安倍政治を振り返る

挑戦者としての安倍晋三

政治・外交

安倍晋三元首相の業績を振り返ると、彼が既存の政策、政策立案の枠組みに挑戦し、新しい枠組みを構築してきた政治家だったことが浮き彫りになる。

「遺産」が安保戦略の中心に

2022年12月16日、岸田内閣は国家安全保障戦略を閣議決定した。この戦略の中で「反撃能力」を保有することや、27年度に防衛予算をGDPの2%に拡大することを打ち出したことが注目された。

あまり報じられていないが、同戦略ではインド太平洋を日本が重視する地域とし、「自由で開かれたインド太平洋」というビジョンを追求することを合わせて打ち出した。このために日米豪印4カ国の協力枠組み=クワッドを活用することも明記した。

「自由で開かれたインド太平洋」構想やクワッドは安倍晋三元首相が考案した。その着想は国家安全保障戦略として日本の安全保障政策を規定する政策に取り込まれた。安倍氏の残したレガシーである。

安保政策で指導力発揮できる官邸へ

安倍元首相は昨年7月8日に奈良県で参議院議員選挙の応援演説中に銃撃され、亡くなってしまう。

「自由で開かれたインド太平洋」構想やクワッド以外にも数々の政策を立案し、その多くが菅、岸田両内閣に継承されている。ここでは安倍氏がどのような政策を手掛けたのか改めて振り返りたい。その際、特に、安倍氏が挑戦者だったという観点に立ちたい。つまり、これまでの政策、政策立案の枠組みにしばしば挑戦し、新しい枠組みを構築しようとしたということである。安全保障政策の分野から、兼原信克氏の論考も参考にしながら論じたい。

まず、新たな政策立案の仕組み導入について述べる。1994年の政治改革や2001年の省庁再編により、日本の政治過程における首相の指導力は高まった。01年以降、首相は内閣官房や内閣府を活用して複数の省庁が関係する政策を自らの考えを反映させる形でより効率的に立案できるようになった。しかし、安全保障政策の立案は主要官庁である外務省や防衛省の調整を含め、十分指導力を発揮できる体制が整っていなかった。

そこで安倍氏は、13年に安全保障会議を国家安全保障会議に改変し、14年には内閣官房に国家安全保障局を設置。首相がより指導力を発揮できる仕組みを導入した。

集団的自衛権解禁

兼原氏が外交・安全保障政策面で「安倍元首相の遺産」として指摘するものは、やはり既存の枠組みに対する挑戦として手がけたものである。

具体的な政策で重要な意味を持つのは従来の憲法解釈を見直し、一定の条件のもとで集団的自衛権行使を可能にしたことである。首相は2006年に発足した一次政権の時にこの試みを開始し、この結果、日本の安全保障政策の幅は大きく広がった。

また「自由で開かれたインド太平洋」構想について説明すると、この戦略的概念が出てくるまで、東南アジアを含む東アジアおよび太平洋周辺地域は「アジア太平洋」として、一体的に扱われることが多かった。安倍氏はこれに代えて「アジア太平洋」とインド洋周辺地域も一体的に考えるべきだと提唱。これも、従来の考えにとらわれない新たな視角であった。

 そして安倍氏は、「自由で開かれたインド太平洋」構想の実現を推進するためのクワッド=日米豪インド4カ国の協力枠組み=創設を呼びかけた。日本が、主要国が参加する協力枠組みを主唱することはあまり例がなく、これも日本外交としての挑戦と言えるものだった。

貿易の自由化や投資のルール化の推進

安倍氏は経済連携協定の締結などを通じて貿易の自由化や投資のルール化も推進した。この中で重要なものは13年にTPP交渉に参加したことと、17年に米国がTPP協定を離脱したのちに、残りの11カ国間の再交渉を主導し、18年3月にCPTPP協定の署名にこぎ着けたことであろう。

安倍氏はTPP交渉の事務局を内閣官房に担わせた。このことにより、関係省庁をまとめる形で交渉を進めることや国内調整を同時に進めることが可能になった。日本が国際経済交渉を主導することはこれまでに稀であり、CPTPP交渉を主導したことは画期的である。

金融緩和でデフレ解消に挑戦

次に内政を見ていきたい。

最大の挑戦として記憶されるのはアベノミクスを掲げ、日本銀行に大幅な金融緩和政策を促したことであろう。日本は1990年代以降デフレに悩まされてきた。安倍氏は2012年の総選挙で、政府と日銀が連携した「大胆な金融緩和」を行うと公約した。13年1月に両者は共同声明を発表し、日銀が消費者物価の上昇率を2%とすることを目標として盛り込む。3月には黒田東彦アジア開発銀行総裁を日銀総裁に任命する。日本銀行は4月に「量的・質的金融緩和」を開始し、以後、金融緩和政策を継続する。

安倍首相は「民間投資を喚起する成長戦略」の名の下にコーポレートガバナンス改革や農政改革などにも取り組んだ。コーポレートガバナンス改革では上場会社などに社外取締役の導入を強く促し、最終的には2019年に会社法を改正し、社外取締役の必置義務を課した。経団連や一部の有力企業は社外取締役の導入義務化には元々は消極的であり、この改革も従来の企業のあり方への挑戦であった。

農政改革としては減反制度を18年に廃止し、農協法を改正し、全国農業協同組合中央会(全中)の農協への監査権を廃止した。減反制度の廃止は農業政策の大きな転換点であり、全中の権限を弱くすることは農協制度の大きな見直しであった。

企業・労働慣行にもメス

15年秋以降、安倍首相は労働政策や社会保障の改革に力を注ぐようになる。16年秋には「働き方改革実現会議」を発足させ、日本における労働のあり方を抜本的に改める議論を本格化させる。この改革の柱の一つは残業時間の規制であった。日本の労働法のもとでは残業時間規制はあった。しかしながら、労働法36条に基づき労使が協定(通称36協定)を結べば事実上青天井で雇用者に残業させることが可能だった。安倍首相はこの状態を見直し、労働基準法などを改正し、例外なく一月の残業時間の上限を100時間未満としなくてはならないよう残業時間に対する規制を強化した。これは「昭和」の時代から長らく続いてきた労働慣行への挑戦であった。

働き方改革と並んで安倍首相が挑んだのは日本の社会保障のあり方であった。日本の社会保障は高齢者を重視してきた。民主党政権は子ども手当を導入することで現役世代向け社会保障支出を増やした。安倍首相はこの試みをさらに進めた。具体的には19年10月に消費税を8%から10%に引き上げることで得られる税収を利用して、2兆円を新たに現役世代のための社会保障を拡充させた。具体的には3歳から5歳までの幼児教育を無償化した。また低所得世帯を対象に、高等教育や0歳から2歳までの幼児教育の無償化を実施した。これもわが国の社会保障のあり方を変えようとする試みであった。

懸念されるアベノミクスの「影」

このように、首相在任時の安倍氏は常に「挑戦者」として行動した。その中で今後影響が最も注目されるのは、やはり金融緩和の影響であろう。2017年以降、生鮮食品を除く消費者物価指数はプラスで推移しており、17年頃から日本はデフレ状態を脱していたといえ、最大の目的であったデフレの解消には効果があったことは確かである。

しかし、副作用も大きい。日本銀行は金利を引き下げるために国債を大量に買い入れ、その保有額は膨張した。2012年末の保有額は115兆円、国債発行残高の12.0%だったが、22年9月末は545兆円(国庫短期証券含む)と、実に残高の44.9%にまで達している。12年度末の普通国債と特例公債の発行残高は705兆円だったが、22年度末には1043兆円にまで増える見込みである。この間、金利が低く抑えられたため、発行残高の増大にもかかわらず利払い費は伸びずに済み、深刻な財政状況が顕在化することはなかった。

安倍氏が当時、財政状況に配慮したことは確かである。在任中、消費税の税率を二度も引き上げた。プライマリーバランスもかなり改善した。

しかし、今後、金利が上昇すればアベノミクスがもたらした低い金利のために隠れていた深刻な財政状況があらわになる恐れがある。つまり、利払い費も増加し、歳出の中の国債費が膨大になる可能性があるということである。この場合、必要な政策に予算を十分措置することができず、財政政策の硬直化が今以上に進むことも十分考えられる。

民主党政権で首相を務めた野田佳彦氏は国会での追悼演説で「あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も」「問い続けたい」と呼びかけた。大胆な金融緩和という「挑戦」の効果は、今後の金利動向と財政状況の展開を踏まえて問われることになる。

バナー写真:紛糾する参院平和安全法制特別委員会で、秘書官(左奥)と話す安倍晋三首相(中央)=2015年9月14日、東京・国会内(時事)

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