「競合」と「共闘」が併存:世界の中の印中関係
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21世紀に入ってからの20年あまりの中で大国関係に生じた変化を一つ挙げるとすれば、それは中国とインドの台頭ということになるだろう。改革開放政策を続けてきた中国は2002年に世界貿易機関(WTO)に加盟し、08年には北京でオリンピックを開催、GDPでは10年に日本を抜いて世界第2位の経済大国に踊り出た。一方のインドは、経済自由化路線に着手したのは1991年と中国よりも10年以上後だったが、2000年代半ばから高成長に入り、22年にはGDP世界第5位にまで成長した。また人口面では、国連の推計によると23年時点でインドが14億2860万人で世界1位となったが、中国も14億2570万人と、ほぼ同水準にある。両国が世界の総人口に占める割合は約35%にもなる。軍事大国であることも共通している。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は、2022年の世界軍事費ランキングで中国を2位(2920億ドル=推定)、インドを4位(814億ドル)としている。
では、この二大新興大国はいかなる関係を築いているのか。国境問題や南アジアでの勢力争いに注目が集まることが多いが、対立一色なのか。そしてアジアや世界にとって印中関係はいかなるインパクトをもたらすのか。本稿は歴史的背景も踏まえつつこうした点について考察することで、印中関係を二国間だけにとどまらない、より大きな文脈の中で論じていこうとするものである。
国境をめぐり対立深まる一方で経済関係は拡大
インドの英国からの独立は1947年、中華人民共和国の成立は49年と、両国は第二次世界大戦後に新たな国として歩みを始めた。当初、印中は友好関係にあり、アジア・アフリカの連帯推進という点でも一致していた。しかし、国境問題の顕在化に加え、59年にチベットのダライ・ラマ14世がインドに亡命する事態も起き、印中関係は困難な局面に転じていく。62年には中国が東部の係争地域に侵攻し、不意を突かれたインド側は敗北を喫した。このとき以来、印中関係は冷却化した状態が続いた。
80年代に入ると事務レベルで国境問題に関する協議が再開し、88年にはラジーヴ・ガンディー首相の訪中が実現するまでになった。90年代には国境における信頼醸成に関する協定が結ばれるなど、関係改善が進んだ。98年にインドが核実験を行った際、ヴァジペーイー首相がクリントン米大統領に宛てた書簡で、実験に踏み切った理由として中国の脅威を挙げていたことが明らかになり、一時的に関係が悪化したことはあった。それでも2003年のヴァジペーイー首相訪中では、国境問題について双方がハイレベルの特別代表者を指名して協議を行うことや、インドによるシッキム領有を中国が事実上承認したこと、インドが「チベット自治区は中国領土の一部である」との認識を示すなど、歩み寄りが見られた。05年の温家宝首相訪印には、「平和と繁栄のための戦略的協力パートナーシップ」構築が発表された。
しかし、08年ごろから国境地域における中国側からの越境事案がインドメディアで盛んに報じられるようになり、対中警戒感が徐々に高まっていく。14年に就任したモディ首相は同年9月に習近平国家主席をインドに招き、両首脳は印中関係の強化で一致した。それでも国境の現場では、両国軍が長期にわたって対峙し、沈静化するまでに時間を要する事案が複数発生した。17年6月には、印中に加えブータンも関わるドクラムという地域で対峙事案が起きている。20年夏には西部国境地域のガルワーン渓谷で両国軍の対峙が武力衝突に発展し、双方に死者が出る事態にまでなった。
国境問題をめぐる対立が激しさを増す一方で、印中を結びつける重要な要素となってきたのが経済関係である。特に拡大が顕著なのは貿易で、インド商工省の統計によると、2007年度に380億ドルだった印中貿易総額は22年度には1138億ドルと、15年で3倍になった。13年度以降、インドにとって中国は、米国と並び最大の貿易相手国であり続けている。ただし内訳を見るとインドの大幅な輸入超過になっており、対中貿易総額の拡大に伴って貿易赤字も増加している。また、インドでは投資の分野でも中国を想定した規制が施行されているほか、安全保障上の懸念を理由にTikTokをはじめとする中国製のスマートフォンアプリを禁止する措置もとられている。
地域とグローバルレベルでも「対立」と「協力」が併存
インドの対中懸念で重要な部分を占めるのが、南アジア・インド洋地域における影響力の拡大である。2013年から推進する広域開発構想「一帯一路」の下、中国はインドの周辺国で大規模なインフラ整備プロジェクトや資金協力を実施している。特にパキスタンでは、中国の新疆ウイグル自治区とアラビ海に面した港湾都市グワーダルをつなぐ「中国・パキスタン経済回廊(CPEC)」の建設が進行中である。インドとしては、パキスタンは過去3度にわたり戦火を交えてきた国であるとともに、CPECは自国が領有権を主張するカシミール地方を経由することから、この構想の推進に強く反発している。
これに対し、インドも独自の地域開発構想を掲げている。「ベンガル湾多分野技術経済協力イニシアチブ(BIMSTEC)」や「環インド洋機構(IORA)」の活性化はその例である。しかし、この地域の地政学的状況は必ずしもインドにとって好ましいものばかりではない。東南アジアとのコネクティビティ(連結性)や経済関係の強化を図る「アクト・イースト政策」は、21年2月にミャンマーで発生した軍事クーデターによって再検討を余儀なくされている(これについては、日本も協力するかたちで行われているバングラデシュのマタバリ港開発プロジェクトが代替策として注目されている)。西に目を転ずれば、イラン東部のチャーバハール港を開発してアフガニスタン、さらには中央アジアへのアクセスを図る構想もあった。しかしこれも、21年8月にアフガニスタンでタリバーン政権が復活したことで、港湾の開発は別にしても、当初の目論見は頓挫している。
インドは日米豪とともに「クアッド」を形成したり、「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」構想に支持を表明したりする一方で、中国主導の地域機構や中国もメンバーとなっている複数国間(プルーリラテラル)の枠組みにも加わっている。15年に発足したアジアインフラ投資銀行(AIIB)には創設メンバーとして参加しているし、中ロおよび中央アジア諸国で構成されていた上海協力機構(SCO)には05年にオブザーバーとして加わり、17年には正式加盟国となった。また、09年から首脳会議が始まったBRICSや「ロシア・インド・中国(RIC)」での関係も維持している。
グローバルなレベルではどうだろうか。インドは国連安保理常任理事国入りの意欲を表明しており、米ロ英仏の四常任理事国は基本的に支持している一方、中国からは明確な支持が得られていない。常任理事国拡大は安保理改革に直結することに加え、中国としては自国の特権を相対化することになりかねないインドの常任理事国入りには慎重にならざるを得ない。こうした状況のなかで、インドがG20を重視し、23年には議長国として並々ならぬエネルギーを注いだのも、主要な先進国と新興国が一堂に会するこのフォーラムであればイニシアチブを発揮できると考えたのではないだろうか。
印中はグローバルサウスの「盟主」の座をめぐってもつばぜり合いをしている。23年1月と11月、インドはオンライン形式で「グローバルサウスの声サミット」を開催した。自国が議長国を務めるG20で各国の「声」を伝えることで、グローバルサウスの代弁者たらんとするものだった。実際、9月にニューデリーで開かれたG20首脳会議ではアフリカ連合(AU)の加盟を提案・実現したほか、共同宣言に食料やエネルギー問題といったグローバルサウス諸国の見解を反映させることもした。
一方、中国は同様のサミットこそ開いていないが、G20直後にキューバで開催された「G77+中国」サミットに李強首相が出席し、160以上の国と開発協力を進めているとして実績を強調した。また、10月には「一帯一路」国際協力フォーラムを北京で開催し、習近平国家主席が、自国だけではなく開発途上国を含む各国と協力して現代化を実現していくとの考えを示した。
ここでも印中は競合一辺倒ではなく、共闘する場面も見られる。気候変動対策はその一例である。経済成長の一方で巨大な発展途上国としての顔を持つ両国は、石炭を主要なエネルギー源としている。21年に英グラスゴーで開かれたCOP26で石炭火力発電が議論された際、議長国の英国はじめ欧州が合意文書に将来の「全廃」を盛り込もうとしたのに対し、インドと中国が共同歩調を取って「段階的削減」にとどめた。印中という二大新興国が連携することでグローバルな課題の趨勢を左右できることを証明してみせた例であり、世界のパワーバランスが確実に変わっていることを示すものと言えるだろう。
バナー写真:BRICS首脳会議の記者会見に臨んだ習近平・中国国家主席(左)とモディ・インド首相(右)。中央は南アフリカのラマポーザ大統領=2023年8月24日、ヨハネスブルグ(Sputnik/共同通信イメージズ)