平成—制度改革を経てもまだ十分には機能しない日本の政治
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冷戦終結後の最初の一時代の終わり
日本では「平成」の終わりと認識されることが多い2019年は、世界的に見れば冷戦終結から30年の節目に当たる。30年といえば、新生児が親に、親が祖父母になるだけの時間である。そのため、30年は一世代、そしてその世代が活躍する一つの時代の基本的な単位だと、しばしば考えられてきた。現在私たちは、冷戦終結後の最初の一時代の終わりにいることになる。
日本政治に目を向けるとき、この一時代はどのような特徴を持っていたのだろうか。それはなぜ生じてきたのだろうか。これらが、本稿において考えようとする問いである。1989年に「平成」(地平らかにして天成る、国の内外とも平和が達成される)という元号を採用した際の願いとは裏腹に、過去30年間の日本政治は、その前の時代に比べてはるかに激しい変転を経験した。
以下では、その背景にあった環境要因と制度要因の変化、および帰結について論じることにしよう。
国際環境に連動し、激変した日本の社会・経済
ここにいう環境要因とは、主に国際環境と社会経済環境の2つを指している。
国際環境、すなわち日本を取り巻く国際政治経済の変化を時系列的に見れば、冷戦の終結、グローバル化や情報通信技術の革新などによる世界経済の構造変化、中国をはじめとする新興国の台頭などが挙げられよう。
1980年代までの日本政治は、冷戦の下で自由主義圏の先進国相互間の関係に意識を向ければよく、かつ日本が非欧米圏における唯一の先進民主主義国であることを与件として、政策決定を行っていた。日米同盟関係を基軸にしながら、主として経済面から国際社会に関与するという戦後日本の対外政策の基本線は、これらの与件に適合的であった。しかし、その後の30年の間に与件はすべて変化したのである。
社会経済環境の変化とは、主に日本国内において、バブル崩壊後の長期不況やグローバル化と技術革新に伴う国際競争の激化を受け、企業などの行動が変化して、それが社会全体に影響を与えたことを指す。バブル期までの日本企業は、新卒一括採用や終身雇用を前提として、ほぼ強壮な男性にしかできない長時間労働やときに理不尽な意思決定と引き換えに、従業員と家族に生涯にわたる生活保障を与えてきた。これらは過去の存在になりつつある。
財政悪化、少子高齢化や女性の社会進出についての価値観の変化も加わって、雇用や労働のあり方、さらには家族のあり方も急速に変化している。経済政策や社会政策も、それに連動して変化せざるを得ない。
選挙制度改革と行政改革
環境要因が大きく変わり、従来の政策の有効性が低下するとき、それをいかに転換するかは政治の最重要課題となる。
日本の場合、1990年代に進められた政治改革、すなわち統治機構の全面的な変革に際しては、このことが強く意識されていた。政治改革の原動力については様々な理解や説明が可能だが、冷戦終結に始まる急激かつ広範な環境変化に対して、日本政治の応答能力を高める必要があるという認識が根底にあったことは疑いがない。
政治改革の中でとりわけ重要だったのは、1994年に実現した選挙制度改革と、主要部分が2001年に実施に移された行政改革という2つの制度改革であった。
選挙制度改革は、従来の中選挙区制に代わり、衆議院に小選挙区比例代表並立制を導入した。新しい選挙制度は小選挙区制に近似した効果を持っており、政党システムの二大政党化と、大政党内部の組織の集権化を促した。そこで想定された政治過程は、政権を獲得した大政党が単独政権を作り、首相を中心とするトップダウンの政策決定を迅速に行うとともに、有権者はその評価を衆議院選挙による政権選択(必要に応じた政権交代)を通じて表明するというものであった。
行政改革は、しばしば内閣機能強化と省庁再編の二本立てだと説明されるが、より大きな意味を持っていたのは前者の内閣機能強化であった。選挙制度改革によってトップダウンの政策決定が想定されたが、首相にはそれに見合うだけの政策立案を行う資源が与えられていなかった。内閣機能強化によって、各省庁からのボトムアップではなく、首相の方針に従った政策決定を行うことを目指したのである。内閣官房の拡充、内閣府の創設、特命担当大臣ポストの新設などは、その具体的な手段であった。
「平成」30年間の世界と日本の主な動き
1989 | 「昭和」から「平成」へ、消費税スタート |
天安門事件、ベルリンの壁崩壊 | |
1991 | 湾岸戦争、ソ連邦崩壊 |
1993 | 自民党下野、非自民の細川内閣成立 |
欧州連合(EU)発足 | |
1994 | 選挙制度改革を含む政治改革4法が成立 |
1995 | 阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件 |
1997 | 北海道拓殖銀行が破綻、山一証券が廃業 |
2001 | 1府12省庁に中央省庁再編 |
米同時多発テロ事件 | |
2002 | 小泉首相が北朝鮮訪問、日朝平壌宣言 |
欧州共通通貨ユーロの完全導入 | |
2003 | イラク戦争 |
2008 | リーマン・ショック |
2009 | 民主党が総選挙に大勝し政権交代 |
2011 | 東日本大震災 |
2012 | 自公が政権奪還、第2次安倍内閣成立 |
2016 | 米大統領選でトランプ氏が当選 |
(nippon.com編集部作成)
政権交代、そして「官邸主導」へ
これらの制度改革は、日本の政治過程に大きな変化をもたらした。政党システムの次元では、自民党以外の政党が政権を担う可能性は飛躍的に高まった。1996年に結党された民主党が2009年に政権を獲得したのは、その具現化であった。大政党内部の集権化も確実に進んだ。2005年の郵政解散に際して、小泉純一郎首相(総裁)率いる自民党が候補者の差し替えを行ったことはその典型であり、現在「安倍一強」といわれる自民党内部の状況も、明らかに党内集権化の結果である。
首相が自らの意向を反映させた政策を強力に推進する傾向も、小泉政権期以降、顕著になっている。いわゆる「官邸主導」の政策決定である。官邸主導を支える官房長官や一部の特命担当大臣(たとえば小泉政権における竹中平蔵・経済財政担当大臣)は閣内の最重要ポストになり、その下にある内閣府の業務量は増大して、肥大化すら指摘されている。かつて、首相は「軽い神輿」として扱われ、大蔵省こそが最強官庁であり、「局あって省なし」といわれるほどの割拠性が霞ヶ関の基本的特徴だとされた。これらは、ほぼすべて過去の風景になったといってよい。
弱体化した野党と「政権維持至上主義」
政策決定のスタイルや方法、すなわち誰が、どのように政策を決めているかは確かに大きく変わった。しかし、それが政策内容の変化を伴っているかどうかは、必ずしも明確ではない。政治改革の目的が環境変化に対する応答性の向上だったとすれば、それが十分に達成されているとは言い難い。
応答性の向上につながらなかった理由は、大きく分ければ2つあるだろう。1つには、政治改革が及ばなかった領域や、異なった方向性の改革に取り組んだ領域があったため、選挙制度改革と行政改革の効果を減殺したことである。たとえば、1990年代には中央銀行改革によって日本銀行の独立性が高められたが、そのことは政府と日銀が協調して経済政策を進めることを難しくした面がある。内閣と参議院、衆議院と参議院の関係は改革されなかったため、「ねじれ国会」に直面すると政策決定が著しく困難になった。
もう1つには、政治改革が想定外の効果をもたらした面があることが指摘できる。たとえば、小選挙区比例代表並立制における比例代表部分の存在は、政権を争う二大政党の競争を制約した。とくに弱体化した野党に所属する議員に、離党によって小政党を作ることを生き残りの手段として与える効果を持っていたことは、政党間競争の緊張感を大幅に低下させた。
また、政権交代の経験が一部の議員に下野を極端に恐れる心情を生み出したことも確かである。政策を正面から有権者に訴えて競争するのではなく、耳に優しいことだけを語って、とにかく政権を維持するという動きが目立つようになり、負担増のような必要だが困難な政策を展開する可能性は低下した。
「長期政権の心地よさ」に安住することは不可能
ここまで、過去30年の日本政治について、環境要因と制度要因の変化とその帰結という観点から論じてきた。本稿冒頭の問いに答えれば、制度要因の変化が日本政治を変転激しいものにしたが、それは環境要因の変化に見合うだけの政策面での応答性を確保するには至っていない、ということになるだろう。そして、これほど変転が激しいにもかかわらず応答性が十分でないことが、有権者の間にムードとしての「改革疲れ」と、しばしば「失われた20年」といった悲観的な見方を生み出しているように思われる。
現在の日本政治は、安倍長期政権の下でとりあえずの安定を取り戻すとともに、心地よいまどろみの中にあるように見える。しかし、環境要因も制度要因も決定的に変化している以上、それは55年体制の安定と同じではありえない。心地よさに安住することは不可能である。必要に応じたさらなる変革を現行制度に加えつつ、環境要因への応答能力をいかに向上させるかが、次の時代の日本政治の課題になるのであろう。
バナー写真:政治改革関連法案可決後の共同記者会見場で、署名した合意文書を交換する細川護熙首相(右)と河野洋平自民党総裁=1994年1月29日、東京・国会(時事)