辛亥革命100年と日本

辛亥革命と日中関係

政治・外交

川島 真 【Profile】

19世紀末から20世紀初頭、中国にとって日本は「近代知」の源泉であった。同時に、亡命者が集う「革命揺籃の地」でもあった。そして辛亥革命が発生。国際政治が揺れ動く中、日本はこの革命に複雑に、そして多様に関わっていく。

辛亥革命

このように中国政治のダイナミズムに日本は深く関わるようになっていたが、いわゆる辛亥革命にも日本は複雑に、多様に関わることになる。その辛亥革命を辞書的に整理すれば次のようになるであろう。1911年10月10日に湖北省の武昌(武漢の一部)で起きた軍隊の反乱を契機にして長江以南を中心とする各省が清朝からの独立を宣言し、その独立各省が連合して1912年1月に中華民国を建国した後、清朝との交渉を経て、2月に清の皇帝退位に至る過程、であると。


袁世凱(John Stuart Thomson, China Revolutionized [Indianapolis: Bobbs-Merrill Company, 1913]より)

これによって、二千年にわたって存在した王朝体制が瓦解し、制度的には共和制を採用する国家が中国に生まれた。だが、臨時大総統孫文に代わって大総統となった袁世凱は、共和制に一旦同意したものの、議会に強い権限をゆだねる臨時約法という中華民国の暫定憲法に相当する規定に反発した。そして、その議会で第一党となることを目指していた国民党の宋教仁を暗殺した。その結果、中国では再び袁世凱への反発が強まったものの、日本を含む列強は袁世凱を支持して借款を与え、また袁世凱の大総統就任を受けて中華民国政府を承認したのであった(アメリカ合衆国は議会の開設を以て承認を与えた)。

辛亥革命の原因はどこにあるかと問われれば、単純に孫文らの革命運動に帰することはできない。第一は、清の中央集権政策にともなう中央―地方間の緊張関係であった。とりわけ鉄道国有化をめぐって、敗戦により多額の賠償支払いを抱えていた清が外国に頼った鉄道敷設・経営をおこなおうとしたことが地方社会からの強い反発を招いていた。第二は、立憲君主国家への移行を目指していた清が、結局のところ満洲族の優位性の維持など、王朝の体制維持のために立憲君主制を志向していたことがあからさまになったことも重要だった。立憲君主国を主張していた人びとも、満洲族主導性があまりに強い立憲に反発した。このようにして清を滅ぼすという点において多くの勢力が結集していくことになった。そして第三に、清の転覆という革命を志向する勢力が、長江流域の地方エリートや軍人などに支持層を拡大し、実際に武昌での蜂起に結びつけたことも看過することはできない。

これらのように複合的な背景を持ちつつ、清という王朝の打倒という点でコンセンサスが形成されて、清は滅亡に追い込まれた。だが、清の版図は五族共和の名の下に維持され、清の皇帝も紫禁城にすみ続け、王族の地位も一定程度確保されるなど、清朝の体面は一定程度保たれたのであった。北京の朝廷、また袁世凱のコンテキストから見れば、これは清廷から袁世凱への「禅譲」としての意味を持つものでもあった。

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nippon.com編集企画委員。東京大学総合文化研究科教授。中曽根平和研究所研究本部長。専門はアジア政治外交史、中国外交史。1968年東京都生まれ。92年東京外国語大学中国語学科卒業。97年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学後、博士(文学)。北海道大学法学部助教授を経て現職。著書に『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会/2004年)、『近代国家への模索 1894-1925』(岩波新書 シリーズ中国近現代史2/2010年)など。

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