第1次大戦100年と日本

政党政治発展の歴史—「大正デモクラシー」からみた第1次世界大戦

政治・外交

1910年代前後、大正時代を迎えようとする日本で「民本」主義と訳されたデモクラシーが、明治憲法の枠内で徐々に現実化されていった。この「大正デモクラシー」の観点から、第1次世界大戦後100年を迎える今日を振り返ることで、あらためてその意義を問い直す。

高い正統性保った「大正デモクラシー」

第1次世界大戦の開戦から100年がたつ。第1次世界大戦は現在の日本とどのように結び付いているのだろうか。現在、日本は人権とデモクラシーを政治構造の基幹とし、それは政治にとどまらず、社会の隅々にまで行き渡っている。その出発点としてまず浮かぶのは第2次世界大戦敗戦後の占領改革である。占領下で日本国憲法が制定され、議院内閣制が明確に規定された。しかし、何もかもが占領下で始まったわけではない。そもそも敗戦に際して日本が受諾したポツダム宣言は、日本国民のうちの民主的傾向の復活と強化に言及していた。そこで、振り返るべきは第2次世界大戦以前の日本の政治経験である。

日本では第1次世界大戦を挟む時期に民主的傾向の盛り上がりを経験し、1950年代以降には「大正デモクラシー」と呼ばれ戦後民主主義の歴史的伝統として検証されるようになった(※1)。これは大正期(1912~1926年)を中心として新思潮の興隆、社会運動の活発化、そして政党政治の発展が見られたことを指す。中でも第1次世界大戦後の1924年から1932年にかけて七代にわたって議会に基礎を置く政党内閣が連続し、当時「憲政の常道」と呼ばれて高い正統性を誇った。ここでは「大正デモクラシー」から見た第1次世界大戦の意義を論じ、両大戦間期に進んだ政党政治発展の歴史をたどることで第1次世界大戦100年を考えたい(※2)

政党内閣の時代

1924年6月11日~ 第1次加藤高明(憲政会・政友会・革新倶楽部)内閣
小作調停法、日ソ基本条約、衆議院議員選挙法改正(満25歳以上の男子普通選挙)、治安維持法、宇垣軍縮(宇垣一成陸相による陸軍4個師団廃止)、貴族院改革。
⇒連立与党内での不一致により退陣。
1925年8月2日~ 第2次加藤高明(憲政会)内閣
連立内閣を解消し、憲政会単独内閣へ。
⇒首相病死により退陣。
1926年1月30日~ 第1次若槻礼次郎(憲政会)内閣
労働争議調停法、地方選挙にも男子普通選挙を導入、昭和改元、金融恐慌。
⇒枢密院と対立し退陣。
1927年4月20日~ 田中義一(政友会)内閣
立憲民政党結成(二大政党化)、ジュネーブ海軍軍縮会議、山東出兵、済南事件、共産主義取り締まり、張作霖爆殺事件、不戦条約。
⇒昭和天皇の不信任表明を受けて退陣。
※【第16回衆議院議員総選挙】(1928年2月20日、初の男子普通選挙):[結果] 政友会217、民政党216、他33
1929年7月2日~ 浜口雄幸(民政党)内閣
ニューヨーク株式市場大暴落(世界恐慌始まる)、金解禁、昭和恐慌、ロンドン海軍軍縮条約、統帥権干犯問題、浜口狙撃事件、三月事件(クーデター未遂)。
⇒首相の病状悪化により退陣。
※【第17回衆議院議員総選挙】(1930年2月20日):[結果] 民政党273、政友会174、他19
1931年4月14日~ 第2次若槻礼次郎(民政党)内閣
満州事変、十月事件(クーデター未遂)。
⇒閣内不統一で退陣。
1931年12月13日~1932年5月26日 犬養毅(政友会)内閣
金輸出再禁止、上海事変、血盟団事件、五・一五事件。
⇒五・一五事件による首相暗殺により退陣。
※【第18回衆議院議員総選挙】(1932年2月20日):[結果] 政友会301、民政党146、他19

第1次世界大戦開戦時、流動化した日本政治

100年前の1914年、7月にヨーロッパで大戦が勃発すると日本も8月にはドイツに宣戦布告し、連合国の一員として参戦した。第1次世界大戦開戦時、日本政治は変動期にあった。1867年に江戸幕府が倒れ、新たな近代国家建設をめざした日本は1889年に大日本帝国憲法を発布し、1890年の帝国議会開会と同時に施行した。第1次世界大戦の勃発はその約四半世紀後のことであった。当初、明治維新を主導した薩摩・長州両藩を中心とする藩閥政府と民党との間で対立が続いたが、日清・日露戦争を経て政党勢力の政治的台頭が見られ、中でも1900年に伊藤博文が組織した立憲政友会(以下、政友会)は藩閥官僚勢力に伍して政権を担い合う存在に成長していった。

20世紀に入る頃、日本政治は二つの意味で新しい時代を迎えていた。一つは指導者の世代交代であり、もう一つは元老(藩閥官僚出身の長老政治家)の影響が強い政治運営から、より開かれた政治秩序への再編であった。そのような中で、1901年から1913年まで、藩閥官僚の桂太郎と、衆議院多数党・政友会の西園寺公望という二人の次世代指導者で政権を担い合った。

しかし、このような過渡的安定は永続せず、1912年の大正改元と時を同じくして日本政治は流動化した。第2次西園寺内閣が陸軍の二個師団増設要求で退陣すると「閥族打破」「憲政擁護」を唱える第1次憲政擁護運動が起こった。明治憲法では首相指名は天皇の大権で、元老たちが話し合いで選定していたが、この時、多数党が首相を出すべきであるという「憲政の常道」が主張され、こうした社会圧力を背景に1913年初め、後を継いだ陸軍出身の桂太郎による第3次桂内閣もわずか50日あまりで退陣に追い込まれた(大正政変)。そして1914年初めにも海軍の汚職事件をめぐる社会の批判を受けて再び政変が起こったのである。

初の本格的政党内閣・原敬内閣が登場

原敬元首相(写真提供=時事)

そこに勃発した第1次世界大戦は、日本における政党政治の発展を一方では後押しし、他方では一時的に押しとどめる役割を果たした。参戦外交を担った第2次大隈重信内閣の加藤高明外相は、桂太郎が創立し、当時政友会と対抗していた立憲同志会を率いた政党政治家で、元老を意思決定から排除しようとしたが、性急さが目立った参戦決定に加えて対華二十一カ条要求で内外の批判を受けた。ここに大戦下の「挙国一致」ムードもあって陸軍の寺内正毅が首相となり、第1次憲政擁護運動前に戻ったかのようであった。しかし、寺内内閣は「非立憲」内閣と批判され、政権基盤強化のために設置した臨時外交調査委員会では政党指導者が初めて外交の意思決定に直接参画した。さらに大戦末期の経済的動揺は米騒動や各種の労働運動などを誘発し、ついに政友会総裁の原敬が衆議院に議席を持つ初の首相として指名された。

原内閣は「初めての本格的政党内閣」と呼ばれ、ロシア革命と米国の参戦によってデモクラシーの勝利と謳われた第1次世界大戦後の世界にふさわしい内閣であったと言えよう。西園寺と外交官出身の牧野伸顕をパリ講和会議に送り、人種差別撤廃を国際連盟規約に挿入するという日本提案が実現しなかったことには不満であったが、今後の改善に期待して常任理事国として国際連盟に参画した。

1920年1月に大正天皇が出した「平和克復の大詔」は、「連盟平和の実」をあげ「時世の進運に伴」うよう国民に求め、1921年11月から翌年2月まで開かれたワシントン会議では海軍軍縮に応じて日英米三国の協調路線を確固たるものとした。こうして第1次世界大戦後の精神は日本において体制化された。政党政治とともにこの時期の国際協調を支えたのが、原の追求した国際的視野を持った開明的な宮中であった。皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)は1921年3月から9月までヨーロッパを訪問して戦跡を視察し、西園寺と牧野が1930年代半ばまで長らく補佐した。

高まる「憲政常道」への機運

加藤高明元首相(写真提供=時事)

他方、デモクラシーという点では原内閣の存在自体が民主化の表れであったが、立憲同志会を継ぐ野党・憲政会は、加藤の下で与野党間での政権交代を主張し、当時ともすれば危険思想視された「デモクラシー」を積極的に擁護し、第1次世界大戦を「正義、自由、人道の勝利」と評価した。このような日本政治の民主的再編は帝国議会の両院関係にまで及ぶ。原、高橋是清と二代の政党内閣の後も官僚内閣が連続したが、「憲政常道」への社会の期待は止められず、1924年1月に貴族院を基盤とする三度目の官僚内閣(清浦奎吾内閣)が成立すると、政党内閣制の確立を求める第2次憲政擁護運動が起こったのであった。

そして総選挙の結果、政変が起こり、第一党となった憲政会の加藤高明が首相に指名され、ともに運動した政友会、革新倶楽部と「護憲三派」内閣(第1次加藤高明内閣・1924年6月~1925年8月)が成立した。この内閣で、納税資格を撤廃した男子普通選挙制の導入と貴族院改革が実現し、国民的基盤を広げた衆議院が政治的に貴族院に優越することが一般的な理解となった。

西園寺公望元首相(写真提供=時事)

以後、日本政治は1932年まで政党内閣の時代を迎えるが、一人残され最後の元老となる西園寺は対華二十一カ条要求によって中国との関係はもとより英米両国との関係をも悪化させた憲政会に不信感を抱いていた。しかし、太平洋における日英米三国の軍艦を地域での「文明と平和の象徴」と述べる加藤が、ワシントン会議全権の幣原喜重郎を外相に据えて幣原外交と呼ばれる協調外交を進めると、西園寺は政党間での政権交代を肯定し、元老の政治関与を自制していく。「大正デモクラシー」は「内に立憲主義、外に帝国主義」とも言われるが、第1次世界大戦後には国内民主化と国際協調とが結び付いていたのであった。

こうして立憲政治の中に民主政治が育まれ、1927年に憲政会を継ぐ立憲民政党が結成されると、政友会との間で二大政党が男子普通選挙制を前提に政権を競い合う政治体制となった。その後も日本の政党政治は一貫して第1次世界大戦後の国際軍縮に取り組んだ。ワシントン会議を引き継ぐ1927年のジュネーブ海軍軍縮会議では英米間の対立で妥結に至らなかったが、1930年のロンドン海軍軍縮会議では合意に至った。

その間、1928年に締結された不戦条約については「人民の名に於て」という文言が政党対立の中で天皇を中心とする国柄と合わないと批判されたが、西園寺は「デモクラシー云々」という批判にその考えでパリ講和会議に臨んだと述べ、1929年6月28日にはヴェルサイユ講和条約締結10周年を祝った。

普通参政権の実施と、世界恐慌による深刻な逆潮

内政においてもさらなる改善が模索された。当時の政党間での政権交代は多数与党が行き詰まると野党が政権に就き次の選挙で多数党となったが、より直接的に選挙結果による政権交代が議論された。さらに、男子普通選挙制に続く女性参政権についても二大政党は競うように取り組み、地方政治から漸次中央政治に及ぼす考えであった。そして、1928年の第16回総選挙以来の男子普通選挙制の実施は、「無産政党」と呼ばれた社会民主主義政党にも活躍の場を与えた。

しかし、このような日本における第1次世界大戦の「戦後」は1929年に始まる世界恐慌の深刻な影響を受けて逆潮に転じた。陸軍出先が1931年に満州事変を起こすと、総力戦を想定し政党政治に順応しつつあった陸海軍は、さらなる政党政治の発展と国際軍縮の進展に強く抵抗するようになり、国民を味方につけるためになりふり構わぬ逆宣伝に努めた。そして政党と軍の軋轢が高まる中、1932年の五・一五事件で政党首相・犬養毅が暗殺されると、西園寺は一時的に官僚内閣を組織し、将来の政党政治への復帰を願った。

さらに1936年に二・二六事件というクーデター事件が起こされるに及んで「憲政の常道」は失われていった。政党政治という第1次世界大戦後の国内体制を破壊した日本が、第1次世界大戦後の国際体制の否定者へと転じていったのは当然であったとも言える。

「大正デモクラシー」—国際的協調主義と国内的民主化への大転換点

第1次世界大戦100年を機に私たちは何を考えるのだろうか。日本にとって第2次世界大戦後の民主化は、民主政治の再建であり、国際協調と国内民主化との結合を回復する試みであった。それはまさに復活し、強化されたデモクラシーである。その意味で第1次世界大戦は日本政治にとって現在につながる大きな転換点であり、欧米世界を中心に現代史の開幕と言われるその意義は、日本でも同様であったと言える。このことはまた、日本だけの日本史というものはなく、世界史の一環であるという当然の事実をあらためて思い起こさせてくれる。第1次世界大戦後の人類の取り組みは、なおも続いていると言えよう。

(タイトル写真=1936年2月26日、陸軍の一部青年将校が1,400名余りの部隊を率いて首相官邸などを襲撃、高橋是清蔵相ら8名を殺害した「二・二六事件」にて、反乱部隊が本拠地とした赤坂・山王ホテル/写真提供=時事)

(※1) ^ 「大正デモクラシー」について、三谷太一郎『大正デモクラシー論 第三版 吉野作造の時代』(東京大学出版会、2013)の整理を参照。

(※2) ^ 史料の出典等は、村井良太『政党内閣制の成立 一九一八~二七年』(有斐閣、2005)、村井良太『政党内閣制の展開と崩壊 一九二七~三六年』(有斐閣、2014)を参照。なお、ここでは政党政治のしくみの展開を主に論じるが、吉野作造や市川房枝など思想面や政党政治を基盤とする社会運動面での発展などについても両書を参照願いたい。また、第一次世界大戦後の日本について、Frederick R. Dickinson, World War I and the Triumph of a New Japan, 1919-1930 (New York: Cambridge University Press, 2013)が多面的に論じている。