの科学的なものから、「日本料理の国境線」などの抽象的テーマにまで及ぶ。
どのテーマでも、「おいしさ」はもちろん重要な要素ではあるが、それだけが最終目標ではない。実際、料理人の村田吉弘氏(料亭「菊乃井」主人)が最初の実験の時に、無難な道を選んでおいしすぎる料理を出してきちゃだめじゃないか、と言って何人かの若手料理人を冗談交じりにたしなめたと聞いた。ラボの目的は、料理人と研究者が科学の力を借りて伝統料理についての知識を深めるところにある。その知識をもとに、料理人によりおいしい料理を創造してもらい、さらには料理イノベーションの文化を育むことが目標だ。ラボで料理人たちが作る料理は基本的に、自分の店では絶対に出さない料理ばかり。思いつくままに挙げてみると、超辛口カレー、ベジタリアン・カツサンド、京料理風の味わいに仕込んだオックステールなどだ。
ラボに参加する料理人の中には、大学院でさらに本格的に科学を学ぶ人もいる。料理修業で身に付けたプロの知識や技術を補強するためだ。中村元計(もとかず)氏(「一子相伝なかむら」)、才木充氏(「直心房さいき」)、高橋拓児氏(「木乃婦」)らは、京大農学部で修士号を取得している。高橋氏の修士論文のテーマは、懐石料理で一品ずつ出すペースがお客に与える生理学的効果だった。龍谷大学が新たに立ち上げたプログラムに参加している料理人グループもいる。指導するのは、うまみとおいしさの研究で知られる伏木亨教授と、山崎英恵(はなえ)教授だ。
ラボの取り組みの一例を挙げてみよう。京懐石における伝統的なアワビ調理法に、3時間蒸すというのがある。ラボの会員たちは、なぜそうなっているのだろうと考えた。最新の技術、特に温度を正確にコントロールできる技術を使って、アワビをより効率よく、よりおいしく調理する方法はないものか。もっと低温で、もっと長時間調理したらどうなる?そこで、温度50度・55度・58度・60度で8時間調理するなどの実験をした。そして仕上がりを、嗜好(しこう)性、「アワビらしさ」、磯臭さ、生臭さ、食感の各視点から比較・ランク付けした。その結果、60度で8時間低温調理する方法が、3時間かけて蒸す調理法より優れているのではないかという評価を得た。この結果を踏まえて、各種料理に使うアワビの理想的調理法を求め、各料理人がさらに実験を重ねた。
京料理の伝統を守るための科学的アプローチ
これまでに、世界各地のシェフが科学の知識やツールを効果的に使って、素晴らしい料理法を編み出してきた。1990年代初めにはエルヴェ・ティスとニコラス・クルティという二人の研究者が、シェフのフェラン・アドリア(レストラン「エル・ブジ」)、ヘストン・ブルメンタール(「ファット・ダック」)と手を組み、欧州連合(EU)から資金提供まで受けて、野心的な調理科学研究に乗り出した。この研究から生まれた料理は「分子料理」と呼ばれるようになった(ただしこの呼び名は、シェフ本人たちには不人気である)。近年では2008年にルネ・レゼピとクラウス・マイヤー(共にレストラン「ノマ」)が、スカンジナビア産の食材を使ったおいしい料理を探求する場として「ノルディック・フード・ラボ」を設立した。同ラボは14年にコペンハーゲン大学食品科学部との共同ベンチャーとなり、現在は「フューチャー・コンシューマー・ラボ」と名を変えている。
日本料理ラボラトリーもこうした海外での試みと同様、科学的視点から調理技術を研究することで料理をよりおいしく、より多様化する目的で結成された。科学者と料理のプロとの協力で成り立っている点も共通している。
ただひとつ大きく違うのは、同ラボの料理人たちの主眼は斬新な創作料理よりも、むしろ伝統のてこ入れにあるということだ。会員の一人は筆者にこう説明してくれた。「私たちは、(新しい料理を生み出すためではなく)京料理をもっとおいしくするために科学を利用しているんです」。この違いを一層はっきりと実感したのは、生江史伸(なまえ・しのぶ)氏(東京・港区「レフェルヴェソンス」)に話を聞いた時だった。京都の料理人が中心の常連メンバーの中で、例外的に都内の有名フレンチレストランのシェフという立場だ。生江氏が指摘したのは以下のようなことだった―自分とは違ってラボ所属の料理人の多くは、何世代にもわたる伝統を受け継いでいる。だが同時にその重責も負っているのだ。つまり、老舗の料理人にも斬新なアプローチを試みる意欲はあるし、実践もしているが、店の伝統的メニューから大きく逸脱することは難しい。老舗料亭は基本的に家族経営なので、自分の家族、従業員、そしてお客が伝統の味の継承を期待しているからだ。
変化し続けることで伝統を守る
ラボに参加する料理人たちは、変革を否定はしない。事実、下口英樹氏(「平等院表参道 竹林」)は「京料理は革新的である。振り返って見ればクラシックとなる」と述べている。「変革と遊び心は、最初から京料理の一部だった」というのが、その意味するところだ。ラボの他の料理人も、伝統についてはおおむね彼と同様の見方をしている。中村氏は、過去の変革も、ひいては過去との決別も「ひっくるめたものが伝統だ」と言う。自分の料理を時代遅れでつまらないと思われたくないなら、料理人は常に変化を目指すべきだという。
こうした伝統観は、ラボの2015年度シンポジウム向けに下口氏が創作した料理にも表れている。白子をバターと豆乳を原料とするベシャメルソースであえ、「器」に見立てた柚子(ゆず)の皮に入れて供するもので、「日本料理の国境線」という同年のラボのテーマをよく捉えていると評判になった。バターたっぷりのフレンチ風ソースを使うことで日本料理の境界線を広げる一方で、一口ごとに漂う柚子の残り香によって日本料理の領域にとどまっていると評価された。
公開シンポジウムで提供して好評を博したからには、きっと自店のメニューにも加えただろうと思うかもしれない。しかし数カ月後に下口氏に聞いてみたところ、竹林ではこの料理は出せない、出すとしたらバターをカットするなど大幅に修正しないと無理だという答えだった。単品料理としては評価されたが、バターたっぷりなので懐石フルコースの一品にはなりえない、後に続く料理の微妙な味や風味を堪能できなくなってしまうからだという。「将来の日本料理ならこういうのもありかもしれませんね」と下口氏は付け加えた。
今年、ラボが選んだテーマは「品位」である。つまり、洗練された優雅さ、上品さの追求だ。メンバーの料理人たちは、2020年2月に自分たちの“実験結果” を京都で披露することになっている。どんな試作料理が生まれるか、興味は尽きない。
(原文は英語。バナー写真は「日本料理ラボラトリー」のシンポジウムで試食料理を準備する参加者たち/提供=龍谷大学)