辛亥革命が日本政治に及ぼした影響
歴史 政治・外交- English
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1911(明治44)年10月10日、中国大陸中央部に位置する武昌での新軍蜂起で始まった辛亥革命は、一挙に中国全土に拡大した。翌年1月1日には中華民国が南京を首都として建国され、250年間以上続いた清王朝の中国支配も2月12日に終わった。動乱の様子は、日本の新聞・雑誌でも連日のように大きく報道された。そのような中で、孫文など革命派にシンパシーを持ち、革命軍を応援するために大陸に渡る日本人がいたことは、比較的よく知られている。しかし革命が日本政治に及ぼした影響については、あまり注目されることはない。
革命で動揺し始めた日本の対外政策
結論を先に述べると、革命の勃発は、その後の日本の対中国政策混迷の出発点であっただけでなく、内閣の交代までも引き起こすことになった。辛亥革命直前の1911年8月まで首相だった桂太郎が自らの内閣で陸軍大臣を務めていた寺内正毅に宛てた書簡の中で注意をうながしていたように、中国の混乱は日本にとって「隣の火事視」できるものではなかった。(※1) 大正初期の日本でめまぐるしく内閣が交代した一因として対外政策の動揺があったのである。
日本と中国との間の摩擦や対立が表面化し始めたのは、1905年9月の日露講和条約(ポーツマス条約)によって、日本がロシアから南満州権益を譲られてからであった。日本は英露両国と協調しながら漸進的に影響力拡大を図る方針をとっており、これは1906年の南満州鉄道株式会社創設、1909年の満州に関する諸条約で実現され、さらに南満州を「特殊利益」地域として日露両国で共同して守ることを約束した第2次日露協約(1910年)によって補完された。当時、列強諸国はそれぞれ中国への影響力拡大を目指していたが、北清事変(義和団事件)後の1901年に結ばれた北京最終議定書の枠組みに沿い、牽制し合いながらも国際協調の態度を取っていた。また清国の状態も、それを覆すような変化はなかった。この時期の日本の中国進出はこうした国際協調の中で行われていた。日本国内ではこの外交政策をめぐる政治的対立はほとんどなく、藩閥・官僚勢力を代表する桂と衆議院第1党の立憲政友会総裁の西園寺公望が交互に政権を担当した、桂園体制と呼ばれる政治的安定期(1905~1912年)を支えていた。
革命発生時の日本の内閣は、第2次西園寺内閣(1911年8月~翌年12月)であった。政府が革命勃発直後の10月24日に決定した方針は、清王朝維持と日本の力を中国大陸に扶植し列国に日本の優勢な地位を承認させることであり、それを特にイギリスと協調するとともに、満州に関してはロシアと歩調を一致して行うことであった。
隣国の混乱は、陸軍参謀本部が「対清作戦計画」(1911年5月)(※2) で言及していたように、ある程度予想されていた。しかし瞬く間に中国全土に拡大していくことや、新たに建国された中華民国では、北京を根拠地とする袁世凱政権の樹立(1912年3月)から、孫文率いる南方派と袁世凱の北方派の対立を経て、南方派による第二革命(1913年7月)へと進んで行き、政情が長期にわたって不安定化することまでは予想できなかった。日本では、新たに生まれる国家の姿や、それとの関係をめぐって、さまざまな議論と実際の動きが起こった。それまで限られていた外交的選択肢が、多様化・複雑化したのである。
最初の対立は、政体をめぐるものであった。清王朝を支えるのか、それとも革命派に期待するのかという議論が軍事的支援をめぐって行われた。第2次西園寺内閣が最初に掲げた清王朝維持の方針は、元老の中心であった山県有朋や、寺内正毅を中心とする陸軍省の意向に沿うものであり、清国政府からの武器援助要請に対して、政府は10月23日に泰平組合を通じて行うことを決定していた。泰平組合とは、大倉組や三井物産・高田商会の共同出資によるもので、陸軍で必要がなくなった兵器の売り込みを目的とした組織であった。
世論の大勢は革命派に同情
しかし一般世論の大勢は革命派に同情的であり、大陸浪人として有名な宮崎滔天は孫文援助の世論喚起に努め、またいくつもの支援団体が組織された。黒龍会の内田良平は、清国への武器援助反対の陳情を行い、多くの会員を中国に送り込んだ。政界でも野党の立憲国民党は革命派寄りであり、同党幹部の犬養毅は孫文らを励ますために12月末に中国に渡った。在野の人たちに革命派を応援した人が多かった理由は、保守的な清朝や袁世凱に対して戦う革命派の姿に、自分たちの反藩閥の姿勢を重ね合わせていたからであろう。
内田について少し補足すれば、彼の考えは、欧米列強の勢力をアジア大陸から駆逐するためにはアジア民族運動を助ける必要があるというもので、1898年以来、孫文と関わりを持ち、またフィリピン独立運動の援助などもしていた。内田は1912年1月15日に、孫文から中華民国外交顧問委任状を貰っている。これは資金不足に悩む革命派が、内田を通じて三井物産から借款を獲得した動きに関係していた。(※3) 三井物産は、泰平組合を通じた清王朝援助と、内田を媒介とする革命派援助の両方を行っていたことになる。
革命派に肩入れしていたのは、彼らだけではなかった。最近公表された陸軍参謀本部第二部長(第二部は海外情報を担当)の宇都宮太郎の日記からは、参謀本部の動きを知ることができる。(※4) たとえば10月18日の日記には、内務省警保局長の古賀廉造と会見して、革命派を助けるために武器輸出を黙認してくれるよう依頼したことや、孫文との連絡をつけようとした動きが記されている。また大陸各地に参謀本部員を派遣して各地の革命気運を醸成したり、大陸浪人を支援したりしたことなども記されている。ただしそれは革命派援助一辺倒のものではなく、他方では満蒙を中国から分離させて別国家とし清王朝を維持するという策謀も行っている。そしてその工作資金を、機密費のほか、個人的に三菱財閥当主の岩崎久弥から調達していたこともわかった。犬養毅の中国行も、ここから1万円使われている。岩崎の対応は、三菱財閥の大陸政策の一環として位置づけることができよう。
対中政策多様化と自主外交への志向
外務省でも、北京駐在公使の伊集院彦吉が、一時は革命派援助と南北分国論を献策した。これは外務省内に中国情勢に積極的に関与していこうとする志向が現れたという意味で重要である。しかし外務省の基本方針は英露との共同歩調を取ることであったため、意見は採用されず、伊集院も日本が独自に行動を取る機会が失われると態度を変えている。(※5)
第2次西園寺内閣は、その後の中国情勢の推移を受けて11月末に列国共同で立憲君主制の実現を勧告して事態の収拾を図るという閣議決定を行った。しかしイギリス政府は、休戦・講和交渉の斡旋と共和制への政体変更を考慮し始めており、この提案を受け容れなかった。つまり日英協調は働かなかったのである。そして年末には、日本政府の清王朝維持政策は放棄され、成り行きを傍観する方針になっていった。
これに対して山県有朋や寺内正毅は、清朝による中国統治継続が不可能な情勢になってくると、革命が日本の影響力の強い中国東北部に及ばないよう、少なくとも清王朝を維持させる必要があるとして大規模な派兵を主張することになる。(※6) また清朝末裔あるいはモンゴル王族をかついで満蒙独立と日本の勢力圏化を図ろうという挙兵計画(第1次満蒙挙事)が、川島浪速という大陸浪人を中心として策謀されたりする。この動きを参謀本部は応援していた。この人物にも岩崎から宇都宮とは別ルートで援助がなされていたらしい。(※7)
第2次西園寺内閣は、国際協調を重視して出兵の可能性を否定し、また挙兵計画も差し止めた。しかしこのような内閣の外交指導は、清王朝維持という当初からの政策を実現できなかったことや、日英協調に失敗したこともあり、強い批判を生むことになった。桂太郎は先に触れた寺内宛ての書簡で、その外交を「船頭無しの船に乗り居心地」がするとまで言っている。(※8)
このような批判は、より自立的な外交政策を求める動きとなって現れることになる。主張の程度は、協調外交の枠組から全く離れようとするものから、協調の枠組内でも日本が欧米諸国をリードしなければならないというものまで、かなり幅の広いものであったが、いずれも西園寺内閣の無策を批判するものであった。これら自主外交への志向は、もともと欧米に従属するような日本外交を嫌っていた民間のアジア主義者たちからは歓迎されることになる。
内閣交代と大正政変
対中国政策の多様化は、その後の政治的対立を厳しくし、1912年12月に始まる日本政治の大混乱(大正政変)につながっていった。大正政変というのは、陸軍の2個師団増設要求を第2次西園寺内閣が拒否したことから、陸軍大臣が辞職し、さらに、陸軍が後任の陸軍大臣を出すことを拒否して、内閣が総辞職に追い込まれたことがきっかけで始まった。後継内閣の組閣は難航したが、第3次桂太郎内閣が成立することとなる。しかし陸軍出身の桂の再登場は、世間に陸軍の横暴と受け止められ、また組閣にあたって桂が天皇の詔勅を乱発したことは、憲法政治を危うくするものと理解された。そして「憲政擁護運動」という広範な反対運動が、議会政治家やジャーナリズムを中心にして起こり、多くの民衆が反対のデモンストレーションを行った。その結果、桂内閣は2カ月ももたず、翌年2月11日に総辞職を表明することになった。この事件は一般的には、民衆運動によって内閣が倒れた初めての事件として、日本のデモクラシーを進展させた出来事として評価されている。
桂は古臭い政治家と理解されたわけであるが、最近の研究では、桂の新しい政治体制構築への秘めた思いが政局を混乱させたという評価が強くなっている。(※9) これは一つには、桂が辛亥革命後の日本外交の立て直しを行おうとしたこと、また自ら政党を創設して政界再編成を試みたことなどに表れている。すでに見たように桂は、辛亥革命時の西園寺内閣の外交運営に批判を強めており、1912年7月には訪欧して首脳会談を行い、日露・日英関係の再構築を目指して行動し始めていた(明治天皇の死去により中途で帰国した)。
大正政変の中で誕生した第3次桂内閣は、親英派の加藤高明を外務大臣に、親露派の後藤新平を逓信大臣に起用した。これは日英同盟の再機能化と日露協商の維持拡大をねらったものである。また桂が新たに創設した立憲同志会には、革命派援助論者が多く含まれており、そのネットワークを活用して中国との関係改善も目指していたと思われる。1913年2月の孫文来日を演出したのも、そのメンバーであった。孫の多くの来日の中で、この時だけは国賓級の扱いを受けたのである。桂の外交は、多くの国々と密接な関係を築き直すという意味での国際協調の枠組を踏まえたものであったが、世界をリードしなければならないという意味で、日本外交をより自立性の高いものに変えようとした。そしてまた桂の創設した立憲同志会は、桂の意図としては国民の統合の一つの手段であったが、桂の死亡(1913年10月)後、しばらくして憲政会から立憲民政党と名を変えて日本の議会政治における二大政党の一つとして政党政治を担うことになる。つまり辛亥革命は日本の政治変動に大きな影響を与えたといえよう。
第1次世界大戦後に自主外交への動き終息
さて1914年7月に第1次世界大戦が勃発し、日本も翌月参戦する。欧州列強はアジアのことにかまっておられなくなりアジア外交が消極化した時、日本の対中外交は列国の動向を気にする必要が無くなり、より独自性を高め積極化することになる。それがたとえば第2次大隈重信内閣(1914年4月成立、立憲同志会が与党)における参謀本部と結んで行われた排袁政策(=南方派援助政策)や寺内正毅内閣(1916年10月成立)の援段政策(=袁世凱の死後、段祺瑞が国務総理となった北方政権への援助政策)であった。この正反対の政策は、内閣を担った政治勢力の違いによるものであったが、いずれも辛亥革命をきっかけに生じた中国政情の不安定化と日本における自立的な外交政策の現実化された姿であった。しかしこのような外交は、南北に分かれて対立を深めていた中国からは、結局は不信感を抱かれることになってしまう。
1918年11月に第1次世界大戦は休戦を迎える。大戦後の日本は、新たに世界をリードすることになったアメリカと中国政策において対立しており、日本は守勢に立たされ、中国外交において自主性を発揮することが再び困難になる。休戦とほぼ同時に成立した原敬内閣は国際協調政策に立ち戻り、対中国不干渉政策を採用することになる。辛亥革命をきっかけとして出現した自主外交への動きが、いったん終息することになったのである。残されたのは中国の人々の日本に対する不信感であり、これがその後の日中両国の摩擦の大きな原因となっていくのである。
参考文献
櫻井良樹『大正政治史の出発』(山川出版社、1997年)
櫻井良樹『辛亥革命と日本政治の変動』(岩波書店、2009年)
(※1) ^ 1912年2月4日付寺内正毅宛桂太郎書簡(千葉功編『桂太郎発書翰集』東京大学出版会、2011年、292頁)
(※2) ^ 島貫武治「日露戦争以後における国防方針、所要兵力、用兵綱領の変遷(上)」(『軍事史学』8巻4号、1973年)
(※3) ^ 内田良平文書研究会編『内田良平関係文書』第一巻(芙蓉書房、1994年6月、346頁)
(※4) ^ 宇都宮太郎関係資料研究会編『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記』第1巻・第2巻(岩波書店、2007年)
(※5) ^ 尚友倶楽部他編『伊集院彦吉関係文書〈辛亥革命期〉』(芙蓉書房出版、1996年)
(※6) ^ 1912年1月14日付山県有朋意見書(大山巌編『山県有朋意見書』1966年、原書房、337~338頁)
(※7) ^ 会田勉著『川島浪速翁』(文粋閣、1936年、222頁)
(※8) ^ 1912年2月4日付寺内正毅宛桂太郎書簡
(※9) ^ 拙著のほかに小林道彦『桂太郎』(ミネルヴァ書房、2006年)