プーチンが最も恐れているもの
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ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。ロシアのプーチン大統領は皆さんに、侵攻はNATO(北大西洋条約機構)のせいであると信じてもらいたいと考えている。動員された19万人に上るロシア兵や海兵ではなく、NATOの東方拡大がこの危機の主因であるとしばしば(この侵略が始まった際のロシア国民に向けた演説を含めて)主張してきた。
「ウクライナ危機は西側諸国の過ちにより引き起こされた」と主張する米国の政治学者ジョン・ミアシャイマーの2014年の『フォーリン・アフェアーズ』の挑発的な論考以来、NATO拡大に対するロシアの反動という物語がウクライナでこれまで継続してきた戦争を説明するための(正当化するためのものではないものの)主要な枠組みとなってしまった。この考えは、米国、欧州、さらにそれ以外の国々において、政治家、研究者、執筆者によって繰り返されてきた。
つまり、彼らは次のように主張する。NATOの度重なる拡大により、ロシア国境のより近くにNATO軍が迫るようになったため、ロシアの安全保障上の不安は増大し、プーチンに突然の攻撃を行わせるよう刺激した。すなわちプーチンは、2008年にジョージア(グルジア)、14年にはウクライナに武力侵攻し、かつてない大規模によることが見込まれる2度目の侵攻を行った。この説明では、ウクライナのNATO加盟問題が紛争の原因であると同時に解決ともなる。つまり加盟問題をテーブルから取り除けば、戦火は避けられることになると議論は続くのである。
だか、以上のような言説には二つの欠陥がある。一つは歴史的な誤りであり、もう一つは、プーチンの思考についてである。
まず、NATO拡大をめぐる問題は、これまでのロシアと欧米諸国の外交関係において、変数の一つではあったものの、常に両者に緊張をもたらしてきた原因とはいえない。この30年間、この問題の重要性を上下させたのは、NATO拡大の波ではなく、ユーラシアにおける民主主義の拡大の波である。非常にはっきりと、民主化が達成されたのちにロシアのNATOについての不満は急増するのである。
ジョージアとウクライナへの悲劇的な侵略と占領のため、二つの国のNATO加盟の希望についてプーチンは事実上の拒否権を手にした。なぜならばNATOはロシア軍に部分的に占領されている国の加盟を認めることは決してないからである。この事実はプーチンの現在の侵略はNATO加盟に向けられたものであるという主張を弱める。彼は事実上NATO拡大をすでに阻止しており、このことから、彼が今日のウクライナにおいて、はるかに重要なことを望んでいることを明らかにしている。つまり、ウクライナの民主主義を終焉させることと従属国への引き戻すことが目的である。
この現実は第2の誤りを浮き彫りにする。プーチンと、彼の専制的な政権において最大の脅威は、NATOではなく、(近隣国の)民主化だということだ。NATO拡大の動きが一時的に止まったとしても、民主化という脅威は魔法のように消えてなくなってしまうわけではない。NATOの拡大が止まったとしても、プーチンはウクライナやジョージアあるいは地域全体の民主主義と主権の弱体化を探る動きを止めることはない。自由な国々において、市民が自らの指導者を選び、内政・外交政策において自らの方針を決めるという民主的な権利を行使続ける限り、プーチンはそうした人々にその照準を定め続けていくだろう。
これまでの経緯
もちろんNATOとその拡大問題は米国とソ連の関係、また米ロ関係において、常に緊張の原因であったことは確かだ。この論考の筆者の一人であるマクフォールが、ジェームズ・ゲイエとともに20年ほど前、米ロ関係について書いた本「Power and Purpose」で、その一つの章につけた小見出しが「NATOは禁句の4文字言葉(Four-Letter Word)だった。歴代のクレムリン指導者はゴルバチョフもエリツィンもメドベージェフも、それぞれ程度は違ってもNATO拡大に懸念を示していた。
1949年の設立当初から、NATOは加入の基準に合致する国には広く門戸を開いてきた。だから91年のソ連崩壊後、これまでソ連の併合や征服、侵攻を受けてきた諸国が西側と安全保障面でより緊密な関係を求めても、驚くべきことではなかった。米国とNATOの同盟諸国は、それらの新しい自由社会の意向を否定しない一方で、ロシアと欧州やその他の安全保障問題について連携するよう懸命に努めてきた。それは成功したケースもあれば、うまくいかなかったケースもある。
現在のウクライナ情勢をめぐりNATOの過ちを強調する論者は、冷戦終了から30年余りの間に、モスクワによるNATO拡大の拒絶姿勢は、何度となくいろいろな方向に向きを変えているという事実を見落としている。
97年に当時のエリツィン大統領が「NATO・ロシア基本議定書」に調印することを同意した時に、両者はこの合意に包括的な協力課題を文章化して盛り込んだ。エリツィン大統領は調印式で、「非常に重要なことはロシアとNATOとの間に協議と協力の仕組みをわれわれが創出しているということである。そしてこの仕組みによって、われわれは地域の安全保障と安定に関わる主要な問題、つまり、われわれの利益に関わる課題や分野について、公平かつ平等な立場で話し合い、必要なら共同決定を行うことが可能になる」と宣言した。
2000年に大統領代行としてロンドンを訪れた際、プーチンはロシアが将来NATOに加盟する可能性を示唆する発言すらしている。彼はその時「なぜダメなのか。ロシアの国益を考え、もし平等なパートナーということであれば、その可能性を排除しないのは当然だ。ロシアは欧州文化の一部であり、ロシアが欧州の中で孤立するとは考えていない。だから、NATOを敵対視することは困難だ」などと話している。ロシアの脅威となるといわれているNATOに、なぜプーチンは加盟したいというのだろうか。
01年9月11日の米中枢同時テロ発生後、ブッシュ米大統領とプーチンは共通の敵であるテロリズムと戦うため、親密な協力関係を結んだ。その当時、プーチンはNATOとの対立ではなく、協力に目を向けている。これまでNATOが唯一、条約第5条(集団防衛)を発動したのはアフガニスタンへのNATOの介入であり、プーチンは国連安保理でこれを支持した。彼は、さらに続けてNATOを外交面で支持、これは具体的な軍事支援を伴った。
同年11月の訪米中、プーチンは(テロとの戦いについて)「われわれは異なったやり方や手段を用いるかもしれないが、それは同じ目標に向かうものであり…、どんな解決方法が見つかったとしても、それは両国と世界における利益を脅かすものではない」という現実的だが友好的な手記を発表した。また、同月行ったインタビューでは「ロシアは国際社会におけるNATOの役割を理解しており、この組織との協力を拡大する用意もある。もしわれわれが両者の関係を質的に変化させ、関係の形式を変容させるなら、NATO拡大という問題はもはや懸案でなくなり、 関連のある問題ではなくなるだろう」とまで述べている。
NATOは02年、エストニアとラトビア、リトアニアの旧ソ連圏バルト三国の加盟方針を打ち出したが、プーチン大統領はここでもほとんど反応しなかった。加盟阻止に向けた侵攻の脅しもなかった。01年末に、バルト諸国のNATO加盟に反対するのかと具体的に質問された際に、プーチンは「われわれはもちろん、(他国に)どうしろという立場にはない。彼らが安全保障を強化したいと希望する場合に特定の選択を禁止することはできない」と述べている。
この時期にプーチンは、ウクライナが将来NATOに加盟するかもしれないという問題をめぐっても同様の態度を示している。02年5月に、ウクライナとNATOの紹介の関係について見解を問われた際、彼は「ウクライナはNATOや西側諸国との全面的な関係拡大を望んでいると、私は確信している。ウクライナとNATOの協議体も創設されるなど、すでに独自の関係がある。時期がくれば、両者が決断を下すだろう。これは彼らの問題だ」と冷静に答えている。
その10年後、メドベージェフ大統領の時代に、ロシアとNATOは再び協力に向かう。リスボンで開催された2010年のNATO首脳会議で、メドベージェフは「われわれの間に距離があり、互いに要求し合う時代はもう終わった。われわれは将来を楽観的に眺めており、ロシアは、NATOと本格的なパートナーシップを(構築することに向かっており)、全ての面で関係を発展させることができる」と発言。さらに、彼は首脳会談で、ロシアとNATOのミサイル防衛協力の可能性まで言及した。NATO拡大への懸念の発言は全く出なかった。
冷戦時代から2014年のロシアのウクライナ侵攻まで、欧州におけるNATOの軍事費と兵力は一貫して削減傾向にあった。加盟国が拡大した2000年代よりも、1990年代にはより大きい軍事力をNATOは保持していた。この時期、ロシアは多額の軍事費を投じて兵器の近代化、欧州における戦力拡大を進め、NATOとロシアの間の戦力バランスはロシアがより有利なようにシフトした。
以上のようなロシアとNATOの実質を伴う協力関係の実例があるので、この30年もの間の「NATO東方拡大」が常にそして継続的にロシアを西側との対立に向かわせてきた駆動力であったのであるという議論を弱める。ロシアと西側の対立、そして14年から続くロシアのウクライナ侵攻の原因をNATO拡大のみに押し付けるのは歴史的事実からみて間違っている。それよりも、われわれはプーチンの持つ敵意の真の源泉がウクライナ、そして欧米諸国そのものにあることを理解すべきだ。
プーチンの真意
より深刻な緊張を引き起こした原因として、2000年代を通じて民主化を掲げて起きた一連の政権交代や民衆の抗議行動、いわゆる「カラー革命」の発生がある。プーチンは米国が支援したクーデターと説明するこれらの事件によってロシアの国益が脅かされていると考えている。2000年のセルビア、03年のジョージア、04年のウクライナ、11年の「アラブの春」、11-12年のロシア反政府運動の発生、13-14年のウクライナ(ヤヌコビッチ政権崩壊)が起きるたびに、プーチンはより米国に対し敵対的な政策に傾き、その理由として「NATO拡大の脅威」を挙げた。
エリツィン大統領はNATO拡大を決して支持しなかったが、1997年の第1次拡大を許容した。彼はクリントン米大統領や米国との緊密な関係をNATO拡大という比較的小さな問題のために犠牲にする価値はないと考えたからである。「平和のためのパートナーシップ」そして特に「NATOロシア基本議定書」を通じて、クリントンと彼のチームは米露関係を前向きなものにしようと努力する一方で、NATO拡大に対処しようとした。
99年のコソボ紛争でNATOは民族浄化を阻止するためにセルビアを空爆し、その戦略は試練の時を迎えたが、クリントンはロシアに交渉解決の役回りを持たせることで何とか関係を維持した。その1年後にユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領が政権を追われ、旧共産圏で初めての「カラー革命」が起きた。就任したばかりのロシアのプーチン新大統領はこの政変を嘆いたが、大げさな反応は控えた。その時点ではプーチンにとって、まだ欧米やNATOとの協力の可能性を考えていた。
しかし、ソ連崩壊後の世界での民主化の次の拡大、すなわち、2003年のジョージアの「バラ革命」で、米ロの緊張が著しく増大した。プーチンはこの民主化の実現、また「親米の傀儡(かいらい)」とみなすサーカシビリ大統領の政権擁立を直接支援したとして、米国を名指しで非難した。バラ革命の直後から、プーチンはジョージアの民主主義の弱体化を図り、最終的には08年に軍事侵攻してアブハジアと南オセチアを独立国家として承認した。この年に、米ロ関係は最悪の状態に陥った。
バラ革命から1年後の04年には、ソ連崩壊後の世界で最も重大な民主主義の拡大となる「オレンジ革命」がウクライナで起きた。この重大な事態に先立つ数年間、クチマ大統領のもとでウクライナ外交は相対的に東西間のバランスを取ることを志向していたが、徐々にモスクワとの関係を改善させてきた。しかし、04年大統領選での不正行為のために、何十万人ものウクライナ人が街頭での抗議行動を起こし、クチマとプーチンが選んだ後継のヤヌコビッチは追放された。これによってウクライナ外交の方向は変わった。代わって、ユーシェンコ大統領とティモシェンコ首相が率いる親民主的で親欧米のオレンジ連合が権力を握った。
2000年のセルビア、03年のジョージアに比べ、ウクライナのオレンジ革命はプーチンにとって、遥かに大きな脅威だった。第一に、ロシアと国境を接し、国土も格段に大きく、より戦略的な国で、突然、オレンジ革命が起きた。ユーシェンコとその同盟勢力による西側接近により、プーチンは象徴としても戦略的にも死活的な重要性があると認識しているウクライナを「喪失」したのだ。
プーチンにとって、オレンジ革命は彼の「大戦略」の中核目的を損なった。その目的とは、かつてソ連邦を構成していた領土全体にロシアが特権的で排他的な勢力圏を確立することである。プーチンは勢力圏を信じている。大国として、近隣諸国の主権的、政治的決定に拒否権を持つという考えだ。また、プーチンは近隣諸国において排他性も求めている。つまり、ロシアは近隣諸国に対してそうした特権を行使でき(さらに緊密な関係を築ける)唯一の大国であるべきだとも考える。しかし、02年 にプーチン大統領が融和的なポジションを取って以来、ウクライナにおけるロシアの影響力が弱まり、ウクライナ国民がモスクワの支配から逃れたいという願望を繰り返し示してきたため、プーチンの望む「勢力圏」維持は難しくなっていた。
「ロシアへの隷属」こそが求められる。プーチンが最近書いた歴史論文の中で、ウクライナ人とロシア人は、たとえ強制によってであっても、再統合すべき「一つの民族」なのだと説明したように。したがって、プーチンにとって、2004年のウクライナの喪失は、同年あったNATO再拡大よりもはるかにはっきりと米露関係を悪化させる大きな転機となった 。
第二に、自由を守るために立ち上がったウクライナ人は、プーチンの価値観によると、ロシアと歴史的、宗教的、文化的に密接なつながりを持つスラブ人の兄弟たちだった。もし自由を求める動きがキエフで起きるなら、モスクワでも起きるかもしれないではないか?
現に数年後、11年12月の不正議会選挙の後、ロシアではモスクワ、サンクトペテルブルク、その他の都市で一連の大規模な抗議行動が発生した。これはソ連が崩壊した1991年以来、ロシアで最大の抗議行動だった。プーチンが権力の座について10年以上たって初めて、一般のロシア国民はプーチンの権力保持を脅かす意志と能力を持っていることを示した。
中東諸国のいわゆる「アラブの春」と同じ年に起きたロシアの民衆蜂起、そして、それに続く2012年のプーチン の3期目の大統領としてのクレムリン復帰は、米ロ関係にもさらに否定的な影響を及ぼした。すなわち、09年から続いていたオバマ米大統領とメドベージェフ大統領の協力関係リセットの動きは終了した。ここでも、米ロ協力の最終章を終わらせたのは中東の民主化、次いでロシアの民主化の動きであり、NATO拡大によるものではなかった。これ以降現在まで米ロ協力の新しい章はない。
米ロ関係はその後、14年にまたもや新しい民主化の拡大のために、さらに悪化した。プーチンを脅かす次の民主化の動きは、13=14年に再度ウクライナで起きた。04年のオレンジ革命後、プーチンはウクライナを侵略しなかったが、子飼いの親ロ派であるヤヌコビッチが6年後の大統領選に勝利するよう、さまざまな影響力を行使した。しかし、ヤヌコビッチは忠実なクレムリンの召使いではなく、ロシアと欧米の双方と友好関係を探った。最終的にプーチンは選択を迫り、13年秋にヤヌコビッチはロシアを選ぶ。ヤヌコビッチは、ロシアのユーラシア連合加盟を優先させ、欧州連合(EU)との連合協定調印を見送る。
このヤヌコビッチの連合協定を自沈させるという決定はウクライナで再び大規模なデモを引き起こし、何十万人もの人々が街頭に繰り出した。これにはモスクワ、キエフ、ブリュッセル、ワシントン全てが驚いた。このユーロマイダンあるいは「尊厳革命」として知られるようになる運動は、ヤヌコビッチが西側に背を向けたことに抗議行動として広がった。街頭での抗議は数週間にわたり続き、ヤヌコビッチ政権により平和的な抗議参加者数十人が殺害された。最終的に政権は崩壊し、14年2月にヤヌコビッチはロシアに逃亡し、キエフで新しい親欧米政権が成立した。プーチンは10年の間に2度もウクライナを「失う」ことになった。
今回は、プーチンは新政権を米国に支援されたネオナチ強奪者と揶揄(やゆ)し、軍事力で制裁しようと反撃した。ロシア軍はクリミアを占領し、ウクライナ領だった半島を併合した。また、ウクライナ東部の分離主義者を支援するために資金、装備、兵士を提供し、ドンバス地方で、この8年間に爆発寸前の戦争を続かせる。この戦争で、約1万4000人が殺害された。この侵略後(侵略の前からではない)、プーチンは、この好戦的な行動を正当化するため、NATO拡大に対する批判を増幅させた。
この2度目のウクライナの民主的革命に対して、プーチンは選挙や他の非軍事的手段は、軍事的な侵攻も含めたより脅迫的圧力と重ね合わせられくてはならないと結論づけた。尊厳革命以来、プーチンは、民主的に選出されたウクライナ政府を不安定化し、最終的に打倒するため、あらゆる軍事的、政治的、情報的、社会的、経済的手段を使って、ウクライナに対して前例のない戦争を遂行してきた。プーチンは民主的なウクライナ主権国家こそが秘められた病気であると信じており、ウクライナとNATO、米国の関係などは、その単なる症状に過ぎない。
侵攻の真の狙いは「民主化の阻止」
驚くべきことに、8年にもわたるロシアの容赦ない圧力にもかかわらず、ウクライナの民主主義は持ちこたえた。その逆である。プーチンによる併合やドンバス地方における戦争の支援の後にウクライナ国民は、今や自国の歴史上のどの時期よりも、民族的、言語的、地域的分裂を越えて団結している。2019年の大統領選では、ゼレンスキー氏が全ての地域で支援を集め、地滑り的勝利を得た。驚くことではないが、プーチンの起こした戦争はNATO加盟に対するウクライナ国民の支持を増大させた。
プーチンはここに至り、ウクライナの民主化を終わらせるための新たな戦略を決断した。つまり大規模な軍事侵攻だ。プーチンはその目的を「NATO拡大の阻止」だと主張する。しかし、それは虚構に過ぎない。ウクライナは将来のNATO加盟を熱望しているかもしれない(それはウクライナ憲法にも書かれている)が、近年は加盟に向けた動きは一歩も進んでいない。NATOの指導者たちは門戸開放の原則は変わらないとする一方で、今日のウクライナに参加の資格はないと明確に述べている。プーチンが現在主張する開戦の理由は、彼自身による「発明」というほかない。
プーチンは、ウクライナの民主主義をさらに直接的に弱体化させるため、NATO拡大を名目としたこの危機をでっち上げた。既にウクライナ国境へのロシア軍動員により、ウクライナ経済は大きな損害を受けている。そして、ゼレンスキーがこの危機にどう対処したかをめぐり、ウクライナの政党間での新たな分裂をあおっている。大連立あるいは挙国一致内閣を発足させるべきだったとの声もあれば、侵攻への準備が不十分だったとの批判もある。
また、ゼレンスキーは欧米との団結が最も必要とされている時に、ロシアによる侵略の可能性についてバイデン米大統領と議論することで、彼の外交経験のなさ示したとしたと非難する声も出ている。主張する者もいる。要するに、プーチンが兵力を動員するだけでも、ウクライナ民主主義の弱体化に向けた彼の戦争は、既にいくつかの初期の成功を達成しているのだ。
逆説的だが、ロシアによる「力の行使」は、短期的にはウクライナの民主化への動きを強化することにつながるかもしれない。ドネツクとルハンスク地域(国際的にはウクライナの主権領土として認知されている)にロシア軍を派遣してウクライナを侵略するというプーチンの決定はウクライナ人を団結させ、ゼレンスキーの指導者としての人気は高まった。しかし、長期的にウクライナの民主主義が生き残れるかどうかは予断を許さない。プーチンの好戦的なレトリックは、攻撃が始まったばかりであることを示唆している。
電撃戦による侵略、キエフの急速な包囲により、ゼレンスキー政権が権力を追われる可能性がある。そして銃を突き付けられた状況下での新たな選挙で、プーチンが望む政権が誕生するかもしれない。これらは第2次大戦後の東欧諸国で、ソ連の戦車の影で起きたことと同じだ。結果がどうなるのかはまだ分からない。だが、プーチンの狙いがどこにあるのかははっきりしている。
プーチンはNATO拡大を好まないだろうが、それを本気で恐れてはいないだろう。ロシアは欧州最大の陸軍力を保持しており、この20年間にふんだんな資金を投じた結果、能力も向上している。NATOは防衛的な同盟である。先にソ連やロシアを攻撃したことはないし、将来攻撃することもない。プーチンはそのことを知っている。しかしプーチンは、ウクライナで成功した民主主義に脅かされている。彼は、成功し、繁栄し、民主的なウクライナが国境に存在していることに耐えられない。特に、ウクライナ国民が経済的にも繁栄を始めればなおさらである。それはクレムリン自身の体制の安定を損ない、独裁的な国家指導についてこれまで説明されている理由そのものが問われることになる。彼がロシア国民の意思がに国の将来を導くことを許さないように、同じ歴史と文化をともにするウクライナ国民がそのために投票し、繁栄し、独立し、自由な未来を選び取ることを許すことができない
緊張緩和の可能性は遠いが、さらなる交渉、また制裁への恐れが理論的には、今後数日、あるいは数週間の、ロシア軍のドンバス地方を越えた地域への侵攻を回避できるかもしれない。だが、プーチンがルハンスクとドネツクであれ、ハリコフ、オデッサ、キエフ、あるいはリヴィウであれ、どこで最終的に進軍停止を命じようとも、それが終わりではない。プーチン政権が存続する限り、またはその後も専制政治が続く限り、クレムリンはウクライナに限らず、ジョージア、モルドバ、アルメニアといった近隣国の民主化の動きに対抗し続けるだろう。悲しいことに、ジョージ・ケナンの1947年のフォーリン・アフェーアズの論考「ソ連の行動の源泉」(X論文)の内容はいまだに真理を突いている。
「クレムリンがイデオロギーによって、自らの目的を性急に実現するように求められているわけではない…、ここでは慎重さ、周到さ、柔軟性、策謀が優れた資質とされ…、タイムテーブルに縛られていないために、そのような退却が必要になってもパニックに陥ったりはしない。その政治行動は、目的に向かって、動けるならばどこでも絶えず動いていくような柔軟な流れである」(※1)
プーチンの長期的な戦略について幻想を持つべきではない。長期的な戦略とはウクライナとその周辺国の民主化拡大を、なんとしても阻止するということだ。
バナー写真:ベルギー・ブリュッセルの欧州連合本部ビル(ベルレモン)の前で「プーチンの石油を止めろ」とのスローガンを掲げて抗議する活動家とウクライナの若者ら=2022年3月22日 © Nicolas Landemard/Le Pictorium/Cover Images
編集部注:原文はhttps://www.journalofdemocracy.org/what-putin-fears-most/
翻訳はニッポンドットコム編集部の石井雅仁、監訳はニッポンドットコム編集企画委員会委員長の竹中治堅(政策研究大学院大学教授)が担当した。
The Journal of Democracyは米ジョンズホプキンズ大学出版局が運営。この論文の日本語への翻訳とウェブ掲載について、ニッポンドットコムはThe Journal of Democracy編集部の了承を得ている。
(※1) ^ 編集部注:この部分の翻訳は『フォーリン・アフェアーズ傑作選1922-1999 アメリカとアジアの出会い(上)』(朝日新聞社、2001年)から引用した。