3.11後の日本

災害・敗戦経済学が導く復興シナリオ

経済・ビジネス

大震災と名付けられた地震被害は過去に2度ある。1923年の関東大震災、1995年の阪神・淡路大震災……いずれも壊滅的な被害を受けながら日本経済は見事に復興を果たしてきた。3度目となる東日本大震災、過去から学べることは何か。

阪神・淡路大震災は経済回復に寄与


神戸の湾岸地域には復興住宅が立ち並び、新しい住宅地として注目されている。

それでは、日本経済全体に対し、阪神・淡路大震災はどのような影響を与えたのか。阪神・淡路大震災が起こったのは、1995年1月17日のことだったが、その影響からか、同年第一四半期(1-3月)の日本経済の実質GDP成長率は0.2%(年換算)とマイナス成長ではないが、低い成長率に留まっている。ところが、第二四半期(4-6月)、第三四半期(7-9月)の成長率はいずれも1.3%で、第四四半期(10-12月)にいたっては、2.3%に達している。そのため、1995年全体の成長率は1.4%となり、これは前年の成長率0.6%を大きく上回る結果となった。そればかりではない。1995年は株価バブルが崩壊した1990年以来、成長率から見て日本経済にとっては最良の年となった。この年、日本は1ドル=79円という「超円高」を経験しており、輸出環境は必ずしも良くなかったから、成長率についてのこの年の好成績は驚きに値する。

この結果から見るかぎり、阪神・淡路大震災がその年の日本経済の足を引っ張ったという事実はなさそうであり、むしろ神戸の復興のための需要が、日本経済の回復を牽引したという可能性のほうが強そうである。なぜ、阪神・淡路震災が日本経済の足枷とならなかったかと言う要因を考えて見ると、次のような事情が浮かび上がる。

まず、最初に確認したいことがある。それは1995年1月という段階で、日本経済がバブル崩壊後の停滞期にあったということである。バブルのピークは、株価で見ると、1989年後半、地価で見ると1991年後半ということになっているが、1990年の株価バブルの崩壊、1992年に地価バブルの崩壊といった出来事があった後も、日本のマスコミでは消費ブームが続くという論評が多かった。ところが、ピーク時には「皇居の地価を評価すればカリフォルニア州の地価の2倍ある」と言われたほど盛り上がったバブルが崩壊したことによって、地価の上昇を当てにしていた投資の多くが失敗して、投資に乗り出していた企業が巨額の債務を背負い込み、同時にそれに融資していた銀行が莫大な不良債権を抱え込んだ。このように誰も彼もが借金の山を抱えるという事態は、日本が戦後の歴史で初めて経験するものだった。

今年は景気が戻る、今年は景気が戻る、と言われながら、景気の落ち込みはずるずると1994年まで続いたというわけである。経済が資産価格の下落、債務の膨張、不景気という三重苦を抱えた状態では、金融政策は当然、緩和の方向に向かわなければならない。当時の日銀は「バブルの再発を恐れ、金利の低下を躊躇った」という評価があり、筆者もかつてはそう考えていた。実際、自民党の金丸信副総裁(当時)が1992年にした「日銀総裁の首を取っても公定歩合を下げるべきだ」という発言は有名である。

実際、公定歩合の引き下げ方を見れば、日銀の金融緩和は緩慢なのだが、今日では「政策金利」と呼ばれている「翌日物短期金利」の動きを見ると、日銀の金利引き下げは結構急速である。それにも関わらず、日銀の金融緩和が、金融機関の経営にも、景気全体にもさほどの効果を発揮できなかった理由は、バブル崩壊の直前まで、日銀が「バブル潰し」を狙って、あまりにも高い水準に「翌日物短期金利」を引き上げていたためだと、筆者は今日では考えている。そのため、いくら急速に下げても、投資が刺激されるような低い水準まで、短期金利を誘導することができなかったのだ。

ともかく、阪神・淡路大震災が発生する前の日本経済は低迷しており、その結果、日本全体に遊休した資本設備が存在した。そのことが阪神・淡路大震災以降の経済の動きを見る上で重要である。その理由はこうだ。たとえ、労働をより多く投入するといった「生産代替」が可能であるとしても、大災害によって資本設備が損傷を受けることは、資本設備が順調に稼働しているような通常の経済の場合には、生産能力の低下につながり、その時点の国内総生産(GDP)を引き下げる要因となる。

遊休資本の稼働

しかし、この1995年の初めの時点で、日本経済全体にはかなりの規模の遊休している資本設備が存在した。そうであれば、そうした遊休している資本設備を稼働させることを通じて、神戸で失われた部分の生産力を補うことが、十分に可能だったわけである。話はこれで終わりではない。当時のようなバブル崩壊後の停滞した日本経済において、遊休している資本設備が稼働し始めることには、さらにポジティブな効果が存在するのである。

そもそも遊休している資本設備が存在するという状態は、それ自体が経済の停滞を生む要因となる。なぜなら、一国の経済成長は、活発に投資が行われて初めて可能になるのだが、過剰設備があるような状態では、企業は設備の過剰をさらに拡大することにつながる投資に二の足を踏むからだ。そればかりではない。過剰設備があるような状況で企業は、少しでも設備を稼働させるために、無理やり生産を行って、それを「投げ売り」しようとする。その結果、物価について「デフレ気味」の傾向が生じるが、製品の価格がどんどん下がっていくようなデフレ経済では、投資をしたところで、売り上げによって投資コストを回収できるかが怪しくなるので、企業はますます投資を見送る傾向が生まれる。こうして思いがけない長期の停滞に1995年初めの日本経済は陥っていたのである。

阪神・淡路大震災によって神戸の資本設備が破壊されると同時に、他の地域では資本設備の稼働率が高まってきたという事情は、このような環境を一変させた。この震災を機に、企業は投資に対して積極的になってきたのである。

企業投資が活発になってきた理由としては二つのものを挙げることができる。第一は、破壊された神戸の資本設備を復旧するための投資の活発化である。先ほど述べたように、この際に企業は、以前と同じ資本設備を復旧するのではなく、最新式の資本設備を導入しようとした。そのため生産能力は震災前よりもかえって高まった場合もあった。第二は、日本全体で資本設備の稼働率が高まってきたために、企業は新規投資により前向きになったということである。これは新規投資の最大のボトルネックであった、「過剰設備」という問題が緩和されたための新しい展開であった。

上に挙げた二つの投資の活発化が、阪神・淡路大震災のあった1995年に日本経済が、バブル崩壊後最大の経済成長率を達成した原因であったことは想像に難くない。ハーウィッチ教授の論文は、1992年以降進められてきた日銀の金融緩和の効果が、この時、時間差をとって発揮されてきたのではないかと述べている。

つまり、短期金利を引き下げるために、日銀は市中から証券を買い入れ、資金(現金)が市場に十分に出回っているような状態を作り出すわけだが、たとえそのようにして市場に資金潤沢の状態を作り出したところで、企業の側にその潤沢な資金を活用して、投資を拡大する意欲がなければ、そのような金融緩和政策は、投資の促進を通じて、経済を活性化する効果に乏しい。1995年の初めまでの状況はまさに、大規模な過剰設備を抱えて、企業の側に潤沢な資金を利用しようという意欲の少なかった時期なのである。

ところが阪神・淡路大震災を機に、上記のように企業の投資意欲が盛り上がると、市場に流れている潤沢な資金は、企業の投資資金調達を円滑化する働きをした。このため、企業はより一層積極的に投資をすることができたのである。

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