ロシアのウクライナ侵攻

プーチンが最も恐れているもの

国際・海外

米国のインターネットサイトThe Journal of Democracy に2022年2月22日に公開された標記の論文(原題はWhat Putin Fears Most)を翻訳し、日本語版読者の皆さんにお届けする。

プーチンの真意

より深刻な緊張を引き起こした原因として、2000年代を通じて民主化を掲げて起きた一連の政権交代や民衆の抗議行動、いわゆる「カラー革命」の発生がある。プーチンは米国が支援したクーデターと説明するこれらの事件によってロシアの国益が脅かされていると考えている。2000年のセルビア、03年のジョージア、04年のウクライナ、11年の「アラブの春」、11-12年のロシア反政府運動の発生、13-14年のウクライナ(ヤヌコビッチ政権崩壊)が起きるたびに、プーチンはより米国に対し敵対的な政策に傾き、その理由として「NATO拡大の脅威」を挙げた。

エリツィン大統領はNATO拡大を決して支持しなかったが、1997年の第1次拡大を許容した。彼はクリントン米大統領や米国との緊密な関係をNATO拡大という比較的小さな問題のために犠牲にする価値はないと考えたからである。「平和のためのパートナーシップ」そして特に「NATOロシア基本議定書」を通じて、クリントンと彼のチームは米露関係を前向きなものにしようと努力する一方で、NATO拡大に対処しようとした。

99年のコソボ紛争でNATOは民族浄化を阻止するためにセルビアを空爆し、その戦略は試練の時を迎えたが、クリントンはロシアに交渉解決の役回りを持たせることで何とか関係を維持した。その1年後にユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領が政権を追われ、旧共産圏で初めての「カラー革命」が起きた。就任したばかりのロシアのプーチン新大統領はこの政変を嘆いたが、大げさな反応は控えた。その時点ではプーチンにとって、まだ欧米やNATOとの協力の可能性を考えていた。

しかし、ソ連崩壊後の世界での民主化の次の拡大、すなわち、2003年のジョージアの「バラ革命」で、米ロの緊張が著しく増大した。プーチンはこの民主化の実現、また「親米の傀儡(かいらい)」とみなすサーカシビリ大統領の政権擁立を直接支援したとして、米国を名指しで非難した。バラ革命の直後から、プーチンはジョージアの民主主義の弱体化を図り、最終的には08年に軍事侵攻してアブハジアと南オセチアを独立国家として承認した。この年に、米ロ関係は最悪の状態に陥った。

バラ革命から1年後の04年には、ソ連崩壊後の世界で最も重大な民主主義の拡大となる「オレンジ革命」がウクライナで起きた。この重大な事態に先立つ数年間、クチマ大統領のもとでウクライナ外交は相対的に東西間のバランスを取ることを志向していたが、徐々にモスクワとの関係を改善させてきた。しかし、04年大統領選での不正行為のために、何十万人ものウクライナ人が街頭での抗議行動を起こし、クチマとプーチンが選んだ後継のヤヌコビッチは追放された。これによってウクライナ外交の方向は変わった。代わって、ユーシェンコ大統領とティモシェンコ首相が率いる親民主的で親欧米のオレンジ連合が権力を握った。

2000年のセルビア、03年のジョージアに比べ、ウクライナのオレンジ革命はプーチンにとって、遥かに大きな脅威だった。第一に、ロシアと国境を接し、国土も格段に大きく、より戦略的な国で、突然、オレンジ革命が起きた。ユーシェンコとその同盟勢力による西側接近により、プーチンは象徴としても戦略的にも死活的な重要性があると認識しているウクライナを「喪失」したのだ。

プーチンにとって、オレンジ革命は彼の「大戦略」の中核目的を損なった。その目的とは、かつてソ連邦を構成していた領土全体にロシアが特権的で排他的な勢力圏を確立することである。プーチンは勢力圏を信じている。大国として、近隣諸国の主権的、政治的決定に拒否権を持つという考えだ。また、プーチンは近隣諸国において排他性も求めている。つまり、ロシアは近隣諸国に対してそうした特権を行使でき(さらに緊密な関係を築ける)唯一の大国であるべきだとも考える。しかし、02年 にプーチン大統領が融和的なポジションを取って以来、ウクライナにおけるロシアの影響力が弱まり、ウクライナ国民がモスクワの支配から逃れたいという願望を繰り返し示してきたため、プーチンの望む「勢力圏」維持は難しくなっていた。

「ロシアへの隷属」こそが求められる。プーチンが最近書いた歴史論文の中で、ウクライナ人とロシア人は、たとえ強制によってであっても、再統合すべき「一つの民族」なのだと説明したように。したがって、プーチンにとって、2004年のウクライナの喪失は、同年あったNATO再拡大よりもはるかにはっきりと米露関係を悪化させる大きな転機となった 。

第二に、自由を守るために立ち上がったウクライナ人は、プーチンの価値観によると、ロシアと歴史的、宗教的、文化的に密接なつながりを持つスラブ人の兄弟たちだった。もし自由を求める動きがキエフで起きるなら、モスクワでも起きるかもしれないではないか?

現に数年後、11年12月の不正議会選挙の後、ロシアではモスクワ、サンクトペテルブルク、その他の都市で一連の大規模な抗議行動が発生した。これはソ連が崩壊した1991年以来、ロシアで最大の抗議行動だった。プーチンが権力の座について10年以上たって初めて、一般のロシア国民はプーチンの権力保持を脅かす意志と能力を持っていることを示した。

中東諸国のいわゆる「アラブの春」と同じ年に起きたロシアの民衆蜂起、そして、それに続く2012年のプーチン の3期目の大統領としてのクレムリン復帰は、米ロ関係にもさらに否定的な影響を及ぼした。すなわち、09年から続いていたオバマ米大統領とメドベージェフ大統領の協力関係リセットの動きは終了した。ここでも、米ロ協力の最終章を終わらせたのは中東の民主化、次いでロシアの民主化の動きであり、NATO拡大によるものではなかった。これ以降現在まで米ロ協力の新しい章はない。

米ロ関係はその後、14年にまたもや新しい民主化の拡大のために、さらに悪化した。プーチンを脅かす次の民主化の動きは、13=14年に再度ウクライナで起きた。04年のオレンジ革命後、プーチンはウクライナを侵略しなかったが、子飼いの親ロ派であるヤヌコビッチが6年後の大統領選に勝利するよう、さまざまな影響力を行使した。しかし、ヤヌコビッチは忠実なクレムリンの召使いではなく、ロシアと欧米の双方と友好関係を探った。最終的にプーチンは選択を迫り、13年秋にヤヌコビッチはロシアを選ぶ。ヤヌコビッチは、ロシアのユーラシア連合加盟を優先させ、欧州連合(EU)との連合協定調印を見送る。

このヤヌコビッチの連合協定を自沈させるという決定はウクライナで再び大規模なデモを引き起こし、何十万人もの人々が街頭に繰り出した。これにはモスクワ、キエフ、ブリュッセル、ワシントン全てが驚いた。このユーロマイダンあるいは「尊厳革命」として知られるようになる運動は、ヤヌコビッチが西側に背を向けたことに抗議行動として広がった。街頭での抗議は数週間にわたり続き、ヤヌコビッチ政権により平和的な抗議参加者数十人が殺害された。最終的に政権は崩壊し、14年2月にヤヌコビッチはロシアに逃亡し、キエフで新しい親欧米政権が成立した。プーチンは10年の間に2度もウクライナを「失う」ことになった。

今回は、プーチンは新政権を米国に支援されたネオナチ強奪者と揶揄(やゆ)し、軍事力で制裁しようと反撃した。ロシア軍はクリミアを占領し、ウクライナ領だった半島を併合した。また、ウクライナ東部の分離主義者を支援するために資金、装備、兵士を提供し、ドンバス地方で、この8年間に爆発寸前の戦争を続かせる。この戦争で、約1万4000人が殺害された。この侵略後(侵略の前からではない)、プーチンは、この好戦的な行動を正当化するため、NATO拡大に対する批判を増幅させた。

この2度目のウクライナの民主的革命に対して、プーチンは選挙や他の非軍事的手段は、軍事的な侵攻も含めたより脅迫的圧力と重ね合わせられくてはならないと結論づけた。尊厳革命以来、プーチンは、民主的に選出されたウクライナ政府を不安定化し、最終的に打倒するため、あらゆる軍事的、政治的、情報的、社会的、経済的手段を使って、ウクライナに対して前例のない戦争を遂行してきた。プーチンは民主的なウクライナ主権国家こそが秘められた病気であると信じており、ウクライナとNATO、米国の関係などは、その単なる症状に過ぎない。

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