大衆音楽の「戦後」はいつはじまったのか?
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俗に「歌は世につれ、世は歌につれ」という。世が歌につれることはあまりないし、そもそもある歌謡が単純に世相一般を反映していると考えることにも疑問がある。とはいえ、戦後日本において、歌謡が人々の集合的な記憶と深く結びついてきたこともまた間違いない。本稿では、「歌」と「世」が人々の記憶の中で撚り合わされるさまざまな仕方にも留意しながら、戦後初期の大衆音楽史をひもといてみたい。
終戦後初のヒット曲「リンゴの唄」は戦時中につくられた
「戦後」の明るさや解放感を象徴する歌謡として真っ先に想起されるのは「リンゴの唄」や「東京ブギウギ」だろう。たしかにこれらが敗戦直後の数年間に非常な人気を博したことは間違いない。しかし、これらは一方では、戦前・戦中との連続性を示すものでもあり、他方、こうした歌の流行は、知的な文脈ではむしろ否定的に捉えられることのほうが多かった、ということもまた重要だ。
「リンゴの唄」は戦後初のヒット曲として知られる。これは敗戦直後の1945年10月に封切られた映画『そよかぜ』の挿入歌だった。ということはつまり、それがつくられたのは戦時中ということになる。戦争末期には、戦争と銃後の生活の苦難を感傷的に描く表現はむしろ後退し、明朗かつ娯楽的な表現を通じて人々を慰撫するような表現が志向された。『そよかぜ』と「リンゴの唄」もその一つとして企画されたと考えられる。
映画主題歌がレコード化されヒットする、という「タイアップ」が常套化するのは、1938年の『愛染かつら』以降だが、その主題歌「旅の夜風」の作曲者、万城目正(まんじょうめ・ただし)は「リンゴの唄」の作曲者でもある。
戦前ジャズの担い手が生んだ「東京ブギウギ」
一方、「東京ブギウギ」は、服部良一の作曲による「ブギ」という外来リズムが戦後の「アメリカ」への憧憬のあらわれとして解釈されることが多い。また、これを歌い踊った笠置(かさぎ)シヅ子の姿は、しばしば「パンパン」と呼ばれた女性たちの派手で大胆な立居振舞いとも結び付けられ、その意味でも「戦後」の象徴とされやすい。しかし、笠置も服部も、戦前日本のジャズ文化の主要な担い手だったことは強調しておきたい。
この二人が組んだ松竹楽劇団は、日米開戦直前に戦前日本ジャズの頂点をきわめた。服部が「ブギ」のリズムを初めて用いたのも、戦後ではなく、戦時中だった。彼は陸軍軍属として中国大陸で対敵宣伝としての音楽活動に従事していたが、1945年6月の上海でのリサイタルで初演されたシンフォニック・ジャズ曲「夜来香幻想曲」の一部でこの新リズムを用いている。
ちなみに服部は、日本でのヒット曲が少なくなる1960年代以降、香港にその活路を見いだし、香港エンターテインメントの発展に絶大な影響を及ぼしている。このことは、服部の音楽活動(ひいては日本の大衆音楽文化全体)を、戦前と戦後を貫いて存在する東アジアの大衆文化ネットワークのなかで捉える必要をわれわれに示している。
「俗悪な流行歌」と決めつけた進歩派知識人
考えてみれば当然ではあるが、戦後最初期に流行した楽曲は、制作方式においても、歌手や作家といったスタッフにおいても、曲調においても、その直前の時期と断絶していたわけではない。そうした連続性をとりあげて、「民主的」で「進歩的」な芸術文化の啓蒙普及を目指す当時の知識人たちは、それらの楽曲を、旧態依然、反動的、として激しく非難していた。当時の代表的な音楽評論家の一人、園部三郎は次のように「リンゴの唄」を評する。
“ 試みに最近の流行歌「りんごの歌」[ママ]を考えてみるがよい。あの歌詞のどの一行に人民自身の生活心情の奥底にふれたものがあるか。或は人間的感情が表われているか。それは意味のない言葉がつづられているだけで、旋律もまた無感動でそれに なんとなく民心を異国的あこがれに導くレヴュー的雰囲気の伴奏が附いているのである。人民が無希望、無思索に陥っているこの荒廃の時代に、商業主義はさかしくもまた人民の弱点と無自覚とを利用して、旧自由主義末期の傾向を復元しつつ、人民を無気力状態に陥れつつあるのだ。”(園部三郎『民衆音楽論』p.35)
こうした、流行歌(レコード会社が企画する大衆歌謡)への敵意は、1950年代から台頭する左翼系の音楽運動(合唱の「うたごえ運動」や鑑賞団体の労音【勤労者音楽協議会】など)に受け継がれてゆき、昭和30年代(1955年~64年)を通じて、具体的な音楽実践も伴って強い影響力をもつことになる。
当時のインテリ層の流行歌への忌避感を示すエピソードをもう一つ挙げておこう。映画監督の今井正は、自身の監督作品『青い山脈』において、服部良一作曲の主題歌を用いることを嫌っていたという。
後には戦後民主主義の象徴となり、1980年代のテレビ調査(1981年TBS、1989年NHK)では「日本人の最も好きな歌」の第一位に選ばれたこの「若く明るい歌声」は、戦前の東京帝大中退の社会派監督にとっては、低俗で軟弱なものだったようだ。
GHQ主導で爆発的人気博したラジオ「のど自慢」
ところで、「リンゴの唄」の流行は、後年のヒット曲のようにレコード売上枚数で計られるものではなかった。プレス工場は空襲で被害を受け、材料も欠乏していた。もちろん庶民には購買力もなかった。その流行は、ある意味ではきわめて「戦後的」な経路で起こった。つまり「のど自慢」で繰り返し歌われることによって人口に膾炙していったのだ。
ラジオ放送開始後、1946年1月に始まり、たちまち爆発的に人気を博したこの番組は、GHQによる放送の民主化指令を受けて企画されたものだ。決して上手とはいえない素人の歌声が公共の電波に乗る、という事態は、それまで上意下達メディアであったラジオにはありえないもので、そこに「民主主義」を感じる人々も多かった。
しかしこの番組も、戦争の記憶と無縁ではない。この番組のヒントになったのは、軍隊内の演芸大会だったという。さらに、その人気の背景として、ラジオが空襲や配給や出征といった生活に不可欠な情報伝達手段として戦時中に急速に普及した、ということも忘れてはいけない。
ほどなく「のど自慢」は放送番組を越えて、素人が歌を競う実演として、それ自体一つの新しい娯楽形態として広まってゆく。やがて、レコード会社もこの形式を用いて公開オーディションを行うようになり、その中から島倉千代子、北島三郎、都はるみといった歌手が登場する。戦前のレコード歌手は音楽学校出身者か有力な作曲家や歌手の弟子がほとんどだったので、「素人あがり」を積極的にピックアップするこのシステムは、映画各社の「ニューフェイス」と同様、戦後に特徴的なものといえる。
「のど自慢」予選で失格した美空ひばり
この「のど自慢時代」を象徴する存在が、素人の子供歌手から一躍スターになった美空ひばりだ。横浜で魚屋を経営する父親の道楽ではじめた素人楽団で歌い始めた豆歌手は、たちまち活動の舞台を広げ、やがてはレコードと映画を股にかけて戦後最大の大スターとなる。
彼女の最初の映画出演は、その名も『のど自慢狂時代』であり、そこでは「東京ブギウギ」を歌っている。当時の彼女は大人顔負けに笠置シヅ子の曲を歌う「ブギウギこども」だった(この評言は、ひばりをこきおろしたサトウハチロー(「リンゴの唄」作詞者でもある)による新聞コラムのタイトルだ)。
しかし、「のど自慢時代」の申し子であるひばりは、その「本家」であるNHKの放送番組の価値観とは相容れなかった。彼女がNHK「のど自慢」の予選に出場した際、不合格を示す鐘ひとつさえ鳴らず、審査不能の失格となった、という有名なエピソードがある。彼女がスターになってからの雑誌記事でも、「かりに、いま美空ひばりが、のど自慢に出場したとしても、私は鐘を鳴らさぬだろう」というNHKの音楽番組担当ディレクター・丸山鉄雄(戦後民主主義のチャンピオンと称される政治学者・丸山真男の兄)の談話が紹介されている。
「流行歌」を嫌い「歌謡曲」と呼んだ放送界
つまり「のど自慢」は、素人の歌を大衆娯楽として流通させる新たな上演形式の基となる一方で、放送番組としては、あくまでも制作者が考える望ましい音楽性を啓蒙普及する場でもあったのだ。昭和20年代後半(1950年~54年)には、「トンコ節」など盛り場の酒色と結びついた「お座敷調」の流行歌が猖獗(しょうけつ)を極めたが、それらの歌がNHKの「のど自慢」で披露されることはなかった。一方、合格するのは、より西洋芸術音楽に近い歌唱法で芸術歌曲に近い楽曲(その多くはNHKのラジオ放送のために作られた「ラジオ歌謡」)を歌う出場者だった。
さらに遡れば、放送は、レコードやトーキー映画といった、昭和初期のモダン文化のなかで最初の隆盛をみた産業的な娯楽に対して一貫して批判的であり、自ら主体的に健全で家庭的で芸術性の高い大衆音楽を作り出そうとしてきた。
そもそも「歌謡曲」という用語は、レコード会社が企画制作する大衆歌謡が「流行歌」という分類名を用いたのに対し、その語を用いないために放送局が考案した言い換え語だった。
戦後放送音楽の方向性を決定づけたエリート・三木鶏郎
レコード会社製の「流行歌」とは異なる大衆歌謡を自ら生み出そうとする志向は、1936年に放送開始され多くの「戦時歌謡」を生んだ「国民歌謡」や、戦後それが改称した「ラジオ歌謡」、1960年代前半に「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」などを生み出す『夢であいましょう』の「今月の歌」や、現在まで続く「みんなのうた」など、様々な形をとってきた。そのなかで、戦後の放送音楽の方向を設定したといえるのが作曲家・三木鶏郎(みき・とりろう)だ。
飯田橋に事務所兼住居を構える弁護士の息子で、東京帝大音楽部で活動し、同窓の諸井三郎に作曲を師事した、という、生粋の教養主義的音楽エリートである彼は、陸軍主計中尉として敗戦を迎え、召集前の職場である日産化学に復職せず、音楽家の道を選んだ。師の人脈を活かし、焼け跡の生活を歌った自作曲「南の風が消えちゃった」(タイトルは戦時中の南進政策を揶揄したもの)を放送局に売り込むや、ディレクター・丸山鉄雄に気に入られ、その日のうちに放送され大きな反響を呼ぶ。
初のレギュラー番組『歌の新聞』は占領軍検閲官との行き違いにより打ち切りとなるが、1947年に開始された『日曜娯楽版』で、時々のニュースや生活の話題を音楽コント仕立てで上演する「冗談音楽」の構成と音楽を一手に引き受ける。明朗な音楽と切れ味鋭い世相風刺(日本政府をも容赦なく批判したがGHQの批判だけはご法度だった)で一世を風靡する。現代版鉄道唱歌というべき「ぼくは特急の機関士で」や、「毒消しゃいらんかね」「田舎のバス」など、必ずしもレコードのヒットという形ではなく、ラジオを通じて広く親しまれる歌を多く作った。
民放転出後にCMソングを量産した三木
占領期に圧倒的な人気を博した『日曜娯楽版』は、占領終結後、政府の圧力で放送打ち切りとなり、三木鶏郎は民放に移り、今度はコマーシャルソング作家として膨大な仕事を残している。一般に日本初のコマーシャルソングといわれる「ぼくはアマチュアカメラマン」にはじまり、「ワ・ワ・ワ・輪が3つ」(ミツワ石鹸)「キリンレモン」「明るいナショナル」「くしゃみ三回ルル三錠」など枚挙にいとまがない。
政治風刺からCMソングへの転身は、一見すると商業主義的な堕落のようにもみえるが、本人の意識としては、政治風刺はあくまでも大衆の音楽趣味を引き上げるための方便にすぎず、明朗で質の高い(西洋芸術音楽の約束事に合致する、という意味での「質」だが)音楽を、放送を通じて広く家庭に普及させることで、旧来の俗悪な大衆文化に毒されている大衆の趣味を救済する、という志向においては一貫したものだった。
放送音楽が、レコードや映画を通じて普及する従来の大衆歌謡よりも「高尚」であり、なおかつ親しみやすい、という、三木鶏郎の仕事を通じて育まれた感覚は、CMやテレビ番組とのタイアップによってヒット曲が量産される、日本以外では必ずしも一般的ではない流行過程の背景ともなっているように思える。
進駐軍クラブが生んだ「芸能プロダクション」
三木鶏郎の音楽的アイデアの源泉は、戦前に受けた西洋芸術音楽の教育に加え、戦後の占領軍放送に由来している。分厚く複雑なビッグバンドの響きや洗練されたコーラスが、彼の考える高尚な大衆音楽のモデルだった。実質的に放送局専属になる前には、占領軍のキャンプでの演奏を行っていた。このことが示すように、占領期には、ここまで素描してきた日本の大衆音楽状況と隣接して(しかし一般の日本生活者からは隔絶されて)、占領軍の慰安施設でアメリカ流のエンターテインメントを提供する音楽家や芸人が多数存在した。
占領終結前後から、占領軍のクラブでキャリアを開始した歌手が日本の聴衆相手に活動を始めることになる。その筆頭、江利チエミと雪村いづみは、同年齢の美空ひばりとともに「三人娘」を形成した。
また、占領軍相手のバンド経営や演奏場所のブッキングといった仕事から発展して、所属芸能人のマネージメントのみならず育成や売り出しまでを行う芸能プロダクションという新しい形態が生み出される。それまでは、興行師は土地と結びついており、芸能人の付き人は「カバン持ち」あるいは「番頭」にすぎなかった。
1958年のロカビリーブーム以降、芸能プロダクションに所属する若者たちが、テレビという新しいメディアを主要な舞台に、アメリカ的な雰囲気の強いパフォーマンスを繰り広げるようになる。テレビと芸能プロダクションが中心となって、60年代後半以降、レコード会社と映画会社の垂直統合に基づく旧来の娯楽産業の構造を根本的に転換させてゆくことになるのだが、残念ながらそのことを述べる余裕はないため別の機会を待ちたい。
「戦後歌謡史」をめぐる個人と集団的記憶
本稿では、敗戦直後の大衆音楽状況を、戦前・戦中との連続、メディア環境、イデオロギーに即して素描した。いかにも「戦後的」にみえる事象が戦前に淵源していたり、現在「国民的」と考えられている楽曲や人物や事象が激しい批判の対象になっていたり、というように、現在漠然とイメージされる「戦後歌謡」とは異なる相貌を意識的に示そうとしてきた。もちろん、ここで描いたのはあくまでも筆者の取捨選択と解釈を通した姿であり、これこそが「真実」だった、などと強弁するつもりはない。
強調しておきたいのは、戦争を挟んで大衆音楽のすべてが新しく変わった、などということは決してない、ということ、また、人々がひとしなみに同じ歌を愛好したわけでもなく、多くの人々に愛好された歌が常に手放しで賞賛されたわけでもない、ということだ。たしかに歌は個々人の記憶と結びついている。そして、ある歌が、ある時代のある人々の集合的な記憶のインデックスとなることもあるだろう。
しかし、たとえば同時代的な言説の中では忌避されることも多かった「リンゴの唄」や「青い山脈」が、現在では、ある時代とそこに生きた人々の全体を肯定的に表象するものとしてその意味作用を変化させたように、個人的な歌の記憶が、集団的なそれに変化するに際しては、様々な歴史的地点における様々な文脈が複雑に絡み合っている。また、その集団的な記憶自体も常に揺れ動き、更新されている。「戦後70年」に際して、「戦後歌謡史」の更新と再編はどのように行われるのだろうか。
戦後大衆音楽関連年表(1945 ~1954)
1945年 | ・ポツダム宣言受諾(8/15) ・軽音楽・歌謡曲の放送復活(9/9) ・GHQが占領政策徹底のため日本国内の家庭の半数にラジオ受信機が普及するように生産・配給の立案を政府に指示(11/13) ・NHKラジオで「新雪」「赤城の子守唄」「野崎小唄」などが流れる(9/9) ・“敵性音楽”として規制されていたジャズやダンス音楽も復活。米軍部放送組織(AFRS)が開設(9/23)。「Smoke Gets in Your Eyes」「Sentimental Journey」などが流れる ・映画「そよ風」(封切り10/11)の主題歌「リンゴの唄」が全国的に広まる ・日蓄工業(現日本コロムビア)が戦後初の洋盤レコードを発売(11)。A面「ビギン・ザ・ビギン」、B面「眼に入った煙」で大ヒットする ・紅白歌合戦の前身「紅白音楽試合」放送(12/31) |
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1946年 | ・NHK「のど自慢素人音楽会」放送開始(1/19) ・ブギウギのリズムで「東京の花売娘」岡春夫が大ヒット |
1947年 | ・対日理事会が民放不許可の方針を決定(1/8)。GHQが政策を転換し、NHKの公共事業体化,民間放送の開設等を指示(10/6) ・笠置シズ子が3月東京日劇、9月大阪梅田劇場で「東京ブギウギ」を歌い、大ヒット ・「日曜娯楽版」放送開始(10/5) ・労働運動の高まりとともにうたごえ運動が登場 |
1948年 | ・美空ひばりがデビュー。横浜国際劇場に前座歌手として登場(5/1) ・ブギブーム―「東京ブギウギ」に続き「ヘイヘイブギ」「ジャングルブギ」がヒット、服部良一・笠置シズ子のコンビでセンセーショナルを巻き起こす ・“古賀メロディー”の代表作「湯の町エレジー」が40万枚以上の売れ行き |
1949年 | ・映画の主題歌のヒットが相次ぐ―「悲しき口笛」「青い山脈」「月よりの使者」「銀座カンカン娘」など ・スイング・ジャーナル主催による第1回スイングコンサートが読売ホールで開催される(7) |
1950年 | ・進駐軍放送(WVTR)からヒット曲が生まれる―ドリス・デイ「アゲイン」、ナット・キング・コール「モナリザ」など ・“ブギの女王”笠置シヅ子の「買物ブギ」がヒット。ブギブームが終焉をむかえる |
1951年 | ・第1回「紅白歌合戦」をスタジオから放送(1/3) ・コロンビア、LPレコードを発売(3/20) ・日本初の民放ラジオ局が開局(9/1) ・「上海帰りのリル」がヒット。「銀座のリル」「リルを探してくれないか」などのリル・ブームが起こる ・ご当地ソング登場―NHK「日曜娯楽版」の放送中に歌われた「僕は特急の機関士で」が人気を集める |
1952年 | ・民放ラジオ局の開局ラッシュ ・ラジオ東京開局記念ラジオドラマ「リンゴ園の少女」のために作られた美空ひばりの「リンゴ追分」が大ヒット ・江利チエミ「テネシーワルツ」でデビュー。23万枚のヒットとなる |
1953年 | ・NHKテレビ放送開始(2/1) ・第4回紅白歌合戦,テレビで中継開始(12/31) ・ジャズブーム―日劇で「ティーン・エイジャー・ジャズ大会」開催。6日間で7万人の入場記録(7)。浅草国際劇場で「ジャズ・ショー」開催。13日間で10万人が入場(9)。また,ルンバ王といわれるザビエル・クガートとその楽団(3)、ノーマン・グランツやオスカー・ピーターソンの「JATP」(11)、ルイ・アームストロング・オールスター(12)などが来日。全国の大学ではジャズバンドが続々誕生し、都内にジャズ喫茶の開店が相次ぐ ・東京・日比谷で「日本のうたごえ」第1回中央大会開催(11/29)。うたごえ運動が広がる ・雪村いずみ「想い出のワルツ」でデビュー |
1954年 | ・新宿にうたごえ喫茶登場 ・「お富さん」ブーム―春日八郎が一躍スターダムに ・国産EPレコード第1号―雪村いづみの「青いカナリヤ」 ・ 映画「グレン・ミラー物語」の封切りとともに「茶色の小びん」などのグレン・ミラー・サウンドがブームとなる |
(電通広告景気年表を参考に編集部が作成)
(2015年6月1日 記/タイトル写真提供:日本コロムビア、時事)