日本的雇用システムを創造的に回顧する: 企業内民主化の再構築に向けて
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歴史的時間軸の不在
日本的雇用システムに対する風当たりが強い。日本経済停滞の理由として、雇用システムはその主犯としてあげられている。かつて80年代まで日本的雇用システムは、日本経済の競争力の源泉として評価されていたが、90年代半ば頃には「成果主義」改革が叫ばれ、そして現在も、ジョブ型、タレントマネジメント、人的資本経営などの次々と新しい人事用語が生まれ、制度改革の必要性が叫ばれている。
落ち着いて「90年代の改革と現在の改革にどのような連続性があるのか、または違いがあるのか」と問うことから歴史研究ははじまる。そしてわれわれは、日本的雇用システムの歴史認識を獲得することによって、その現在地を掴むことができるのだ。
ところが、私には、こういう「考えるべき問い」も成り立たないほどに人びとは猛烈な勢いで忘れているように見える。未来の言葉を使うことに熱心であるが、過去-現在-未来という歴史的時間軸が不在なので、次々に同じような人事用語が生まれてくる。
もちろん、これまで人事改革案に共通項を探すことはできる。従来の日本的雇用システムを年齢主義と位置づけ、それから脱却すべきという主張である。例えば、次のような代表的な批判をあげてみよう。
「配置・昇進・昇給などの処遇管理においても、できる限りそれを能力観発・発揮に対する意欲喚起のための刺激(インセンティブ)とすることが重要な課題である。年功制は一つにはインセンティブを欠く点で問題なのである。」
この年功制=年齢主義批判は、いつ、だれが主張したものであろうか。実はこの文章は、1969年に日経連が刊行した『能力主義管理-その理論と実践』からの引用である。高度経済成長の最後に発表された報告を昨日発表されたと紹介しても、まったく違和感がない。
年齢主義批判には、その根拠となる事実確認が曖昧なのである。なぜなら、過去の歴史は主要な人事制度の変遷ではなく、日本の雇用システムが「宿命的」と言えるような日本の伝統に根付くものに見えているからである。
「終身雇用」「年功序列」という一般向けに分かりやすい言葉で、現在にも続く日本的雇用システムのイメージを定着させたのは、1958 年に刊行された『日本の経営』(“The Japanese Factory”)である。この本の著者であるアベグレン(James C. Abegglen)が、人類学のトレーニングを受けた人物であることは象徴的である。すなわち、正確な人事制度の記述は広く人びとに受け入れられず、曖昧ではあるが、個人と組織との間に存在する共通感覚を(ある意味で見事に)表現した言葉の方が広く使われ続けてきた。
年齢主義、もしくは日本独自の企業共同体という解釈は、たしかに一面の真実であるが、その解釈はあまりにも文化決定論である。それゆえに、結果的にわれわれから「歴史的時間軸」を奪っているのだ。
<社員>の誕生
私は、今年(2023年2月)に、『日本的雇用システムをつくる1945-1995:オーラルヒストリーによる接近』(東京大学出版会)を刊行した。この本は、100名近くの歴史の当事者たちに対して実施してきた200回を超えるインタビューの記録を使った分析によって「歴史的時間軸」を取り戻すという試みであった。
この本の歴史叙述の起点を1945年にしたのは理由がある。敗戦後、米国のGHQの行った民主化政策の一つに労働改革があり、45年12月に団結権・団体交渉権・争議権を保障する労働組合法が公布されると、労働組合が大量に結成された。
結成されたばかりの労働組合は、これまで蓄積された不満を爆発させるように、対外的に激しい運動も展開した。この運動の一つの大きな目標が、戦時中まであった職員(ホワイトカラー)と工員(ブルーカラー)の身分差撤廃であった。それまで、職員と工員は月給と日給のように賃金体系が異なるし、食堂や工場入り口まで明確に区別されていた。このエリートとノン・エリートの身分差は、これまで抑圧されてきた不満を蓄積しており、労働組合の誕生とともに、その撤廃に向けて組合運動が爆発したのである。
ところで、この身分差撤廃は、一つの民主化運動ではあるが、欧米とは違う雇用社会を生み出したと言えよう。欧米の労働組合が、職員と工員がそれぞれ別の組合を結成し、それぞれの立場から労使交渉をするのに対して、本来別の雇用区分であり、利害対立も生まれることもある職員と工員が一つの労働組合に加盟するという<労働者性の曖昧さ>を生み出すことになった。とはいえ、この時点で初めて職員や工員とも違う、むしろ両者を含む<社員>という集団が会社内に誕生したのである。
かつて労働経済学者の小池和男は、賃金プロファイルの国際比較を行い、巷間言われているように、日本だけが、年齢・勤続とともに賃金が上がる構造があるのであるのではなく、欧米も、ホワイトカラーに限定すれば、年齢・勤続と賃金の間の相関関係は観測できることを指摘した。日本の特徴とは、ブルーカラーにおいて年齢・勤続とともに賃金が上がる傾向が発見できることであった。ブルーカラーは徐々に難しい仕事に変わることで、昇進し、賃金を上げるというキャリアパスを<社員>として獲得したのである。小池和男は、その傾向を「ブルーカラーのホワイトカラー化」と呼んだ。
自前の人事制度
もちろん社員という社内集団は、はじめから会社内に位置付けられ、評価処遇されていたわけではない。<社員>の誕生後、つまり職員との壁が崩れた後、元・工員の意識は、もっと上へ、上へという企業内地位の獲得へと向かった。そのような集合的な欲望に新しい人事制度が応えられなければ、かつてよりもっと激しい不満を生み出すことになったであろう。実際、1960年代中頃までは労使の対立は激しかった。
60年代以降に積み上げられた労使協議は、こういう社員群に対して新しい人事制度を生み出すために行われたのである。そして、長い時間がかかったのは、利害対立の中で、共有できる価値観や多くの人が納得できる制度が簡単には見つからなかったからである。
例えば、社員という集団は社内序列基準によって位置付けられ、評価されなければならない。<年功序列>という言葉は、ステレオタイプ化によって間違った認識を生んでいる。日本企業では、身分差が撤廃されたからこそ、入社時点から学歴と対応したエリートとノン・エリートの明確な区分が存在する欧米企業とは全く異なる競争環境が生まれた。欧米企業では、ホワイトカラーにおいて激しい競争があったとしても、ブルーカラーにおいては激しい競争はなかったのである。
競争の基準としては、共有できる能力観を構築し、それに基づいてランクヒエラルキーを設置し、配置転換、抜擢を行う運営体制、さらに賃金決定をするための人事評価の基準を決める必要があった。このような人事制度の有用性は明らかであるが、それらを完成させるには、まず労使の<相互信頼関係>が構築されなければならず、さらに機会や評価の平等とは何かという問いに対して労使で合意を見つけられなければならなかった。
ここで代表的な人事制度を紹介しよう。50年代から60年代まで日本企業は職務給導入を推進しており、「職務」を職場秩序の構成原理としようとしていたが、この「職務主義」の時代は、職場を科学的に見るという経験を蓄積させたが、欧米からの借り物の概念だけでは、トータルな人事方針を立ち上げることはできなかった。職務分析の経験で得た知見を活かしながら、70—80年代、日本企業独自の人事施策として導入されたのが、職能資格制度と職務給であった。この時、日本企業は、「職能=職務遂行能力」という自前の能力概念を構築した。
この「職能」という能力概念を外国企業に向けて説明するのは難しい。そもそも企業内資格制度や能力給という人事制度は終戦直後にも確認できる。では、「職能」とそれまでの能力の何が本質的に違うのであろうか。日本企業は、この能力基準の合意方法を中央集権的な管理部門や外部の人事コンサルタントに任せるのではなく、職場のベテラン労働者に任せた。労働者が自社の仕事を書き出し、それらの仕事に求められる能力を序列化していくという下からの自生的秩序であった。管理部門、さらには労働組合の関与は、職場における自生的秩序の発生を促すかぎりにおいて、その役割が肯定されたと言えよう。
企業民主主義の達成の後に
上記のように自ら生み出した職場の秩序は、平等な仕事配分の機会とは何か、公平な賃金格差とは何かという問いに対する日本の雇用社会が自ら出した「答え」であった。これは、戦後日本社会における一つの民主化の達成である。
もちろん、企業内民主化は、企業共同体ゆえに歪んでいると批判されてきた(※1)。その競争は、自生的ではあったが、激しすぎたともいえよう。ただし、そのような問題点は企業内民主化の一側面であるが、批判者であっても、欧米企業のように入社時点でエリートとノン・エリートを明確に分けるべきだとは思っていない。かりに思っていても公では言いにくいのだ。
90年代から制度改革が終わらない理由も、入社時点の身分差を否定した、新しい社内能力序列の構築という達成が、雇用システムの岩盤として肯定されているからであろう。入社時点のエリートとノン・エリートの区別がなければ、結果的に企業内競争の参加者が多くなり、「遅すぎる昇進競争」という年齢主義にならざるを得ない。
さらに欧米の企業の人事制度を導入する際も、そもそも制度改革が対象とする人材がずれている。日本企業の社員は、エリートもノン・エリートを含むので、エリート対象の人事制度もノン・エリート対象の人事制度も日本企業内では当てはまりが悪い。部分的な制度改定だけでなんとかこの課題を解決しようと思っても、岩盤としての企業内民主化は変えられないので、この30年間制度改革が着地できないのだ。
私は、社員を再び分断せよという急進改革主義者でも、職能主義に戻れという復古主義者でもない。この課題解決のためには、能力、平等、公平という概念を考え直し、新しい企業内民主化を下から再構築するしかないのだ。そのためにわれわれは、日本的雇用システムをとことん創造的に回顧しなければならないと腹を決めるしかないのではないか。
バナー写真:三井物産のストライキ=東京都港区西新橋の三井物産本社、1965年6月24日(時事)
(※1) ^ 代表的文献として以下の研究がある。Gordon, A. (1985) The Evolution of Labor Relations in Japan: Heavy Industry, 1853-1955, Harvard University Press. (二村一夫訳(2012)『日本労使関係史 1853-2010』岩波書店)