香港逃亡犯条例問題が生んだ「体制の危機」:“不可能な任務”を負わされた香港政府

政治・外交

収まる気配のない香港の大型抗議行動。香港政府はなぜ事態をここまで悪化させてしまったのか、中国の習近平政権はどう対処しようとしているのか…。現地に精通した研究者が解説する。

「逃亡犯条例」改正問題をめぐり発生した香港の大型抗議活動の嵐は、6月9日の「103万人デモ」から約2カ月を経過しても収まる気配がない。デモは毎週末、郊外を含む全香港に拡散して実施され、7月以降は警察との衝突が常態化した。デモ隊の要求も、改正案の撤回から転じ、2014年の「雨傘運動」で挫折した普通選挙の実現を訴えたり、若者の多くが「革命」を叫び始めたり、7月21日のデモでは中央政府の出先機関を包囲して国章を汚損したりと、体制に対するあからさまな不信任の表明へとエスカレートしている。

仮に香港政府が早い時期に改正案を撤回していれば、このような事態は避けられたはずである。なぜ香港政府は、たかだか一つの法律をめぐる問題を「体制の危機」にまで発展させてしまったのか。その原因は、「一国二制度」という特殊な枠組みの下で、香港政府がさまざまな通常の政治的オプションをとれないという、体制自体の大きな問題にある。

民主的解決は困難:辞められない行政長官

逃亡犯条例問題によって、林鄭月娥行政長官の支持率は地に落ちた。7月の香港民意研究所の調査では、行政長官を100点満点で評価した場合の得点の平均は30.1点と、返還後の4人の行政長官の中で歴代最低点となった。旧宗主国の英国で、EU離脱問題をめぐり2人の首相が相次ぎ辞職したように、このような状況になれば、民主国家であればトップは辞職を免れない。

香港の林鄭月娥行政長官(時事)
香港の林鄭月娥行政長官(時事)

しかし、林鄭月娥は辞職していない、というより、辞職できないのである。フィナンシャル・タイムズは、林鄭月娥が問題の発生後に繰り返し辞意を示したが、北京がそれを許さなかったと報じた。

香港行政長官の任免権は中央政府にある。デモの要求に応じて香港政府トップが辞職したとなれば、直接政権の威信に傷をつけることになる。習近平政権は、市民運動・社会運動から少数民族・宗教まで、異論を全て力で押さえつけることを統治の哲学としてきた。譲歩の前例を作ることは、環球時報が「パンドラの箱を開けることになる」と評したように、圧力一辺倒の統治の歯車を一気に逆転させかねないと、北京は恐れるはずである。

もっとも、香港行政長官の辞任に前例はある。初代の董建華行政長官は不人気で、2003年7月1日に「50万人デモ」で辞職を求められた後、05年3月12日に健康問題を理由に辞職した。しかし、当時と大きく違うのは中央政府の状況である。

董建華は江沢民の支持を受けて就任したが、辞職時には江沢民はすでに胡錦濤に地位を譲って引退しており、後ろ盾を失っていた。その董建華でも、辞職はデモを理由にはしていないし、デモから辞職までは1年半を要した。今、習近平に選ばれた行政長官を、習近平が「任命責任」を負って辞めさせるのは容易でない。7月29日の中央政府の会見でも、北京は相変わらず林鄭月娥への強い支持を表明し続けており、行政長官はおろか、関係する官吏の誰一人引責辞任していない。政府人事を一新して巻き返しを図ることはできない。

動揺する政府支持者たち:失われた政策執行能力

それならば、林鄭月娥が強力な政策的措置をとって、問題の解決に当たるしかない。実際、先述のフィナンシャル・タイムズの報道では、北京は林鄭月娥に対し、自分で作った混乱を自分で収拾せよと命じたとされている。しかし現在、林鄭月娥にはそうした統治を実現できるだけの基盤が全くない。

香港の政治体制の設計は極めて特殊である。まず、行政長官は政党に所属することを許されない。これは、中国共産党が、(名目上)共産党の存在しない香港において、共産党以外の政党が政権を取ることを許さないという意味でもある。一方、議会である立法会には政党があるが、行政長官が無所属であるため、議会は事実上「オール野党」である。ただし、通常は、財界と共産党寄りの政党が、非民主的な選挙制度のおかげで過剰に議席を得て、親政府派として政府を支える。

しかし、今回の逃亡犯条例には、財界も引き渡しを恐れて強く反発していた。北京と香港政府から改正案を支持するよう強い要請があったため、親政府派政党は不承不承ながら、不人気法案に賛同してきた。親政府派の議員たちは、その間支持基盤である財界の不満をなだめる役割も負わねばならなかった。

結果的に改正案は政府の一存で審議を止められてしまった。ハシゴを外された格好の議員たちは大いに怒った。6月15日に林鄭月娥が法案審議の一時停止の決定を親政府派議員に説明した際には、彼らの一部が林鄭月娥を罵倒して泣かせたとも報じられている。

デモは毎週続けられているが、政府はこれを解決する具体的な措置をほぼ全くとれていない。市民の政府への不信は高まる一方で、このようなありさまには、議員はおろか公務員すら反感を強めており、公務員による集会やストライキの動きも出た。キャリア官僚ですら、多数が連名で政府に対する抗議の声明を発した。

しかも悪いことに、今年11月には区議会議員選挙、来年秋には立法会議員選挙が予定されており、「選挙イヤー」に入る。政党はますます民意に敏感にならざるを得ず、不人気の政府と一線を画そうとする。7月1日の突入事件で立法会は物理的に破壊され、会議が開けない状態であるが、政党も公務員もバラバラになっている中、仮に会議を開いても敏感な政策や法案の審議は正常には行えないであろう。

この状態で、林鄭月娥がまともに政策を実行できるわけがない。すでに林鄭月娥の政権はレーム・ダック化したとも言われる。任期5年のうち3年近くをまだ残しているのに、である。

強権的弾圧の限界:許されない「天安門事件」の再演

こうなると、もはや頼れるのは力のみである。権威主義国家であれば、ここまで大きな運動が存続することは、通常許されない。中国は周知の通り、かつて天安門事件では人民解放軍を出動させて学生運動を終わらせた。香港においても、仮に駐留する解放軍を出動させれば、デモは恐らくひとたまりもない。

しかし、香港のデモに解放軍が投入される可能性は低いであろう。投入されれば国際社会の激しい反発は間違いない。中国は制裁され、世界から孤立して大きなダメージを受けるであろう。「費用対効果」で考えれば、解放軍投入は全くの下々策である。

実際、ロイターの報道によれば、6月12日に立法会外で警察とデモ隊が激しく衝突した翌13日、解放軍駐香港部隊の陳道祥司令官は、米国の東アジア担当のヘルビー国防次官補代理と会談し、解放軍は香港の問題に干渉しないと自ら述べたという。

したがって、香港政府は自身の力でデモを押さえつけ、恐怖を広げて運動を抑制するしかない。その役目を負うのは警察である。しかし、報道や集会の自由がある香港では、これも容易なことではない。警察が催涙弾に続いて、ゴム弾・ビーンバッグ弾・スポンジ弾などという耳慣れない手段を繰り出すたびに、それはメディアで報じられてますます市民の怒りを増幅させた。

7月21日には「謎の白服の集団」というヤクザの襲撃事件により、確かに市民に恐怖は広がった。しかし、通行人やメディアなどにも襲いかかって負傷させるこの集団は、同日に中央政府の出先機関を襲撃して破壊したデモ参加者の「暴力性」をむしろ目立たなくしてしまった。

「白服の男」たちが、警察や親政府派の議員と親しげにしていた場面も、無数の携帯カメラに収められ、ネットやメディアで報じられて、政府と警察がヤクザと結託しているという悪評が広がる結果となった。

損をするのは香港だけか?

こうしてみると、香港政府はつくづく損な役回りである。穏健策も強硬策も全て使用を禁じられた中で、仲間に背かれながら、事態を沈静化せねばならない。これはほぼ不可能な任務であろう。

打つ手がほとんどないため、デモは延々と続けられている。「雨傘運動」の際も、北京は「妥協せず、流血せず」という、今回と似た方針をとった。結果として運動は79日間も続いた。しかし、実際に道路が占拠されて困ったのは香港市民であり、北京にダメージは少なかった。最近は「白手袋」という喩えもよく用いられる。手袋は、汚いものや危ないものに触れる仕事に、手の意思に操縦されながらつかねばならない。一方、手のほうは汚れず、けがもしない。

しかし、今回の件はそれで済むであろうか。仮にデモが収まったとしても、残されるのは市民の支持と政策執行能力を喪失した政府である。経済への影響も議論され始めており、国際金融センターとしての香港への信頼が失われれば、米中貿易戦争という厳しい国際環境の中にある中国と世界経済をつなぐパイプが細る。そして香港が混乱すると、台湾総統選では蔡英文に有利である。

損をするのは香港だけではないであろう。

バナー写真:「逃亡犯条例」改正に反対する民主派らのデモ行進=2019年6月9日、香港・香港島(時事)

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