
歴史記憶の政治利用が進むロシア:対日認識で独自の解釈も残存
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プーチン政権で進んだ歴史の「統制」
ペレストロイカ期のソ連、エリツィン政権下のロシアでは、歴史教育において一つの史実に対して異なる解釈が存在することを知り、史料に基づいて自ら歴史を分析する能力を身につけることが重視されていた。しかし、プーチンが政権の座に就いてからは、多様な歴史解釈の幅が次第に狭まってきた。
ソ連の崩壊、経済の混乱、ロシア人とは何かというアイデンティティの模索といったさまざまな課題を抱えた中、プーチンは国民を統合する手段として、愛国主義の高揚と歴史記憶の政治利用に注目した。旧ソ連諸国で勃発した一連の「カラー革命」では、青少年層が中心となった抗議活動が行われた結果、ジョージア、ウクライナなどで政権交代が実現された。彼らは西側諸国の自由・民主主義といった価値観に理解を示し、将来的にロシアの政治基盤を揺るがしかねない存在とみなされた。そのためプーチンは青少年層を対象とした愛国主義政策を推進し、歴史教科書の内容を「正しいもの」にし、統一された歴史観の形成を掲げるようになった。
こうした歴史分野における保守化、歴史記憶の政治利用はウクライナへの軍事侵攻開始以来さらに加速し、露骨なものになってきた。まず2022年3月4日、「特別軍事作戦」におけるロシア軍の活動に関して「偽情報」を拡散した者に対して最高15年の懲役刑が科されることになった。戦果発表に異を唱えること、疑問を抱くことそのものが罪に値することが法律によって定められたのである。
23年6月20日にロシア連邦議会下院は、1945年9月3日を「第二次世界大戦終結の日」から「軍国主義日本への勝利と第二次世界大戦終結の日」と変更した。これはロシアに対する経済制裁に日本が加わったこと、ウクライナ支援の姿勢を日本政府が示したことへの反発とみられている。
さらに23年9月1日には16~18歳の青少年を対象とするロシア初の国定歴史教科書が導入された。序文には「この教程を学ぶことの最大の結果は、学生達にロシア市民アイデンティティーと愛国主義を形成することになるはずだ」と記され、国定教科書作成の目的が明らかにされている。
また諸外国ではほとんど知られていないが、23年11月2日にプーチンは「ロシア連邦大統領付属国家歴史記憶センター」と呼ばれる機関の設立に署名した。同機関では「特別軍事作戦」におけるロシアの行動を正当化するほか、第二次世界大戦中の日本とドイツの対ソ侵略性を示す史料を公開するなどしており、プーチン政権下における「正しい歴史認識」の形成、歴史記憶の政治利用に一役買っている。
ロシアの歴史認識の特徴:欧州
日本や欧州諸国では、1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約と秘密議定書に基づいてドイツとソ連がお互いの「影響圏」を設定し、これに基づきドイツがポーランドに軍事侵攻を開始した9月1日が第二次世界大戦の始まりとされている。
一方ロシアでは、その起源は38年9月30日に締結されたミュンヘン協定にあると認識されている。この会談では英仏両国がヒトラーに対して融和的な態度をとり、ドイツ系住民が多数を占めるチェコスロヴァキア(当時)のズデーテン地方を割譲することによってドイツのこれ以上の膨張を止めようとしたものだ。ただし、ソ連にとっては英仏の融和政策はドイツの侵略をソ連に向けるためのものだったとされている。こうした歴史認識は、ロシア初の国定歴史教科書にも明記されている。
また欧州との関係において特徴的なのは、独ソ不可侵条約の締結を外交的勝利であったとしていることだ。この点は慎重に評価する必要がある。歴史を振り返ると、ドイツの東方への更なる膨張を懸念したソ連は、39年4月17日に英仏両国に対してドイツを対象とした軍事同盟の締結を打診したが、両国とも消極的な態度を示すのみであった。特に英国は共産主義への嫌悪から、ソ連からの打診に乗り気ではなかったといわれる。同年8月10日、遅ればせながら英仏軍事使節団がモスクワに到着するが、英国代表団は本国政府からの信任状すら持っておらず、何の権限も有していなかったことが今日明らかにされている。
ミュンヘン協定の締結以来、英仏両国に対する不信感を強めており、また当時満洲国とモンゴル人民共和国との国境紛争(ノモンハン事件)が拡大するのではないかという懸念を抱えていたスターリンは、ソ連にとって最も避けたい東西二正面戦争の脅威から脱するためにドイツとの不可侵条約に踏み切り、欧州方面の安全を確保した上でノモンハンの戦闘に注力することができたと推察される。
このように、当時の国際情勢においてソ連が置かれていた立場を考えると、スターリンの決定は冷徹なリアリズムに基づくものであり、きわめて現実的な選択とも考えられる。このことについては諸外国の研究者も指摘しており、独ソ不可侵条約に対するロシアの評価を、政治利用を目的とした「正しい歴史認識」や「プロパガンダ」として安易に切り捨てることができないことも事実である。
問題なのは、不可侵条約の秘密議定書に基づいて一方的に影響圏とした国々の人々に対して行った蛮行については目をつむり、あくまでソ連軍を「解放者」の視点で捉えている点にある。国定教科書ではこのことが無視されており、バルト三国ではあくまで民主主義に基づいた選挙が実施された上でソ連軍が進駐し、公正な選挙の結果共産主義政権が樹立され、彼らの自発的意思によってソ連への加盟が実現したという、事実と全く異なる記述がなされている。
ロシアの歴史認識の特徴:日本
ソ連時代から現在のロシアにかけての対日歴史認識で最も特徴的なのは、日本は「田中上奏文(田中メモランダム)」と呼ばれる文書に基づいて大陸侵略政策を行ってきたとするものである。「田中上奏文」とは1927年6月27日から7月7日にかけて、田中義一内閣が開催した対中政策をめぐる「東方会議」の後、7月25日に田中本人が昭和天皇に提出したとされる文書である。
同文書には日本は満洲・モンゴルに続いて中国を征服する必要があること、世界を征服するためには何より中国を征服しなければならないこと、そして満洲北部地域におけるソ連との衝突が不可避であるとの記述が確認される。
もっとも「田中上奏文」は日本語の原文が不在であること、文中に明らかな事実誤認が散見されることなどから「偽書」であることが日本の歴史研究では通説となっている。にもかかわらず、いまなおロシアでは戦前・戦時中の日本の対外政策は「田中上奏文」に記された壮大な大陸侵略プログラムに基づいて実施されたと解釈されている。
ロシア対外情報庁(SVR)編さんの『ロシア対外諜報史概説』、ロシア国防省編さんの『大祖国戦争 1941-1945』、そして2023年9月に導入された国定教科書『世界の歴史 1914-1945』でも「田中上奏文」は実在する文書として扱われている。プーチン政権の掲げる歴史認識では、日本は恐るべき侵略性を有した陰謀国家として捉えられている。
次に特徴的なのは、戦時中の日独関係を過大評価している点であろう。すなわち、日本はドイツと連携してソ連を攻撃する機会をうかがっていたとする見方である。確かに独ソ開戦後、リッベントロップ独外相は日本の対ソ参戦を要求したが、ヒトラーが日本に望んだのは英米両国のけん制であった。また日本とドイツが防共協定にしたがってソ連情報を交換していたのは事実だが、両国の軍部が共同して対ソ軍事作戦を計画することはなかった。しかしこの点も、現在のロシアの歴史研究では無視されている。
中ロ連携した「歴史戦」の可能性も
昨年(2024年)5月16日、国交樹立75周年を記念しての中ロ共同声明でプーチン・習近平両首脳は「双方は正しい歴史的記憶、第二次世界大戦時のファシズムとの戦いの記憶を冒瀆(ぼうとく)、破壊することを許さない」と述べた。また今年1月31日、ロシア外務省のザハロワ報道官は「われわれは、再び日本の軍国主義の歴史的犯罪を明らかにするテーマに取り組みたいと思う」と発言しており、ロシアは日本を含む諸外国に対する歴史戦を従来よりも積極的に行うことを明らかにした。
ロシアの中国、北朝鮮との戦略的パートナーシップの分野は今や歴史の領域に及んでおり、これら2カ国と連携して彼らにとって「正しい歴史認識」の流布が大々的に行われることは想像に難くない。わが国に対しては、日本の対ソ侵略性を内外にアピールするための研究文献、史料集が刊行されること、ロシアと歴史認識を共有する国々の有識者を招いてのイベントの開催などが予想される。歴史の政治利用は許さない、事実と異なる点を認めるわけにはいかないという毅然(きぜん)とした態度が求められる。
バナー写真:昨年の対独「戦勝記念日」の軍事パレードで演説するロシアのプーチン大統領=2024年5月9日、モスクワ(スプートニク=共同)