辛亥革命100年と日本

辛亥革命と日中関係

政治・外交

川島 真 【Profile】

19世紀末から20世紀初頭、中国にとって日本は「近代知」の源泉であった。同時に、亡命者が集う「革命揺籃の地」でもあった。そして辛亥革命が発生。国際政治が揺れ動く中、日本はこの革命に複雑に、そして多様に関わっていく。

中国を繞る国際政治

実際、この中華民国の誕生は、中国と欧米、日本などとの関係を劇的に変えたわけではなかった。義和団事件の後、列強は基本的に1890年代後半の利権を相互承認し、清に借款を与えて保全しつつ、通商活動などを潤滑におこなおうとしていた。その点で列強は中国の混乱を望んでおらず、基本的に清を支持し、清から自立を宣言した諸省が南京に結集すると、彼らと清の間の和平調停をイギリスが斡旋した。また、イギリスをはじめ列強としては、中国を安定させられる“ストロングマン”を指導者として求めた。それにもっともふさわしいと思われたのは、ほかならぬ袁世凱であった。袁世凱は、当時の中国で最強といわれた北洋軍の首領でもあり、また清で近代国家化を推進した官僚層をバックにつけていた。列強は、この袁世凱に多額の借款を与えて支持を与えることになった。辛亥革命を利用して、列強と結んでいた不平等条約を一気に解決しようという考えを、孫文は持っていたようではある。だが、列強からの政府承認、また借款という支持を得ることを考えると、列強を敵にまわすことはできなかった。そのため、中華民国は清が列強と結んだ条約をそのまま継承したのである。袁世凱は、清の官僚を使いながら、西太后が好んだ中南海で政務をとった。辛亥革命のもたらした清朝皇帝退位は、中国史にとってきわめて大きな事件である。だが、それが政治や社会、経済を劇的に変化させたわけではない。「革命」の衝撃は、内政面でも、対外関係の面でも相当に抑制されていたのである。

継続する革命と日中対立

日本を含む列強が支持する袁世凱は、いったんは臨時約法にうたわれている共和制を支持したものの、大総統権限を抑制する強力な議会の成立には懸念を示し、第一党となった国民党の若きリーダーたる宋教仁を暗殺し、議会を統制下に置いた。これへの反発から起きたのが第二革命である。この時には、日本の中に反乱軍を支持する向きがあるとして袁派から日本への批判が強まり、南京では日本人が反乱を鎮圧する側の張勲の軍から暴行を受けるという南京事件が発生したほどであった。その後、袁世凱の議会への統制と、より権限の強い大総統への希求はやまず、自ら皇帝となることを画策した。これへの反発も強く第三革命が起きた。強い反対を受けた袁世凱は皇帝を唱えることをやめ、失意のうちに死亡した。

大隈重信(写真提供=国立国会図書館)

1912年から1916年まで続いた袁世凱政権期は日中関係にとっても大きな転機だった。日本政府は民間において革命支持の機運が見られたものの、政府も列強と同調して清朝政府や袁世凱政権を支えてきた。財界もそれに同調してきた。だが、1914年に第一次世界大戦が始まると、1915年に日本の大隈重信内閣は袁世凱に対して二十一カ条要求を発したのである。これは、列強との協調を半ば無視した行動であるだけでなく、中国側から強い反発を呼び起こすものともなった。日本が強引に要求受諾を袁世凱政権につきつけ、袁もやむを得ず受諾したことは、袁批判とともに、中国での日本批判を決定的なものとしたのであった。以後、日中間にさまざまな宥和路線が模索されるが、この二十一カ条要求は中国で列強の侵略の象徴と位置づけられ、日本は中国ナショナリズムの主要敵になっていったのであった。

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nippon.com編集企画委員。東京大学総合文化研究科教授。中曽根平和研究所研究本部長。専門はアジア政治外交史、中国外交史。1968年東京都生まれ。92年東京外国語大学中国語学科卒業。97年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学後、博士(文学)。北海道大学法学部助教授を経て現職。著書に『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会/2004年)、『近代国家への模索 1894-1925』(岩波新書 シリーズ中国近現代史2/2010年)など。

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