平成の「科学研究」と「科学技術政策」のねじれた関係

科学 政治・外交

2018年暮れもストックホルムの出来事に注目が集まった。免疫チェックポイント阻害剤という新しいがん治療薬を開発した本庶佑・京都大学特別教授がノーベル医学生理学賞を受賞したからだ。平成時代に自然科学系のノーベル賞を受けた日本出身者は18人を数える。このノーベル賞「ブーム」は続くのか。ここ30年ほどの自然科学研究と日本の科学技術政策の動きを重ね合わせて見えてくるねじれた関係は、私たちの期待を裏切りそうなのである。

貧弱な体制の中で頑張った日本人自然科学者

利根川進の受賞以来13年ぶりに白川英樹がノーベル化学賞を受賞したのは2000年(平成12年)だった。それ以後の自然科学系ノーベル賞受賞者について、受賞の対象となった研究成果を出したのはいつか、を見てみよう。

2000年以降のノーベル賞受賞者が研究成果を挙げた時期

1960年代 南部陽一郎(1960→2008)
下村脩(1962→2008)
1970年代 小林誠・益川敏英(1973→2008)
白川英樹(1977→2000)
根岸英一(1977→2010)
鈴木章(1979→2010)
大村智(1979→2015)
1980年代 野依良治(1980→2001)
田中耕一(1985→2002)
赤崎勇・天野浩(1986→2014)
小柴昌俊(1987→2002)
1990年代 大隅良典(1992→2016)
本庶佑(1992→2018)
中村修二(1993→2014)
梶田隆章(1998→2015)
2000年代 山中伸弥(2006→2012)

(カッコ内は研究成果を出した年と受賞年)

1960年代2人、70年代6人、80年代5人、90年代4人、2000年代1人、ということになる。成果を出してから受賞するまで20年を超す人が多く、その前後の研究期間を入れれば、研究には時間がかかることがよくわかる。成果から6年でノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥のiPS 細胞発見は例外的であるのだ。

それにしても、米国などに比べ貧弱な研究体制と言われた70年代、80年代にも、日本の自然科学研究者は意外に頑張っていたという印象を受ける。そのテーマは世界的に見ても自由でユニーク、そして深いものであったのだろう。ノーベル賞を取りそこねた日本出身科学者も少なくなかった(例えば、がんウイルス研究の花房秀三郎、細胞周期因子を見つけた増井禎夫、イオンチャンネルの沼正作……具体的に挙げればきりがない)。

戦後50年でやっと始まった科学技術政策

「戦争に負けたのも科学技術が不十分だったから」というわけでもないだろうが、科学技術に取り組むことは、日本にとって大変重要なことであり続けている。どのように日本が科学技術と取り組んできたか、その「視点」について、戦後50年たった1995年(平成7年)の科学技術白書はこうまとめている。

1950年代:経済復興と自立のための科学技術

1960年代:経済成長と社会経済基盤拡充のための科学技術

1970年代:高度成長のひずみの是正と激動する世界への対応

1980年代:創造的科学技術の重視と新たな課題への対応

1990年代:科学技術創造立国

なるほどと思う。「科学技術立国」という言葉は80年の白書にすでに登場していたが、90年代初めまでは各省庁がバラバラに科学技術に対する施策を行っている状況だった。まだ、総合的な科学技術政策はなかったのである。

95年、「創造力を生かし、価値を生み出し、豊かな生活をもたらす」科学技術創造立国が提唱された。この年は科学技術基本法が成立した年であり、本格的な科学技術政策が始まったといえるだろう。翌年、10年程度を見通しながら5年毎の科学技術の枠組みを与える「科学技術基本計画」の策定が始まる。

「任期付き任用」「ポスドク1万人計画」「産学官交流」など、キーとなる概念はここに盛り込まれた。「資源に乏しく国土の狭い日本が21世紀に一流国で生き残り、世界のリーダーたちの一国として存続するためには、科学技術で競争する国を創造または再生する方向に行かざるを得ない」と、自社連立時代に基本法成立に力を入れた尾身幸次は語っている(2004年如水会館での講演から)。

さらに2000年に策定された「第2期科学技術基本計画」は、今も続く科学技術政策の基本を作った。具体的な中心となったのは、いわゆる「重点4分野」設定である。国家的・社会的に重要とされるライフサイエンス、情報通信、環境、ナノテクノロジー・材料という4つの分野に対して「研究開発投資の重点化・効率化」を戦略的に行うということを天下り的に決めた。その後の「選択と集中」につながる決定といえるだろう。

01年には、科学技術政策をトップダウンで決める総合科学技術会議が発足、首相を議長として総合的・基本的な科学技術政策の企画立案・総合調整を行うようになった。14年には総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)と名称を変え、より実務的な機能が強調されている。現在、科学技術基本計画は16年から20年を対象とした第5期となり、「Society5.0」などの目新しい言葉もあるが、その基本は変わっていないといえるだろう。

法人化などの改革を受けて疲弊する大学

科学技術政策と並行して進んだのが大学、特に国立大学の改革である。

科学技術研究の重要な核が国立大学にあることは確かである。これまでの自然科学系ノーベル賞受賞者の出自を見れば、その傾向は明らかである。大学で研究といえば、応用、開発よりも基礎研究で、言い換えればそれまで未知であった科学技術のシーズを見つけてある程度育てることが期待されてきた。

大学改革は1990年代から始まった。91年の「大学設置基準大綱化」で、教える科目区分がなくなり、自由度が増えて専門性が重視される一方で、教養部が廃止されて後にリベラルアーツ軽視といわれる状況になった。さらに「大学院重点化」が開始され、これまでと逆に大学院組織に学部を付属する形で大学院の研究活動を重視した。これは大学院定員を増やし、積算校費も増加させるので歓迎されたのである。

大学院在籍者は91年の9万8000人から、10年後の2000年には20万人超に増えたが、教員は増えず、助手・講師の定員を教授・助教授に振り替えるということになる。「質より量」というか、「悪貨は良貨を駆逐する」というか。その結果は博士の就職難であり、科学技術基本計画でのポスドク1万人計画はその尻拭いの役割を果たした。

そして04年の国立大学法人化を迎える。行政から切り離された自律を与えるというお題目のもとに、必要な資金は政府から供与されるという実態の中で、大学の再編と統合、民間経営手法の導入、外部評価にのっとった資金の重点配分などを目指す改革であった。しかし、法人化はいまだに大きな問題を大学に残している。

大学間あるいは大学内にも資金などの格差を許すようになったこと、多様な財源といいながら日本には寄付の伝統はなく、国から各大学に平等に与えられる運営費交付金と科研費などの競争的資金に頼らざるを得ないこと、大学や学問の成果を評価することはともすれば形式的になってしまうことなど、法人化を巡る問題をあげればきりがない。

問題は、科学技術政策が充実し、大学改革が進むほど、日本の科学者たちが息苦しくなっていくように感じることだ。政府が科学に手を突っ込めば突っ込むほど、研究の自由さと勢いは下がっていっているのではないか。

研究力の失墜生んだねじれ

近年の日本の研究力の失墜は、世界的に有名になっている。2017年3月、科学誌『ネイチャー』に「緊縮財政で科学研究はどういう代償を払うことになるか(What price will science pay for austerity?)」と題する6ページの記事が掲載された。「日本発の論文数の占める割合が7.4%から4.7%に減った」「若手研究者が任期なしポストを得る機会が少なくなり、将来が不安定になっている」「科学技術予算は01年以後横ばい」「04年から大学の基本的な資金である運営費交付金が毎年1%減らされ続けている」……と、日本の大学研究者の悲鳴が代弁されていた。

18年11月、国立大学協会長・学術会議会長の山極寿一京都大学総長と財務省主計局の神田眞人次長が、運営費交付金をめぐって激しく角を突き合わせたと報道された。発端は、財務省が財政制度等審議会分科会で運営費交付金の10%に当たる約1000億円を、大学の改革評価に応じて傾斜配分すると提案したことだった。

この「重点支援枠」は16年から始まり、18年は300億円だったが、これをさらに増やし、ゆくゆくは運営費交付金そのものを「競争的」にしようと目論むものといわれる。運営費交付金は毎年の1%減額で法人化の始まった04年からこれまでに約1400億円が減っており、現在1兆1000億円を国立大学で分け合わねばならない。その1割を競争的にすることの影響は大きい。

人口減少と財政逼迫(ひっぱく)に危機感を持つ財務省は、これまで学生を育て科学技術のシーズを作るだけでよかった大学に、民間的な経営感覚と大学間の競争を持ち込む施策を選択するようになった。

「多様な財源による堅固な財務体制」「生産性の高い研究システム」「つぎ込んだ血税に見合うだけの貢献」「フェアな資金配分ができる適正な評価をせよ」と神田次長は発言し、研究費は潤沢、硬直的・閉鎖的な大学状況が論文の生産性を下げているのではないかというのである。「競争を止めれば日本は人類社会から落ちこぼれ、次の世代に廃墟しか引き継げなくなる」(朝日新聞のインタビューに答えて)。

これに対し、山極氏は「法人化は失敗。財政改革として国立大学を国から切り離し、その財源である運営費交付金を削減しているのは間違い」と言い切る。「選択と集中」のもとに競争的資金を導入して「研究資金は潤沢」というのに、研究力は下がっている。大学という組織の競争のために、研究者個人の時間を無駄にしている……と主張する。この悲鳴は、現場の研究者からしょっちゅう聞く声でもある。

といいながらも、各大学は科研費など競争的資金を受けねばならず、研究拠点形成事業(COE)や世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)の設置や評価に汗をかかねばならない。大学の格付け、将来計画に大きく関わってくるからである。

今年も、国大協は政府に対し、運営費交付金の安定的確保、施設整備補助の拡充を求めているが、財務省とのねじれは大きくなるばかりのようだ。

「ノーベル賞続々」は実現するか

2001年、政府は第2期科学技術基本計画の中で「投資に見合う多数の質の高い論文が発表され、国際的に評価の高い論文の比率が増えること、ノーベル賞に代表される国際的科学賞の受賞者を欧州主要国並に輩出すること(50年間にノーベル賞受賞者30人程度)」と、知の創造の目標を明らかにした。その後の計画では、そこまで言及していないようだが、これは実現できるのか。

冒頭に述べたようなペースで見れば、可能かもしれない。しかし、現在の科学技術政策の在り方では、それは可能だろうか。ノーベル賞級の仕事は、誰も考えていないことをすることである。それは、最初には誰も振り向かない対象であり視点である。失敗の可能性も大きい問題なのだ。本庶氏の受賞対象になったPD-1という遺伝子は、当初の狙った働きを全く持っていなかったことが分かった。にもかかわらず、「なにか面白そう」と捨てずにグループで受け継ぎ、20年以上をかけて育てたものである。本庶氏のもともとのライフワークである「抗体のクラススイッチ」に関する仕事はまだ終わっていないのである。

「最近の科学では、基礎研究がすぐに金(ビジネス)につながるようになった」とは、総合科学技術・イノベーション会議のある議員の発言である。こんな発言を聞くと、科学研究と科学技術政策のギャップは大きいと思わざるを得ない。

バナー写真:ノーベル賞の授賞式で、医学生理学賞のメダルと賞状を受け取る本庶佑・京都大学特別教授(左)=2018年12月10日、スウェーデン・ストックホルムのコンサートホール(時事)

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