東日本大震災2周年を迎えて

ルポ・被災地再訪(後編):「本宅」確保がひとつの節目

政治・外交 社会

津波でほとんどの建造物が流された東北の太平洋沿岸部では、住宅やインフラの再建が大きな課題だ。ジャーナリスト菊地正憲氏が、被災地の街の再建への取り組みを取材した。

陸前高田市:「奇跡の一本松」も消えた中心市街地

「ここの駅前商店街を北に進むと、高台の城跡と神社にたどりつくんだ。南に見える海辺は、本当はずっと松林だっちゃ」

近くの復興工事に携わっているという地元青年は、日焼け顔を陽光に晒(さら)しながら、深いため息をついた。まったく気づかなかったが、私が立っていたのは、岩手県陸前高田市の中心にあったJR陸前高田駅の駅前広場だった。駅舎もレールも見当たらず、駅のホームらしき残骸以外、ほとんど痕跡がない。

この一帯は陸中海岸国立公園の区域内でもある。樹齢300年を超す松林が織りなす白砂青松の名勝「高田松原」で知られた観光地だ。2011年3月11日の東日本大震災で「1000年に1度」ともいわれた大津波が襲った。市内の犠牲者は1700人に及んだ。生存者も故郷を次々と離れ、現在の人口は震災前より4000人減って2万人になった。

2年たった今も、眼前には、一部の取り壊し工事中のビルを除けば、四方八方ひたすら雑草の原っぱが広がる。人の気配もない。かつて海岸を覆い尽くした松も、その枯れ木が1本、海岸にぽつんと立つだけだ。震災後もしばらく残って話題になった「奇跡の一本松」ももう立っていない。衰弱して既に切断され、「人造モニュメント」として復元するべく、市が工事を行っている最中だった。

地図や資料を見ると、確かに青年が言う通り、駅から1キロ、海岸からは2キロ内陸側に、高さ50メートルほどの小山がある。戦国時代の古城「高田城」跡だ。往古から広大な平地を見下ろしていたこの史跡近辺まで来て初めて、高さ15メートル以上の大津波を逃れることができたのだ。

山のように積まれていたがれきはほぼ見当たらなくなっている。だが、「復興」という言葉がむなしく響くほど、新しい建築物をまったく見ない。

がれきが片づけられ、「更地」が広がる陸前高田の旧中心市街地。後方中央に見える小山が「高田城」跡。手前のJR陸前高田駅前広場跡には、ロータリーに設置されていたモニュメントの骨組みの一部だけが残されていた。

城跡付近を歩いていると、昨年11月に完成した集会所「みんなの家」に着いた。建築家の伊東豊雄氏らが、被災地支援プロジェクトとして、津波で被災して立ち枯れした気仙杉を使い、市内大石地区に設計、建設した。岩手、宮城両県に計6軒、建てられている同様の建物のひとつだ。

毎日、近くの仮設住宅に住む被災者や町外からの来客が集まり、一緒にお茶を飲んだり、近況を語り合ったりしている。自らも地元の被災者で、管理人を務める菅原みき子代表は、「こうして交流拠点になったのは、ボランティアの尽力が大きい。ただ、最近は見学者や視察者の方が多くなっている。応対のための人手が足りず、運営資金も不足している」と現状を語った。

将来への不安を抱える仮設住宅入居者

世界的に有名な建築家の伊東豊雄氏と若手建築家らが設計、建設した陸前高田の「みんなの家」。2012年8月にイタリアで開催されたベネチア・ビエンナーレ国際建築展で最優秀賞の金獅子賞を受賞している。

「俺は同級生を13人も亡くした。ここさ来れば誰かしらいっから、寂しさも紛れる。きょうは手伝いに来たんだ」

「みんなの家」にいた市民のひとり、磐井昭さん(69歳)はこう話す。海から1.5キロの位置にある市内大石地区の自宅を津波で流され、市内の山間部にある四畳半2部屋の仮設住宅での生活を余儀なくされている。

「俺は一人暮らしだからまだいいけど、家族で住んでいると狭い。冬は寒さがこたえる。いつまでもいられるわけではないし、俺も他のみんなも、将来への不安を抱えているっちゃ」

一番の「不安」は、仮設住宅を出た後の「本宅」のことだ。延長の可能性はあるものの、災害救助法では入居期限を2年間と定めている。磐井さんは、預貯金や行政の補助を使って高台に自宅を建てようとも考えているが、「せっかく新築しても、将来、自分が死んだ時、2人いる娘が住み継いでくれるかどうかわからない」と悩みを明かした。

簡単ではない内陸部での住宅建設

被災自治体の首長や幹部の多くは、「最大の懸案は住宅」と強調する。どの避難者にとっても、安全な場所に本宅を確保するまでは、本来の生活を取り戻せない。

復興庁の調べでは、今年2月7日現在、仮設住宅入居者などの避難者数は約31万5000人にもなる。私が取材した時点では、陸前高田市内には2200戸、5500人が仮設住宅に暮らしていた。市はこうした住民の集団移転に加えて、被災して取り壊された市庁舎の新設を含めた新しい中心市街地について、旧市街地から数百メートル内陸側に移し、土地全体を7~8メートルかさ上げして造成する計画を進めている。旧市街地は公園として整備する予定だ。

岩手県陸前高田市の久保田崇副市長

震災2カ月後にボランティアのため陸前高田入りしたことがきっかけとなり、昨年8月、内閣府のキャリア官僚から同市幹部に転身した静岡県出身の久保田崇副市長(36歳)は、住宅建設の厳しい現状を訴える。

「市内の避難者の仮設住宅への移転は昨年8月末には終了した。しかし、そこからが長い。内陸の高台に災害公営住宅を建設する計画を進めているが、もともと造成に適した土地が少ない上に、町内外に多数いる予定地の地権者との用地交渉に時間がかかっている」

元いた住所に家を建てることができた阪神大震災と違い、津波の被災地では、自治体から災害危険区域に指定されると、新築ができないなどの土地利用の制限を受ける。市民の中には、民間の宅地開発事業を利用した「自力再建」での自宅建設に動く人もいる。久保田副市長はこう決意を述べた。

「とにかくスピードを速めなければならない。被災自治体を縛ってきた国の行政手続きも簡素化されてきたので、当市として人員強化や予算の重点配分を進め、遅くとも来年末には、第一号の入居者が出ることを目指す。予算執行がスムーズになるように、国にはさらなる規制緩和を求める。並行して、雇用先確保のための企業誘致に力を入れたい」

女川町:本格化したばかりの港の修復工事

続いて、宮城県東部の女川町に向かった。ここも20メートル近い津波が襲い、中心部が壊滅した地だ。町を離れる住民も相次ぎ、1万人いた居住人口は、震災後に半減した。道路は縦横に走るが、倒壊したままの鉄筋コンクリートの建物がいくつか残されているほかは、やはり「更地」だ。1メートル以上も地盤沈下した女川港では、宮城県によるかさ上げと港の復旧工事が本格化したばかりだった。

2011年8月に仮桟橋を使って運航を再開した女川と離島を結ぶ高速貨客船「しまなぎ」の阿部良彦船長は、出港の準備作業をしながら、「復興のスピードは本当に遅い。岸壁は震災後1年で完成すると思ったのだが……。私たちも甘かった。客足は震災前の10分の1程度だ」と嘆いた。

女川港では、津波に流された建物が桟橋の隣に横倒しのままになっていた。

震災直後の2011年7月に訪れた際には、安住宣孝・前町長が私の取材に対し、「44万トンのがれき処理が最大の問題だ」と語っていた。今回、同年11月の女川町長選で初当選した現在40歳の須田善明町長は、「可燃性廃棄物は、東京都の協力があって今年3月までに、不燃性廃棄物も6月までに、それぞれ全量が処理できる見通しだ」と説明した。

資材高騰で復興工事入札の不調も

須田町長は、現在の課題について「港、道路などのインフラの再生」を挙げる。だが、町は既に深刻なマンパワー不足に陥っている。コンクリートをはじめとする資材の高騰のあおりを受け、復興工事の入札が不調に終わることも少なくないという。

宮城県女川町の須田善明町長

「女川港の全面復旧は2014年度中の予定だが、2015年度にずれ込む可能性がある。人手の面でいえば、総務省から21人、町に応援に来てもらっているが、まだ十分ではない。予算面を含めて、県や国への働きかけを強めたい」

住宅については、いま仮設住宅に住む1900世帯分の災害公営住宅の建設を5、6年で済ませるとしている。入居開始は、早ければ1年後になるという。

女川町の2012年度一般会計当初予算案は230億円で、震災前の60億円前後の4倍近くになった。1984年に稼働した女川原子力発電所の交付金により豊かな町財政を保っていたが、再稼働のメドは立たず、減価償却で原発関連の固定資産税も目減りしている。

あらゆる面で課題は山積するが、ひとつひとつ解決するしかない。須田町長は最後に、「私も町内出身者として、自分が還暦を迎える20年後の女川を見据えて町長になった。なお厳しい状況下、次の世代に町の文化や財産を伝えなければならない」と気を引き締めた。

塩釜市:「地場産魚介類」の復活に期待

岩手、宮城両県にまたがる4日間の被災地取材も終盤を迎えた。東京への帰路、塩釜港の塩釜水産物仲卸市場に立ち寄った。東北で有数の規模を誇る「三陸水産物の基地」でもある。鮮魚店主のひとり、鈴木清孝さん(60歳)は、入荷量がほとんどゼロだった震災直後と比べれば、かなり回復したと話す。

「2011年の夏に震災前の3~4割に回復し、今は9割になっています。福島原発事故による風評の影響もひところほどではなく、観光客や飲食店向けを含めた小売の客足も戻ってきています」

ただ、三陸各地や福島県の漁港の復旧と漁船の確保が進まず、近海産はほとんど入ってこない。不足分は、ほかの水揚げ港や水産市場から調達している状態という。鈴木さんは、4月に迎える春の漁の最盛期を前に、肝心の「地場産魚介類」が少しずつでも復活するよう期待している。

被災地の自治体は、おしなべて漁業が主力産業だった。漁業や港の復活こそが、復興の大きな目安になる。海の脅威を克服し、再び「豊かな海」の恩恵を受けられるように、末長く支援を続ける――そんな覚悟が、「被災地以外」の日本人にも求められているのではないか。

塩釜水産物仲卸市場に並ぶ魚介類。入荷量は震災前の9割に回復したものの、三陸の近海産はまだ少ない。

(2013年3月13日 記、写真撮影=コデラケイ)

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