「変革」を企てる韓国側の論理:「徴用工」から1965年体制、戦後和解まで
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歴史・安保・経済の「全面対決」
「史上最悪の日韓関係」といわれる。日本政府がホワイトリスト(輸出管理優遇措置対象)から韓国を外すことで歴史問題と経済問題がつながり、韓国政府が日韓GSOMIA(軍事情報包括保護協定)を破棄することで経済問題が安保問題にまでつながった。しかも、こうした政府間対立が、韓国における日本製品の不買運動や日本国民の「韓国疲れ」に見られるように、市民社会の領域にまで及んでいる。
そもそもの契機は、「旧朝鮮半島出身労働者(いわゆる徴用工)」問題に関する大法院(韓国最高裁)判決(2018年10月)である。本来、民間人と民間企業の間の民事訴訟ではあるものの、日本政府は「国際法違反の状態」(外務省ウェブサイト「大韓民国大法院による日本企業に対する判決確定について」)と規定し、韓国政府に是正を求めた。
韓国政府は19年6月になってようやく、被告の日本企業と、日韓請求権協定による経済協力資金で成長した韓国企業が協力して財団を設立し、同判決の「慰謝料」相当分を拠出するならば、日本政府が求める「外交上の経路を通じ[た]解決」(同協定第3条第1項)に応じるという「1+1」案を提示したが、日本政府は即座に拒否した。この間、日本企業の財産はすでに差し押さえられていて、19年末か20年の早々にも現金化が完了する見込みである。歴史問題と経済問題のイシュー・リンケージ(争点連関)はすでに生じていたのである。
かつては歴史問題で対立しても、安全保障と経済では協力し、ウィン・ウィンの関係を築いてきた両国だが、いまや「全面対決」の様相を呈している。しかも、双方ともに相手側に原因があるとして、自らは一歩も引かない姿勢である。安倍晋三首相や文在寅大統領といった政治リーダーだけが強硬なのではなく、中位有権者(median voter)がその政策路線を支持している。典型的なチキンゲームの状況であるため、「改善」は容易ではないし、安易な期待は禁物である。
司法と外交
こうした日韓関係の変化の背景には、いくつか構造的な要因がある。
第1に、韓国司法の積極性である。特に憲法裁判所は、朴槿恵大統領の弾劾・罷免(2017年3月)、「民主的基本秩序に違背」(韓国憲法8条4項)した統合進歩党の解散(14年12月)、首都移転特別法の違憲・無効(04年10月)など、政治部門(大統領・国会・政党)から独立し、その行き過ぎを牽制(けんせい)してきた。その積極性が国内政治だけでなく、日韓関係にも及んだのが「徴用工」問題に関する大法院の判決であり、慰安婦問題に関する憲法裁判所の決定(11年8月)である。これまでイラク戦争への派兵(03年12月)や在韓米軍基地の移転(06年2月)に関して、「高度の政治的決断を要する問題であるため司法審査を自制しなければならない」として棄却するなど、外交問題においては謙抑的であるのと対比的である。
韓国憲法前文には、「大韓国民は3・1運動(1919年)によって建立された大韓民国臨時政府の法統」(括弧内は著者による追記)を「継承」すると謳(うた)われているが、当時、「朝鮮」は「大日本帝国」の一領域だった。大韓民国臨時政府を承認した国家は存在せず、「朝鮮の独立」が「承認」(2条(a))されたのはサンフランシスコ講和条約(51年)においてだった。この間、臨時政府は対日宣戦布告(41年12月10日)をし、「大韓民国政府樹立」は48年8月15日に宣布されるが、韓国政府は「戦勝国」として講和会議に招かれたわけではない。独立運動家の咸錫憲は、「解放は盗人のように突然訪れた」と述懐している。
日本統治期(1910~45年)の法的性格をめぐっては国交正常化交渉で激しく争ったが、日韓両国は「もはや無効(already null and void)」(日韓基本条約第2条)という文言で妥結した。日本は「合法で、少なくとも敗戦(1945年8月)までは有効」と解釈する一方で、韓国は「不法で、そもそも無効だった(null and void ab initio)」と当初より噛み合わなかったが、その後、とりたてて問題にしなかった。この「不合意の合意(agree to disagree)」は政治リーダーによる賢慮であると評価されてきた。
しかし、「徴用工」問題に関する大法院の判決も、慰安婦問題に関する憲法裁判所の決定も、前述の憲法前文に裁判規範性を見出し、「日帝強占36年間」は「不法で、そもそも無効だった」と闡明(せんめい)したことで、そのレジリエンス(復元力/弾力性)が試されることになった。もちろん権力分立の下、司法の判断は韓国国内では「至高で最終的」だが、国際法との間で齟齬(そご)をきたす場合、「外国に対して国家を代表する」(韓国憲法51条)大統領のリーダーシップが鍵になる。
民意と国家間交渉
日韓関係の変化をもたらした第2の構造的要因は「民意」である。
慰安婦問題は長年、歴史対立の焦点だったが、日韓両国は2015年12月、ついに「最終的かつ不可逆的な解決」に合意した。第2次世界大戦での「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」に対して、安倍晋三首相は「改めて」「心からおわびと反省の気持ちを表明」し、「日韓両政府が協力し、全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行う」ために、韓国政府が設立した財団に日本政府の予算で資金を一括で拠出した。朴槿恵政権下で、生存する元慰安婦47名のうち34名は、この和解スキームを受け入れたが、韓国で政権交代が起きると、文在寅政権は「被害者中心アプローチにもとる」として、この財団を解散した。
「合意は拘束する(pacta sunt servanda)」というのは法の大原則である。日韓両国が加盟している条約法に関するウィーン条約では、「効力を有するすべての条約は、当事国を拘束し、当事国は、これらの条約を誠実に履行しなければならない」(26条)、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない」(27条)と定められている。慰安婦合意が事実上反故(ほご)にされた中で、「徴用工」は国家間の信義則がかかった問題であるため、安易に妥協すべきではないし、妥協しないというのが日本の中位有権者の立ち位置である。まして、「徴用工」は、慰安婦とは異なり、韓国の対日請求要綱に明示されており、一括補償(lump-sum settlement)されたし、韓国政府が2005年に個人請求権に関する法的立場を見直した際にも、「解決済み」とされていた。
国家間交渉は相手国政府とだけでなく、国内のステイクホルダー(利害関係者)も受け入れることができる範囲(win-set)が重らないと、交渉担当者(政府)はそもそも合意できないし、たとえ合意しても長く持ちこたえられない。また、そうした状況では、新たに合意を結ぶべく、交渉に臨むというリスクをとるリーダーはなかなか出てこない。
一方、韓国では、「日本軍慰安婦被害者」も「強制徴用被害者」も、「人権問題」として理解されている。民主化以前の国家権力による人権弾圧を問う「移行期の正義(transitional justice)」というプロジェクトは当然に、外交にも及ぶべきであるというのである。
特に「進歩派」は、「親日派」を登用した李承晩大統領を「建国の父」とは認めないし、2019年は「大韓民国臨時政府樹立100年」に当たることを強調する。日韓「慰安婦」合意だけでなく、朴正煕大統領が戒厳令を敷く中で断行した日韓国交正常化(1965年)も歴史問題や人権問題をなおざりにした「誤った過去清算」として批判する。彼らにとって「正しい過去清算」とは、「日帝強占36年間」は「不法で、そもそも無効だった」と日本に認めさせることである。
「戦後和解」と日韓「1965年体制」
第3の構造的要因は、「戦後和解」/「ポスト植民地主義」をめぐる齟齬である。
そもそも1965年の日韓国交正常化はサンフランシスコ講和条約の「特別取極」(4条(a))である。文字通り、サンフランシスコ「講和」条約自体が「戦後和解(post-war settlement/ rapprochement)」の枠組みである以上、その下位規定である日韓基本条約などで「植民地支配の不法性」を問うのは無理筋である。韓国は第2次世界大戦において日本と戦争状態にあったのではなく、好むと好まざるとにかかわらず、当時、日本の一部であり、日本の敗戦、そしてこの講和条約によって分離独立が承認され成立した。それに、戦勝国は概して旧宗主国であり、自らにも「飛び火」する「脱植民地化(decolonization)」「ポスト植民地主義(post-colonialism)」を議題にするはずがなかった。日本の朝鮮支配は、桂・タフト協定(1905年)において米国のフィリピン支配を承認する代わりに「正当化」されたのであった。
その後、植民地と人民に独立を付与する宣言(1960年)が国連総会で採択されるなどして、国際的な規範や法自体が根本的に変わるが、20世紀初頭において、植民地支配は「列強」による一般的な慣行で、正当性はともかく、明示的に不法とされていたわけでは決してない。米国のウィルソン大統領が掲げた「民族自決原則」は、第1次世界大戦後にヨーロッパでは適用された一方で、アジア太平洋では、朝鮮やフィリピン以外でも、英領ビルマ、仏領インドシナ、蘭領東インド、日本による南洋諸島の「委任統治」が続くなど、普遍的ではなかった。
戦後50周年(1995年8月15日)にあたって、村山富市首相は「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」という内容の総理談話を発表し、韓国から高く評価された。しかし、およそ2カ月後に、1910年8月29日に締結された「韓国併合条約は、当時の国際関係等の歴史的事情の中で法的に有効に締結され、実施された」と国会で答弁すると、植民地支配の合法性に関する限り、左派も含めた日本の「歴史認識の限界」と受けとめられた。
この「不当だが、合法かつ有効」論はその後、菅談話(2010年)や安倍談話(15年)でも踏襲される。韓国併合(1910年)100周年に発出された前者では、「そ[韓国の人々]の意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられ」たと明記した。戦後70周年に発出された後者では、「植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」と謳う一方で、1904〜05年の「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけ」たと自賛している。日清戦争(1894〜95年)・日露戦争は、明治期の日本にとって「坂の上の雲(幕末に結んだ不平等条約を改正し、列強の仲間入りを果たすという「富国強兵」の夢)」をつかもうとした栄光の過程にほかならない。
「戦前」、日本が「進むべき針路」を見誤ったのは、あくまでも満州事変(1931年)以降であると総括された。韓国からすると、日露戦争こそが外交権を剥奪される中で、「独島(竹島の韓国名)」が島根県に編入(1905年2月22日)され、「日本の韓国侵略の最初の犠牲」になったという歴史認識である。
「平和的変革」という大問題
歴史家であり英国外務省の実務家でもあったE・H・カーは、国際関係における大問題として「平和的変革(peaceful change)」を挙げたことがある(原彬久訳『危機の二十年-理想と現実』岩波文庫、2011年、原著の刊行は1939年)。国内では革命が、国際関係では戦争が不法化されると、現状(status quo)をいかに平和的に変革するのか、その方法が問われることになった。「戦争」放棄に関するパリ条約(1928年)は第2次世界大戦の勃発を阻止できなかったが、その戦勝国が起草した国連憲章(45年)では「武力による威嚇又は武力の行使」(2条4項)が包括的に禁止された。2019年の今日、「戦後」国際秩序とは依然として「第2次世界大戦」後を指す。この間、米ソ冷戦も起きたが、再び「講和」条約が締結されることで終焉(しゅうえん)したわけではない。
法秩序には当然、成立当時の規範やパワーバランスがビルトインされている。国連憲章には、70年以上経った現在も、「敵国」(53条・107条)という規定が残っている。現行の手続きに則って改正されない限り、安全保障理事会の常任理事国も戦勝5カ国のままである。この間、敗戦国から「平和愛好国」へ、さらには「戦後レジームの守護者」へと生まれ変わった日本としては、こうした「現状」にある種の「不満」があるのも当然である。しかし、再び「国際秩序への挑戦者」(安倍談話)になるわけにもいかないし、「条約改正(安保理改革)」の試みも今のところうまくいっていない。
韓国が日韓「1965年体制」に対して抱く不満も、基本的にはこれと同種である。当時、日韓の国力差は圧倒的で、かつ冷戦の最前線に立たされる中で、「日米韓」の安保連携や日本からの経済協力は「正しい過去清算」よりも優先するしかなかった。ところが、この50年余りで、韓国は1人当たりのGDPでも日本に追いつき、情報化や人権などの分野では既に追い抜いたと認識している。さらに、「朝鮮半島の完全な非核化」「朝鮮半島における平和体制の構築」を自ら主導している/するべきであるという自負/規範意識も強い。この変革プロセスに慎重な日本は、「冷戦の名残=休戦協定=旧体制」に固執する「既得権層」にさえ映っている。
今日、国際秩序を成り立たせている核心的なルールや規範は何なのか。将来の秩序はどうあるべきか。いま何を、どのように変革/守護するのか。こうした秩序の構成原理、すなわち国際立憲主義の在り方をめぐって、世界各地で「異論/抗議(voice)」が噴出しつつある。「徴用工」問題は、日本からすると「一方的な現状変更の試み」にほかならないが、その射程は、日韓「1965年体制」だけでなく、「戦後和解」「戦後国際秩序」の在り方にまで及んでいるのである。その意味で、「史上最悪の日韓関係」は、二国間関係に「特異な(idiosyncratic)」問題というよりは、「普遍的な(universal)」パズルの断片なのである。
バナー写真:韓国の李洛淵首相(左)との会談に臨む安倍晋三首相=2019年10月24日、首相官邸(時事)