「同調圧力」に晒され、独立の危機にある裁判官
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カルロス・ゴーンの国外逃亡劇と彼による日本の刑事司法に対する批判によって、にわかに日本の司法制度に世界の眼が向けられることになった。刑事司法に限らず、かなり特殊な面を持つ日本の法制度を理解していただくために、私は「日本の裁判所」に焦点を合わせて、その性格につき素描してみよう。
行政との距離が近い日本の裁判所
日本国憲法は三権分立制をとっており、司法権は裁判所に属し、裁判官は良心に従い独立してその職責を行い憲法及び法律にのみ拘束される(憲法76条)と定められているから、「司法権の独立」と「裁判官の独立」が保障されている。しかも、最高裁判所のみならず下級審裁判所にも、具体的な争訟の裁判に必要である限り、憲法に違反する法令等を無効とする違憲立法審査権が付与されている。この意味では、立法・行政を凌駕する「司法権の優位」が認められている。裁判所には、民主制の下で多数派の意見が反映される立法・行政から排除された少数派の基本的人権を保障することが期待されている訳である。
しかし、わが国では、最高裁判所が違憲判断を下した判決は決して多くはない。新憲法制定後70年を経ても法令違憲10件、適用違憲12件にとどまる。「憲法の番人」としての役割を果たしているとは到底いえない。それはなぜか?
一言でいえば、日本の裁判所は、伝統的に、立法・行政の意思を尊重するという司法消極主義の考え方を採っているからである。この背景事情としては、次の点が指摘できる。
まず、最高裁判所の裁判官及び下級審裁判所の裁判官の任命権は内閣にあることである(最高裁長官は、内閣の指名により天皇が任命するが、実質的な任命権は内閣にある)。つまり、わが国では時の政権党によって最高裁判事の任命がなされるので、行政府と司法府の距離は近いのである。多くの国が裁判官の任命につき、選挙、公聴会の審査等を経て民意を反映させようとしているのとは対照的に任命時に民意を反映させる仕組みはない。
日米安保体制の“闇”
より重大な背景事情として、わが国の法体系は日本国憲法を頂点とする法体系で完結している訳ではないことである。第二次世界大戦後の米国による占領の歴史に由来する日米安保条約及び日米地位協定が、本来の法規範の階層序列とは異なり、事実上、憲法を凌駕する形で効力を有しており、その安保条約を淵源とする法体系(安保法制)が憲法の解釈に影響を及ぼしているのである。
米軍基地の便益が私権を制限する例や、米国軍人の犯罪に対する第一次捜査権の制限などが典型例である。その原点にある考え方が、1959年に最高裁が下した砂川事件判決における「統治行為論」である。砂川事件では、駐留米軍が日本国憲法の禁ずる「戦力」にあたるか否かが問われたが、最高裁は「高度の政治性」を有する統治行為について司法審査の対象外だとして司法消極主義に立つことを宣明したのである。
近時、米国立公文書館などの開示資料から、当時の最高裁長官田中耕太郎が、米本国の指示を受けた駐日大使と再三にわたり非公式の会談を持ち、「裁判官の守秘義務」に違反して、最高裁判事の意見分布、評議の経過と判決の見通しまでを伝えていたことが判明した。この事実は、最高裁長官自身が日本国憲法ではなく安保法制に忠実であったことを如実に物語っている。
「統治行為論」は理論上の見解である以上に、憲法体系とは別の安保法制を維持するための「隠れみの」として機能しているのである。この意味で、「法の支配」が貫徹しているとは言い難い。そして、残念ながら、今日でも、裁判所では、憲法判断を差し控える司法消極主義の考え方が主流をなしている。
「均一化」する官僚裁判官
もう一つ、裁判官の給源の特殊性についても紹介しておこう。日本の裁判官制度は、英米法系の国にみられる法曹一元制度(一定の弁護士経験を積んだ者から裁判官を選出するシステム)ではなく、官僚裁判官制度(キャリア・システム)を採っている。わが国では、司法試験合格後の司法修習の段階では、将来の法曹三者が一緒に修習を行うが、裁判官は任官後、検察官等の公務員や民間機関へ一定期間の派遣交流はあっても、一貫して裁判官職を定年まで勤め上げるのが通例である。在職中の転職という形での法曹三者間の移動は一般的ではないので、若くして新規採用された裁判官が、そのまま官僚裁判官として固定され「均一化」することになる。最高裁判事が、法曹三者出身者のみならず学者、行政官等の多様な職業分野から選任されているのとは際立った対照をなしている。そのため、日本の裁判官も、官僚制の弊害ともいうべき没個性化と保守的傾向を免れていない。
市民的自由に近づかない「雲上人」:裁判官の実像
日本では、もともと法曹人口が少ない上に裁判官の数は2000名程度で推移していたため、裁判官の実像は一般の市民には知られておらず、裁判官は「雲上人」と見られていた。1999年「司法制度改革審議会意見書」により、行政による事前指導型社会から司法的ルールに基づく事後救済型社会への移行が目指されて、法曹人口の増大が図られた。しかし、弁護士の著しい増加に比して裁判官は期待されたほどには増加していない(現在3000名程度)。
法制度如何を問わず、裁判官の役割は司法権の担い手として「法の支配」を貫徹することである。そのためには結論の正しさだけではなく、手続きの公正、透明性、基準の明確性が求められ、国民からの信頼をかち得ることが不可欠である。そして、裁判官個々人には、裁判官の役割から帰結される、法に対する忠実性、独立性、公平中立性などの公正保持義務に加えて、廉潔性や品位保持の義務が求められる。
おそらく、日本の裁判官は、廉潔性に関する限り、世界でも最優秀と評価される存在であろう。日本では、賄賂による判決の不正といった事態はまず想定できない。それは、裁判官が内的な自覚と自制心をもって裁判官としての職責を果たしているからに他ならない。
そして、特徴的なこととして、諸外国と異なり、日本の裁判官には明文の倫理規定がない。「裁判所内部の先輩・後輩の関係に基づく伝承と指導によって慣習法的な倫理規範が形成されているので、成文化されていなくとも既に高い職業倫理が確立されている」と裁判官は言う。
では、日本では裁判官の非行、すなわち倫理違反はないのかといえば、そんなことはない。確かに、裁判官に固有の倫理義務違反の事例はある。しかし、その現れ方がいささか異なる。どの国でも、裁判官には職務外の活動であっても国民の一般的信頼を損なうような行動を差し控える義務が定められており、国民一般からどのように見られるかという「外観」が重視されている。そのため、裁判官の市民的自由と国民の裁判官に対する信頼をどう調和させるかという問題が提起される。
日本の場合、法的には裁判官にも市民的自由が保障されているものの、実際には、社会一般から問題があると見られる「おそれ」がある行為は避けるべしというのが裁判所の伝統的な考え方である。従来の例では、裁判官という身分を明かして政治的見解を表明したことや個人的ブログで法律問題を論評したことが外観理論に基づき懲戒事由に当たるとされている。
似たような事例は世界中どの国にも見られるが、市民的自由を優先するのが国際的なスタンダードといってよい。わが国の懲戒事例は少ないものの、こうした先例は、裁判官の市民的自由を拡大する方向ではなく、過度に裁判官の自粛効果をもたらす「同調圧力」として働いているのではないかと私は危惧している。
危ぶまれる「裁判官の独立」
再び、憲法に戻ろう。日本の裁判官について指摘しておかなければならないのは、裁判所内部の圧力による「裁判官の独立」が侵害されかねないという問題である。「裁判官の独立」は「司法権の独立」の大前提であり、裁判官は司法外部の圧力からの自由だけではなく司法内部の統制からも自由でなければならない。しかし、わが国の裁判所機構は、最高裁判所を頂点とする一つの司法官僚組織となっており、最高裁長官と最高裁事務総局に司法行政上の権限が集中している。
本来は、裁判官会議が司法行政を司ることになっているが、実際には、裁判官会議は最高裁長官と最高裁事務総局の判断を追認する場となっている。憲法上、裁判官には強固な身分保障が認められており、転勤、昇進、給与、人事による支配を受けないはずであるが、現実には、転勤がルーティン化されているほか、人事によって昇進と給与に歴然とした格差が生ずるに至っている。新たな人事評価制度の導入など改善策が採られているものの、全体としての人事の透明度は依然として低い。
こうした強大な司法行政権の統制下にあって、個々の裁判官は司法官僚組織の一員として「同調圧力」に晒されているのである。日本の裁判官の「均一性」は、誇るべき特長などではなく、むしろ「裁判官の独立」が危機に瀕している証左なのかもしれない。
バナー写真:最高裁判所の大法廷(NHK受信料支払い訴訟の上告審)=2017年10月25日(時事)