辛亥革命100年と日本

辛亥革命と日中関係

政治・外交

19世紀末から20世紀初頭、中国にとって日本は「近代知」の源泉であった。同時に、亡命者が集う「革命揺籃の地」でもあった。そして辛亥革命が発生。国際政治が揺れ動く中、日本はこの革命に複雑に、そして多様に関わっていく。

「近代知」の源泉としての日本

明治日本が欧米から選択的に吸収した知識は、書籍や日本に来ていた留学生などを通じて中国にもたらされていた。西洋から直接に中国に流入した「近代知」もないわけではないが、日本経由のものが大きな影響力を持った。中国古典に起源を持ちながら、西洋言語の訳語として再登場した革命、社会、経済などといった単語は現在も中国で用いられている日本語起源の言葉である。ただ、留学生たちが「日本そのもの」から何を感じたのかは別問題である。中国の古典にしか現れないような単語を使う日本語にはノスタルジーしか感じず、生卵を食べ、風呂場で裸体を他人に見せる点などには異文化に対する忌避感を感じていたであろう。

日本陸軍第十三師団時代の蔣介石(写真提供:台湾国史館)

清朝は、20世紀初頭には立憲君主制度採用を決定したが、その制度を策定するに際して、天皇制のある日本を参考にした。1908年に発布した欽定憲法大綱でも、大日本帝国憲法を範として、皇帝の権限を定めていた。他方、共和制や社会主義思想などをはじめ、多くの政治に関わる考え方を留学生たちは日本で吸収したのであった。

日本からもたらされたものは、政治や思想だけではない。多くの軍事留学生が毎日数十人日本を訪れ、陸海軍で学んだ。辛亥革命を起こした側の新軍にも、また鎮圧する側の清の軍にも日本の陸軍士官学校出身者がいた。蔣介石も、辛亥革命勃発当時に新潟県高田の第十三師団におり、武昌蜂起の報に接して、急ぎ帰国して革命に身を投じたのであった。日本は近代国家としての、あるいは近代社会の「知」を中国に提供する役割を果たした。革命思想や改革をめぐる思想も、そこには含まれていた。

「革命揺籃の地」としての日本

19世紀末から20世紀初頭の日本は、清をはじめとするアジア各地からの亡命者が多く集っていた。中国でも、清の統治に抵抗したり、政争に敗れた人びとが租界や租借地などに逃げ込むことができたが、そこでは清が身柄の引き渡しを要請する可能性もあり、また刺客が放たれることもあったので、海を渡って日本などに潜伏したのであった。特に長崎は、上海の奥座敷としての機能を果たした。船便が便利であるだけでなく、海底電線が引かれ、中国情報が迅速に手に入ったからであった。また、亡命者たちは日本で組織による宣伝活動や、資金獲得運動を展開した。日本政府は、彼らの活動を監視し、膨大な記録を残しているが、それでも逮捕したり、身柄を拘束して清に引き渡したりすることは多くなかった。

宮崎滔天(写真提供=国立国会図書館)

孫文も例外ではなかった。蔣介石や周恩来らが日本留学経験者であるのに対して、孫文は日本留学生ではない。だが、孫文が世界的に一躍有名になった、ロンドンでの清の公使館に拠る孫の監禁事件について孫自身が英語で記したKidnapped in Londonの内容は、九州の玄洋社の機関紙である『九州日報』に「幽囚記」として宮崎滔天訳で連載され、孫の名が日本や東アジアで広がり始めた。また宮崎の自叙伝『三十三年之夢』とそれ中国語訳した章士釗の『孫逸仙』を通じて孫の名がいっそう東アジアに広まった。また1905年に中国同盟会を東京で組織し、『民報』などを通じて宣伝活動をおこなったように、日本を拠点にした活動、日本発の情報が、孫文の革命運動にとって重要であった。辛亥革命を経た1913年、国会に対する袁世凱の弾圧、とりわけ国民党の若きリーダーであった宋教仁の暗殺を受けて第二革命が発生し、結局袁に鎮圧されると、闘いに敗れた孫文は日本に亡命し、以後数年間日本で活動をおこなった。孫が宋慶齢と再婚するのは、この時期であった。中国から近く、物価が安いうえ、情報も豊富で、かつ華僑や留学生もいる日本は、中国の活動家にとって、格好の避難場所であったのである。

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