沖縄を考える

徹底討論(Part 1)・「沖縄問題」の本質とは何か—「沖縄問題」としての基地問題の来歴と現状

政治・外交

米軍基地の約74パーセントが沖縄に集中する中で、普天間基地の辺野古移設をめぐり沖縄と本土の対立が深まっている。沖縄をめぐる問題を3人の国際政治学者が様々な角度から浮き彫りにし、状況打破の糸口を探る。

宮城 大蔵(司会) MIYAGI Taizō

上智大学総合グローバル学部教授。1968年東京生まれ。立教大学法学部卒業後、NHKで記者を勤めたのち、一橋大学大学院に入学。政策研究大学院大学助教授などを経て、現職。著書に『「海洋国家」日本の戦後史』(ちくま新書、2008年)、『戦後アジア秩序の模索と日本―「海のアジア」の戦後史 1957-1966』(創文社、2004年)など。

遠藤 誠治 ENDŌ Seiji

成蹊大学法学部教授。1962年滋賀県生まれ。1988年東京大学大学院法学政治学研究科政治学専攻修士課程修了(法学修士)。1993年成蹊大学助教授を経て2001年より現職。1995年、2010年オックスフォード大学セント・アントニーズ・カレッジ客員研究員、1996年ウェルスリー大学客員研究員。編著書に『グローバリゼーションとは何か』(かわさき市民アカデミー出版部、2003年)、『普天間基地問題から何が見えてきたか』(共編/岩波書店、2010年)、『シリーズ日本の安全保障』(共編/岩波書店、2014年)等。

平良 好利 TAIRA Yoshitoshi

獨協大学地域総合研究所・特任助手。法政大学兼任講師。1972年沖縄県生まれ。1995年沖縄国際大学法学部卒業。2001年東京国際大学大学院国際関係学研究科修士課程修了。2008年法政大学大学院社会科学研究科博士後期課程修了。博士(政治学)。主な著書は『戦後沖縄と米軍基地―「受容」と「拒絶」のはざまで 1945‐1972年』(法政大学出版局、2012年)。

「国外」を言い出せなかったことにすべてが凝縮

平良 やはり95年にあの少女暴行事件が起こったとき、国外移転、つまり日本から海兵隊を撤退させることを日本側が提起できなかった理由を考える必要がある。ここに問題が凝縮的に詰まっている。

1つの背景には、冷戦時代にできた固定観念を拭い去ることができなかったのではないか、ということがある。日本は少なくとも70年代前半までは、「対等性」と「安全確保」のはざまでジレンマにあった。つまり、在日米軍の撤退等によって占領の「残滓」を払拭し、日米を対等の関係にしていきたいという思いがある一方で、あまりに米軍が日本からいなくなってしまうと、今度は自国の安全確保に不安がでてしまうというジレンマがあった。

しかし、70年代前半までにかなりの米軍を撤退させ、しかも首都圏の米軍基地の返還も実現することになる。また60年には安保改定、72年には沖縄返還も実現する。先ほども言ったように、これで日米の「対等性」の問題にひとまず “ケリ” をつけた恰好となった。一方、70年初頭に米側が在日米軍の大幅撤退案を示した時、防衛庁・自衛隊の中では、日本防衛のための米軍兵力は「既に限界を割っている」、あるいは「今回の提案が最低限」といった意見が出され、米軍のさらなる撤退に懸念を示している。これは最近の研究で明らかにされたことだ。

つまり、政治のレベルで考えると米軍は撤退してもらいたいが、安全保障のレベルからみれば、これ以上の撤退は困るということになる。ここで日米の「対等性」の問題と日本の「安全確保」の問題がある種の均衡点に達したのではないか。

また、米軍の地上戦闘部隊は50年代末までに日本本土からいなくなり、唯一残っていたのが沖縄の海兵隊だったが、その海兵隊の本国撤退ないし韓国移転構想が、70年代初頭に米側から浮上してきた。これも最近の研究で明らかになったことだが、当時の防衛庁は、「極東のどの地域にでもいったん事あれば派遣できるという抑止力の役目を果たしている」といった考えで、海兵隊の沖縄残留を求めている。

こうした70年初頭に構築された海兵隊を含む在日米軍への評価が、冷戦終結後も、そのまま歴史の慣性として続いたのではないか。95~96年に国外移転を日本側が提起できなかった背景の1つには、こうしたものがあったのではないか。

宮城 95年の事件のようなことはないことをもちろん強く願うが、確率的に未来永劫ゼロとは言い切れない。今の状況が続く中で何かしらの事件、事故が起きてしまったときに、本当にどうなってしまうのだろうかと考えると、非常に恐ろしい。

遠藤 その感覚は、日本政府よりも米軍側に強いのではないか。日本政府は、基地を受け入れてもらう際の政治的な感覚が驚くほど鈍感だ。米軍のほうが、基地維持についてよりリアリスティックに考えている。

宮城 あの暴行事件のときもそうだったように見える。当時の河野洋平外務大臣は当初、軽率な動きをすると日米安全保障が揺らぐというような姿勢だった。リベラルな部類の河野氏ですらだ。それに大田知事が強く反発して、代理署名拒否につながっていった。感度の違いとしか言いようがない。むしろアメリカのほうが実際に沖縄で基地を運営している分、感度がいいというところはある。

平良 沖縄と本土との感覚の違いで言うと、本土では70年代までに米軍基地が大部分なくなっていく。それにあわせて事件事故も少なくなっていく。つまり、米軍や米軍基地という負の側面がなくなっていって、日米関係を正のイメージで捉える傾向が強くなり、しかも「日米同盟」という呼び名も広く認知され、その日米同盟を深化・発展させる方向で進んでいった。その流れが冷戦終結を経て今日に至るまで、基本的には続いていると思う。

一方、沖縄を見ると、広大な米軍基地がずっと存続しているわけだから、やはり負のイメージが強い。ここに本土と沖縄の現実の違い、また認識のギャップをみることができるのではないか。

遠藤 72年の沖縄返還から40年以上経つことを考えると、あらためて本土と沖縄の感覚のずれが大きいことを実感する。

(2015年6月19日の鼎談に基づき、編集部が構成)
タイトル写真=宜野湾市の市街地とその後方に隣接する米軍普天間飛行場/ 時事

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