選挙を阻む「民主主義」~タイにおける権威主義とその現在
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軍事政権に乗っ取られた選挙
2014年5月の軍事クーデタ―以来、タイは実質的に軍事政権の影響下にある。19年には民政復帰をうたって国会総選挙が行われたが、軍事政権は自らに有利に設計された選挙制度の下でパラン・プラチャーラット党(PPRP)を形成し、政党として国会に進出した。PPRPは他党と連立を組み、軍事政権の首班であったプラユット・チャンオーチャー元陸軍司令官を首相に指名して権力の座に留まった。
事実上の軍事政権に反対する人々は、完全な民政復帰を求め抵抗を続けている。下院は、憲法の規定に基づき23年3月に任期満了を迎え、5月までには選挙が行われる予定だ。次期選挙では野党タイ貢献党の優勢が予想されるが、PPRPが権力に留まる可能性は否定できない。19年に公正な選挙を妨げた要因が依然として存在するためである。
前回の下院選挙では、憲法裁判所が野党に不利な判断を下し、選挙から退場させることが続いた。次回タイ貢献党が無事に選挙に臨み下院の過半数に迫ったとしても、自党から首相を出すのは難しい。現行の制度では、首相指名選挙は民選の下院議員500名と、軍事政権が任命した上院議員250名を合わせた両院合同会議で行われる。PPRPは単独か連立で下院の126議席を確保すれば、両院合計の過半数議席を得て首相を指名できる。「政府が自由で公正な選挙で選ばれるか否か」で政治体制を権威主義と民主主義に分類するのであれば、タイは当面のあいだ権威主義体制として留まるだろう。
「国王を元首とする民主主義体制」下での選挙
現在のタイは、選挙を統治の仕組みとして取り込んだハイブリッド型の権威主義体制である。しかし、かつてタイでも選挙による政権交代が安定的に行われ、民主主義が定着したと言われた時代があった。図1は「民主主義の多様性」(Varieties of Democracy)プロジェクトが作成したタイの「民主主義指標」の推移を示したものだが、1992年から2005年の間は、公正で自由な選挙の実施を示す「選挙民主主義」指標をはじめ、すべての指標で過去40年のうち最高のスコアを記録していたことが分かる。
奇妙なことに、タイはこの「民主主義の時代」以前から現在に至るまで一貫して「国王を元首とする民主主義体制」という体制を称している。観察される政府の行動は異なるにもかかわらず、タイ政府が自称する政治体制に変化はない。筆者は、現在の権威主義化の契機が1970年代末から90年代にかけて確立したこの「国王を元首とする民主主義体制」にあると考える。
「国王を元首とする民主主義」とは何か。タイ政治研究者の玉田芳史は選挙とクーデターとを等しく政権交代の手段として認めるロジックだと分析する。これは1959年に成立したサリット・タナラット軍事政権(59-63年)が提唱し、78年からは歴代の憲法にタイの政治体制として明記されてきた。国王は議会政治の混乱が深刻化するとクーデターによる政権交代を認め、民政復帰を委ねるかたちで軍事政権に正当性を与える。しかし国民の軍政に対する批判が高まると、国王は民主化勢力を支持して軍の退場を促してきた。
この体制は、「民主主義の擁護者」としてふるまうラーマ9世プミポン・アドゥンヤデート国王の存在と、国王に対する国民の支持との上に成立してきた。プミポン国王は、73年の市民によるタノーム軍事政権退陣要求運動(10月14日事件)や、92年のスチンダー軍事政権と民主化要求勢力との衝突(暴虐の5月事件)といった政治的危機に際し、関係する各勢力に事態の収拾を呼びかけ、民政復帰を促すことで国民から絶大な支持を得た。同国の政治学者カシアンは、プミポン国王が国軍、政党政治家、財界といったエリート間のバランサーとなることでその地位を維持してきたと指摘し、この体制を「プミポン・コンセンサス」と呼んだ。
90年代はタイで選挙による政治交代が最も安定的に行われた時代だった。しかし歴史学者のトンチャイは、当時の政治体制を「一見、議会制民主主義の体裁をとるが、実際には選挙によって選ばれた権力が、王室およびその支持者の政治的な影響と積極的な介入の下に置かれていた」と指摘し、「王党派民主主義」(royal democracy)と呼んだ。この時代は国王の介入を要する事態が発生しなかっただけであり、国王の権限に法的制限が加えられることはなかった。むしろ国民は政治介入する国王を「民主主義の擁護者」として支持したとトンチャイは強調する。
トンチャイやカシアンの批判を踏まえれば、90年代のタイの選挙民主主義はそれ自体で存立したのではなく、国王、国軍、国民をはじめとする政治勢力の均衡の下に成り立つ限定的な政治体制だったということになろう。
二つの「民主主義」の対立
「国王を元首とする民主主義体制」は、選挙による政権交代を認めるものの、クーデターや国王の政治介入を制限するものではなかった。選挙とクーデターの相克関係が露呈したのが、2000年代の政治対立であった。そのきっかけとなったのが、タクシン・チンナワット元首相である。タクシンは、多数派である低所得層や地方住民をターゲットに分配政策を訴え、2度の国政選挙で地滑り的勝利を果たした。
タクシンの支持者は、自分の求める政策を選ぶ手段として選挙を重視するようになった。対照的に数で劣る中間層や都市住民は、タクシンが選挙制度を濫用して多数派を形成し、自分たち少数派を排除していると考えた。そして「衆愚政治化」した選挙を否定し、「悪しき」民選政権を排除して国王の政治介入を求めた。タクシンの「数の政治」は、官僚・国軍や王室、王室を支持する上層の目に「国王を元首とする民主主義」下の均衡を崩す脅威として映った。彼らは反タクシン派に加担し、2度の軍事クーデターと3度の憲法裁判所判決でタクシン派政権を排除した。
14年の軍事クーデターは、それまでの勢力均衡を超えて拡大した選挙民主主義勢力を抑え込み、「国王を元首とする民主主義体制」を安定させることを責務としていた。クーデター政権下で公布された現行の2017年憲法は、憲法改正手続きを厳格化したうえ、大政党の成立を難しくする選挙制度や軍事政権に有利な首相指名制度を導入した。そしてプラユット軍事政権は政党に衣替えし、選挙によって選挙民主主義を抑制しようとした。
しかし、プラユット政権によるこうした露骨な政策はかえって現体制への反感を喚起し、王室を含め政治体制を改革しようとする勢力を新たに生み出した。20年に激化した若年層による反政府運動は、「国王を元首とする民主主義体制」に真っ向からノーを突きつけ、法の支配の貫徹と自由で公正な選挙を求めたのである。
選挙民主主義安定への見通し
プラユットやPPRPは与党として議会を支配すると同時に、反政府運動を司法と暴力で抑圧した。強大化した選挙民主主義勢力を国会の内外で抑え込み、「国王を元首とする民主主義体制」の安定を目指す方針は今も継続している。2023年の下院選挙が迫るなか、プラユットやPPRPは政権維持を目指し活動を活発化させている。しかし、仮にプラユットや選挙でPPRPが政権に留まったとしても、その権力には「タイムリミット」がある。
現行の2017年憲法は、首相指名に上院が加わる仕組みを5年間の経過的措置と規定する。19年の総選挙後に国会が初招集された日から起算すれば、24年5月には下院議員のみで首相選出が可能になる。過去に選挙で圧倒的な強さを示してきたタクシン派の流れを汲む野党タイ貢献党にとって、居ながらにして政権奪回のチャンスが回ってくるのだ。制度が変更されれば、同党は下院だけで首相を選び直すべく、内閣総辞職や解散・総選挙を要求するであろう。
もしタイ貢献党が政権を奪還した場合、タイは再び選挙による政権交代が安定的に続く時代に戻れるだろうか。残念ながらその見込みは薄い。クーデターによる政権交代や国王の政治介入の余地がまだ残されているためである。16年にプミポン国王が死去したのちも、タイは依然として「国王を元首とする民主主義体制」を掲げてきた。現行の憲法の下では、国民が望んでいると判断すれば国軍はクーデターで政治に介入し、国王がそれを承認して国軍に権力を委任する可能性は否定できない。
それを防ぐためには、憲法によって国王の権限を制限し、クーデターを違法化して国軍の介入を阻止することが必要である。こうした措置がなければタイの選挙民主主義は自立できず、国王や国軍の許容する範囲で限定的に行われるものに留まり続けるだろう。20年の反政府運動が主張したように、王室を含む政治体制改革なくしてタイの選挙民主主義は安定しえない。
しかし、現在国会内でこうした政治体制改革を求める勢力は少数派である。PPRPとその連立パートナー政党はもちろん、タイ貢献党も王室を含む政治体制改革については一貫して慎重な姿勢に留まってきた。21年に憲法裁判所が反政府活動家に対し「国王を元首とする民主主義体制」の破壊を禁じた憲法49条違反の判決を下したことで、改革を主張するリスクは一層高まった。選挙戦で政治体制改革を前面に打ち出せば、違憲判決で解党される可能性もある。タイの選挙民主主義を安定させるための処方箋はシンプルだが、その実現への道は遠く長いものになるだろう。
バナー写真:タイでのAPEC首脳会議開催に合わせ、プラユット首相の退陣を求めて三輪タクシー(トゥクトゥク)の隊列を組んで抗議デモをする市民ら=2022年11月15日、バンコク市内(AFP=時事)