靖国神社と戦犯 合祀に至る道
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国際問題化する首相の靖国参拝
毎年、8月の暑い夏が近づくと、にわかに靖国神社がスポットライトを浴びる。首相や閣僚が終戦記念日に参拝するのか、また、すべきかどうか、と。
小泉純一郎首相が2001年から2006年まで靖国参拝を続け、これに近隣諸国が激しく反発したことは記憶に新しい。その経験があまりに強烈であったためか、「小泉後」に靖国に参拝した首相はいない。
小泉の説明によると、靖国参拝は不特定多数の戦没者に対する「哀悼、敬意及び感謝の気持ちを捧げる」ことが目的であり、過去の軍国主義を美化するものではない。しかし、毎年8月15日に政府が主催する全国戦没者追悼式は問題にならないのに、なぜ日本の首相による靖国参拝は外国から批判され、国際問題になってしまうのだろうか。
答えは簡単である。靖国神社には、いわゆるA級戦犯が合祀(ごうし)されているからだ。A級戦犯の分祀(ぶんし)論あるいは廃祀論が唱えられるゆえんである。ただし、A級分祀で問題が解決するかといえば、それはわからない。靖国にはBC級戦犯の英霊も祀(まつ)られており、今度はそちらが外国の攻撃対象になる可能性も否めないからだ。ともあれ、靖国問題の根源は「戦犯」(戦争犯罪人)にある。
そこで、この小論では、靖国に祀られる戦犯とは何か、なぜ彼らが宗教施設の靖国神社に祀られているのか、特にA級戦犯の合祀にはいかなる意味があったのか、これらの問題について考えてみたい。
A級、B級は便宜的な区分
戦争犯罪人とは、第二次世界大戦後における連合国の戦争犯罪裁判で起訴された被告人のことである。彼らが裁判で責任を問われた戦争犯罪のカテゴリーは三つある(※1)。
第一に、侵略戦争の計画、準備、開始、遂行、共同謀議を国際法上の犯罪とする「平和に対する罪」(A級犯罪)である。しかし第二次大戦以前、侵略戦争は「違法」ではあっても、個人を処罰できる「犯罪」ではなかったから、事後法と批判されてきた。
第二に、伝統的な「戦争犯罪」(B級犯罪)。捕虜虐待、占領地住民殺害、都市破壊などの戦争法規違反を犯した者を処罰することは、第二次大戦以前から国際法上、認められていた。
第三は、一般住民に対する非人道的行為や迫害行為を国際犯罪とする「人道に対する罪」(C級犯罪)。ナチスによるユダヤ系ドイツ人(自国民)迫害や平時の行為がB級犯罪では裁けないという事情から、連合国が第二次大戦末期に新しくつくった事後法である。
「A級」「B級」という犯罪の種別については、「級」なる日本語訳から格差イメージが抱かれるが、連合国側の便宜的区分にすぎず、「Aが上で、Bが下」といった犯罪の重さを意味するものではない。
A級犯罪を扱ったのは東京裁判のみ
日本の場合、「平和に対する罪=A級犯罪」を扱えるのは、連合国11カ国が共同で日本人指導者28名を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判、1946~48年)のみだった。つまり「A級戦犯」とは、東京裁判の被告人のことなのだ。
A級裁判では開戦という高度の政策決定に関与したかどうかが争われたため、被告人は閣僚や陸海軍幹部などの国家指導者となる。社会的地位や肩書でいえば、BC級犯罪の罪に問われた被告よりもA級犯罪の被告のほうが「大物」だ(なお東京裁判ではA級犯罪に加えB級とC級の残虐行為も起訴されている)。
他方、連合国側が各国ごとに実施したBC級戦犯裁判は、B級とC級の残虐行為だけを追及する軍事裁判だった。たとえば、アメリカの横浜裁判、イギリスのシンガポール裁判、オランダのバタヴィア裁判、中国の南京裁判という具合だ。
国別の裁判で問われたのは捕虜虐待ほかの戦争法規違反行為であり、被告人の多くは下士官や兵士であった。厚生省の統計によると、BC級裁判の被告人総数(公判中死去は除く)は4830名となっている。
靖国合祀の経緯とそれを願った感情
それでは、戦犯がなぜ、どのようにして靖国に合祀されたのかを見ることにしよう。
そもそも人々が靖国合祀を願ったのは、なぜか。
靖国は国家に殉じた英霊を祭神として祀る神社であり、戦時中、多くの日本軍人が「(死後に)靖国で会おう」と約束して戦没した。要するに、靖国に祀られることで、当該人物が殉国者であり、その死に尊い意味があることが証明される。
刑場の露と消えた戦犯受刑者たちも同様で、すでに占領期から遺族たちは戦犯の合祀を切望した。1951年末の参議院法務委員会で、戦犯の家族同士が協力する団体だった東京留守家族会長の今村ひさ(今村均陸軍大将(※2)夫人)が遺族の心情を代弁している。
「御遺族でございますが、戦犯で処刑されましたかたがたは、只今靖国神社に祀って頂くことができませんで、誠に肩身の狹いさみしい思いをしてお過ごしになっていらっしゃいまして、実にお気の毒でございます。」
転機は、占領の終結、すなわち日本の主権回復であった。法務省は1952年5月の通牒(つうちょう)によって、戦犯は日本の裁判所で刑を受けた者と同様に扱われるとした従来の解釈を取り消し、戦犯の公民権回復を認めた。
1953年からは公的援護の法改正があり、戦犯の刑死・獄死も公務死に準ずる「法務死」とされた。また日本遺族会(1947年発足)などの陳情を受けて、厚生省(現在の厚生労働省)と靖国神社が「合祀事務協力」を始めるのは1956年のことである。
厚生省に流れ込んだ旧軍人勢力
靖国合祀問題で、なぜ厚生省が関与したのだろうか。
戦前の靖国神社は陸軍省、海軍省、内務省が管理運営した特別な国家機関であり、祭神名票(さいじんめいひょう/合祀予定者の名簿)は陸・海軍省が作成していた。
戦後になると、靖国神社は1946年9月、国家機関から民間の宗教法人に変わり、日本国憲法第20条には政教分離の原則が示された。とはいえ、戦死者や戦犯刑死者などの確認は一宗教法人には無理な仕事だから、どうしても国家の調査能力に頼らざるをえない。
他方、戦前に靖国を所管した陸・海軍省は、占領軍の非軍事化政策で1945年末に解体され、残務処理を担う第一、第二復員省になった。その後も改組を繰り返し、1954年4月から厚生省内の引揚援護局(1961年からは厚生省援護局)が軍人・戦犯の援護業務を担当した。こうした改組の経緯から、引揚援護局に旧軍人が流れ込んでいたのである。
祭神名票の作成プロセスをまとめると、次の通りである。
(1)靖国神社が戦死者の情報を国に照会する。
(2)照会を受けて、厚生省が都道府県に調査依頼を通知する。死亡確認の実務作業は市町村が下請けする。
(3)調査結果を厚生省が集約して祭神名票をつくり、靖国に送付。
(4)靖国側が合祀を最終決定する。
こうして「大東亜戦争関係戦没者の合祀」は1959年4月の臨時大祭で、おおむね終わったという(※3)。
BC級戦犯の合祀
一般戦没者合祀の終わりが見えてきた頃、折しも戦犯問題が最終解決を迎えた。すなわち巣鴨プリズンで服役していた戦犯受刑者が1958年5月までに全員、仮出獄し、同年末には刑期が満了したのである。その結果、戦犯の合祀が、いよいよ現実的な課題となった。
戦犯合祀に積極的なのは、旧軍人が属する厚生省引揚援護局であった。この部局は世論の反発を警戒し、まずはBC級戦犯から「目立たない」ように合祀する方針をとり、1959年3月に初めてBC級戦犯の祭神名票を靖国神社に送付した。
当時の靖国神社の宮司(ぐうじ)は、筑波藤麿(つくば・ふじまろ)侯爵(元山階宮<やましなのみや>藤麿王)。男性皇族は通常、職業軍人になったが、筑波は例外的に東京帝大で国史学を専攻し、臣籍降下後は靖国神社の宮司を1946年1月から32年間務めた(※4)。
筑波と靖国はBC級戦犯の合祀には、すぐに応じた。送付翌月の4月に346柱を合祀したのである。その後も、靖国は1967年10月まで4次に分けて合計984柱のBC級戦犯を合祀していった。なお戦犯の合祀にさいしては、遺族の同意は求めなかったという(合祀を望まない遺族もあった)。
ところで、靖国合祀に関する厚生省の事務協力や自治体宛通知は、政教分離の原則に抵触する恐れがあった。そのため厚生省は1971年2月、1956~70年の「合祀事務協力に関する諸通知は、廃止する」との都道府県宛通知を出している(※5)。
慎重に進められたA級戦犯の合祀
このように、大半が無名なBC級戦犯の合祀でさえ細心の注意が払われた。大物ぞろいのA級戦犯については、さらに慎重だった。
厚生省がA級戦犯12名の祭神名票を靖国に送付したのは、BC級合祀がかなり進んだ1966年2月のことである。12名の内訳は、絞首刑になった7名(土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章、東條英機)と判決後、服役中に病死した5名(平沼騏一郎、小磯国昭、白鳥敏夫、東郷茂徳、梅津美治郎)。なお、判決を受ける前に病死した松岡洋右と永野修身の場合、この時点では、12名とは別枠で扱われていた。
厚生省援護局と靖国神社は1969年1月、A級戦犯を合祀すること、ただし「外部発表は避ける」ことを合意した。それでも合祀は、なかなか実現しない。
いらだつ靖国神社崇敬者総代会(靖国神社の意思決定機関)はA級戦犯合祀を決議し、圧力をかけた。この決議の背景には、A級戦犯を合祀しないと「東京裁判の結果を認めたことになる」との東京裁判全面否定論があった。しかし合祀をいつ実施するかについては宮司の決断に委ねられ、旧皇族の筑波はA級戦犯合祀を極力、先延ばしにする意向であった。
東京裁判を全面否定した宮司の早業
しかるに1978年3月、筑波が急逝した。同年7月に後任の宮司に就任したのは松平永芳(まつだいら・ながよし)。福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)の孫、宮内大臣・松平慶民(よしたみ)の子であり、海軍少佐で敗戦を迎え、戦後は陸上自衛隊に属した人物だ。岳父の醍醐忠重(だいご・ただしげ)海軍中将は、オランダのBC級裁判で銃殺刑となり、靖国に合祀されている(※6)。
松平は「『すべて日本が悪い』という東京裁判史観」を否定しなければならないというイデオロギー的な東京裁判全面否定論を信奉し、1978年10月17日、松岡と永野も含むA級戦犯の14柱を秘密裡に合祀した。就任からわずか3カ月という電光石火の早業であった。
A級戦犯合祀の事実は早くも翌年4月の新聞報道で露見したものの、この時は大騒動にはならなかった。しかし終戦40周年の1985年8月15日、中曽根康弘首相が靖国公式参拝に踏み切ると、近隣諸国からの激越な批判を浴びることとなった。
このため中曽根は、当時の中国・胡耀邦政権に配慮するという大義名分で翌年の参拝をやめた。内閣総理大臣による靖国参拝が外国の過激な反発と外交停滞をもたらすという負のスパイラルは、まさに中曽根首相の公式参拝から始まったのである。
ともあれ、A級戦犯の合祀には、純粋な慰霊や鎮魂を超越した、確然たる政治的意味があった。すなわちA級戦犯の靖国合祀は、東京裁判を全面否定するための精神的政策であり、日本の過去の正義と正当性を訴える歴史認識に突き動かされた行動だったのである。
(2013年8月11日 記)
写真=靖国神社に参拝する国会議員ら。(2013年8月15日 AP/アフロ)