日本の国際法遵守とドイツ兵捕虜たちの収容所生活
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2014年は第1次大戦勃発から100年に当たる。時に欧州大戦ともいわれるように、第1次大戦が日本で話題になることはほとんどない。第2次大戦の出来事があまりに強く記憶に残っていることが、その原因かもしれない。ともに世界大戦といわれながら、実は両者の間には著しい違いがあった。日本は第1次大戦に連合国の一員として参戦した。しかし実質的な日本の戦闘行為は、中国山東半島の青島攻防をめぐるドイツとの戦い、いわゆる日独戦争にほぼ限られ、それもわずか1カ月半ほどで終結した。その結果、約4700名のドイツ兵捕虜が日本各地16カ所の収容所に5年余りにわたって収容された。今では忘れられた出来事である。
国際法を遵守した捕虜収容所の運営
当時、戦争捕虜は公的には俘虜(ふりょ)と呼ばれた。捕虜収容所を管轄する機関の名称も俘虜情報局だった。今日、俘虜の語はなじみがないので、本稿では引用部分以外には捕虜の語を使用する。またドイツ兵捕虜といっても厳密には、ドイツ人以外にオーストリア人、ハンガリー人、チェコ人、ポーランド人らの人々が混じっていた。しかし圧倒的多数の捕虜はドイツ人であったので、捕虜全体に言及する場合はドイツ兵捕虜の語を用いる。
ドイツ兵捕虜に対して日本は、国際法遵守の精神で対応した。1907年10月18日にオランダのハーグで調印し、1912年1月13日に公布した「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」、いわゆる「ハーグ条約」に拠ったからである。以下この規則に言及する時はハーグ条約とする。ハーグ条約の第2章俘虜の項の第4条には、「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」との条項がある。日独戦争の10年前に起こった日露戦争に勝利した日本は、欧米諸国から文明国として認められるように努めた。そのためには、収容所内での捕虜の虐待や強制労働は決して行われてはならなかったのである。
しかし1915年11月15日、久留米収容所で真崎甚三郎所長による捕虜将校殴打事件が起こった。大正天皇即位の大典に際して、捕虜にビール1本とリンゴ2個が特別に与えられたが、日独両国が交戦中であることを理由に二人の将校が拒否すると、怒った真崎所長が頬を殴打したのである。捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に、捕虜たちは所長の行為に激しく抗議し、当時はまだ中立国だった米国の大使館員派遣を要求する大問題に発展した。真崎所長はほどなく収容所長を罷免された。これはまれな出来事と見てよいであろう。各地の収容所でも下級所員と捕虜との間で些細(ささい)ないざこざは起こったが、虐待といえる暴行はほとんど起こらなかった。
ドイツ兵捕虜たちの写真が物語るゆるやかな規律
〔写真1〕は1916年4月始めに撮影された、香川県の丸亀収容所での収容所所員と捕虜将校との記念写真である。収容所長石井彌四郎大佐退任記念写真と思われる。前列中央の石井所長は病気がちであったこともあって、どことなく縮こまっているのに対して、両脇にいるドイツ人将校の方は脚を組んで堂々としている。とても捕虜のようには感じられない。収容所での捕虜取り扱いの一面を示しているといえよう。
〔写真2〕は名古屋収容所での捕虜達のスナップ写真である。撮影年月日は不明であるが、服装から季節は冬と思われる。収容所の一室の陽だまりで思い思いのポーズをとっている姿は、厳格な規律におびえる捕虜の姿といったものはほとんど感じられない。
〔写真3〕は1915年1月27日に福岡県・久留米収容所で撮られたものである。この日は捕虜たちによって、ドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ世誕生祝賀会が開催された。収容所所員山本茂中尉が捕虜たちと和やかに談笑する様子が写っている。山本中尉はドイツの陸軍士官学校への留学経験のある、ドイツ語が堪能な軍人だった。収容所では更にドイツ語力を磨くために、捕虜の一人と日本語およびドイツ語の交換授業を行ったことが、元捕虜の日記に記されている。なお、日独の将兵を撮影した写真は数多く存在するが、笑顔で写っている写真は極めて珍しい。
故国への便りは無料、月給も支給された捕虜たち
ハーグ条約の規則の中から、今日では意外に思われる3点を挙げてみる。
第10条「俘虜ハ其ノ本国ノ法律カ之ヲ許ストキハ宣誓解放セラルコトアルヘシ」
宣誓解放は今日では奇妙に感じられる不思議な規則であるが、第一次大戦時には国際条約に盛り込まれたのである。日独戦争時はドイツ領だった南洋群島パラオにおける「宣誓書」の用例を示してみる。
「下記署名ノ拙者ハ當戰争中ヲ通シテ今後如何ナル塲合ニモ再ヒ獨逸ノ軍隊ニ加ハルコトノナキコトヲ誠實ニ茲ニ宣誓ス 大正三年○月○日 於パラオ」。国内の収容所でも収容初期に福岡で数名の捕虜が宣誓解放された。1918年11月11日に休戦条約が締結されると、フランス系(アルザス及びロレーヌ地方出身者)、イタリア系、ポーランド系、チェコスロヴァキア系などの捕虜が続々と宣誓解放され、最終的には100名近い捕虜が宣誓解放された。
第16条「俘虜ニ宛テ又ハ其ノ発シタル信書郵便為替有価物件及小包郵便物ハ差出国名宛国及通過国ニ於テ一切ノ料金ヲ免除セラルヘシ」
階級によって発信できる信書の数に違いがあったが、平均して1カ月当たり将校5通、下士3通、兵卒2通の封書・葉書を無料で出すことができた。故国への便りだけではなく、収容所間でも通信が行われた。5年余に及ぶ収容期間での俘虜郵便の総数は、故国から捕虜に宛てられたものを含むと、100万通以上に及ぶと考えられる。日独戦争によるドイツ兵捕虜や捕虜収容所の研究は、実は俘虜郵便を収集する郵趣家による研究が発端だった。
第17条「俘虜将校ハ其ノ抑留セラルル国ノ同一階級ノ将校カ受クルト同額ノ俸給ヲ受クヘシ」
捕虜の待遇に関しては西郷寅太郎東京収容所長の談話が残っている。「俘虜の月給は陸軍中佐の183円を筆頭として、中尉47円、少尉40円、準士官40円、下士以下は日給30銭の規定なるが、右はいずれも我国軍人の各官等に準拠せるものにて、(中略)之はあくまで武人の面目を保たしむるを目途とせる俘虜取扱規定に拠れるものなり。尚右月給中将校以上の者は該月給の範囲内にて衣食住其の他一切の費用を自弁するの義務を有し下士以下は各給料の範囲内を以って当方にて一切の賄いをなし与え、衣食以外の間食又は嗜好品たるみかん、ビスケット、コーヒー、煙草等は希望により適宜現品にて支給する規定なり」。
上記西郷所長の談話に大尉の俸給が欠けているのは、東京収容所には大尉の階級者がいなかったことによる。後の正式な俸給を円単位に略して記すと、海軍の場合は大佐262円、中佐200円、少佐137円、大尉82円、中尉55円、少尉46円、陸軍の場合は大佐240円、中佐183円、少佐129円、大尉75円、中尉46円、少尉42円であった。
物価換算等から当てはめると、当時の200円は今日の約160万円(約8000倍)に相当すると思われる。当時の大銀行の銀行員の初任給は月給40円ほどであった。佐官クラスの軍人は、かなりの高給取りだったことが知れる。
労役には賃金を支給、技術指導で重宝
なお、第6条には捕虜に対する労役の条項がある。労役の言葉はどことなく強制労働を想起させるかもしれないが、決してそうではない。「俘虜ハ公務所、私人又ハ自己ノ為ニ労務スルコトヲ許可セラルルコトアルヘシ(中略)俘虜ノ労銀ハ其ノ境遇ノ艱難ヲ軽減スルノ用ニ供シ…」。1916年10月の「俘虜収容所長会同ノ際軍務局長口演事項」という書類の「俘虜労役ニ就イテ」には、次の記述がある。
「俘虜ヲシテ労役ニ従事セシメル必要ハ、(中略)我國産業ノ発達利益ニ資スヘキ職業伎倆ヲ有スル俘虜ヲ収容所外ニ於テスル利用法ハ、昨年各省次官会議ニ提出セラレ各省ニ於テ使役場所、使役方法、賃金、取締方法等ヲ定メ…」
労役に従事する捕虜には賃金が支払われたのである。下級の兵卒にとっては格好の小遣い稼ぎで、しかも収容所外に出られる楽しみでもあった。労役の中には稀に土木工事のような作業もあったが、多くは技術指導であった。搾乳、ケチャップ製造、製パン、ソーセージ製造などの食に関するものから、機械工場でのボイラー設置やゴム製造会社での指導と多岐にわたった。
やがて解放後にはそのまま就労先に雇われる人もいたが、そうした人たちは月給300円以上の破格の待遇で雇用された。
収容所内での多彩な文化活動、『第九』本邦初演も
各地収容所では捕虜によるさまざまな活動が行われた。収容所当局から捕虜に強制されたことは、朝と晩に各1回行われる点呼のみである。それ以外は捕虜に自由活動が許された。ある捕虜は日記の中で、「収容所での最大の敵は退屈であった」と記している。
欧州では戦争はいつ果てるともなく続いていたので、日本の収容所に入れられようとも軍隊組織は変わらずに存続していた。若い兵士が無為に一日を過ごすことは、精神的にも肉体的にも好ましくないと考えられたのであろう。収容所内では捕虜たちによる学習会、講演会、スポーツ大会、演劇、コンサートなどが盛んに行われた。
現在の徳島県・鳴門市郊外に設置された板東収容所は、ベートーベンの『交響曲第9番』(第九)本邦初演地として有名であるが、他の収容所と比べて捕虜に対する自由度が格段に大きく、遠足や海水浴も行われた。旧会津藩士の子孫だった松江豊寿収容所長の、敗者をいたわる精神の現われともいわれている。規律違反や捕虜同士のいざこざに起因する懲罰は各収容所で日常的に行われたが、板東収容所は他の収容所に比べて驚くほど少なかった。そこにも松江所長の人道的な配慮が窺(うかが)われる。
〔写真4〕は、板東収容所近くに捕虜たちと地元の大工30人の共同作業で建てられた富田酪農場(今日は「ドイツ牧舎」と言われる)前で、解放間近の1919年12月頃に撮影された記念写真である。幼女を抱くドイツ兵や、たばこを手にしてそれを見やるドイツ兵の姿には、捕虜の身を思わせるところは微塵(みじん)も感じられない。国際法を遵守した捕虜取り扱いが行われていた証しである、とみることができよう。
(2014年6月30日 記)