3.11後の日本

災害・敗戦経済学が導く復興シナリオ

経済・ビジネス

竹森 俊平 【Profile】

大震災と名付けられた地震被害は過去に2度ある。1923年の関東大震災、1995年の阪神・淡路大震災……いずれも壊滅的な被害を受けながら日本経済は見事に復興を果たしてきた。3度目となる東日本大震災、過去から学べることは何か。

クローデルが見た関東大震災

「その大災害が起こったのは、正午の数分前であった。その時間を勘違いすることなどあり得ない。なぜなら、振動が始まってから数分が経過し、一体このだんだんに激しくなっていく揺れが、いつになったら止むのだろうかと訝り始めた頃に、正午を知らせる大砲が、周囲で起こっている騒乱に煩わされることもなく、あたかも『最後の審判』のラッパのように轟音を響かせたからである。」

1923年9月1日の関東大震災の発生を、フランスの偉大な劇作家で当時駐日フランス大使であったポール・クローデルは外交書簡にこう書き記している。関東大震災の死者数10万人以上、その9割が火災によるものだった。今回の東日本大震災の死者数が約2万人の5倍に当たるが、死者数がこれほど増えたのは、人口が多い、東京、横浜が被災地となったことと、木造の住宅が密集している当時の街の構造ゆえに、火災による犠牲者が拡大したためだ。当時、横浜にあった外国人の居留地は火災による被害が特にひどかったが、救援に向かった横浜で過ごした一夜の情景をクローデルはこう描写する。

「我々はその夜を線路脇の土手の上で多くの避難民とともに過ごした。一方の側には「最後の審判」を思わせる横浜の惨状が広がり、またもう一方の側には、東京を包んでいる火災が巻き起こす、赤く、巨大な噴煙が盛り上がっていた。その両側に挟まれた海の上に、透き通って、神々しいばかりに静謐な月が浮かんでいる。我々の下にある大地は振動をやめず、ほとんど一時間ごとに激震を起こすので、連結された鉄道車両が線路を外れようとして軋み、とてつもない騒音を響かせた。」

関東大震災は被害者の数が多かったということの他に、もう一つの大きな問題を生んだ。主要銀行は東京に支店や本店を持っており、また横浜には当時の外貨建て取引を一手に管理していた横浜正金銀行がある。そうした銀行が大きな被害を受け、紙幣、株券や貸借の記録が焼尽に帰したのである。当然、期日の迫った手形が落とせなくなったり、債務の支払いができなくなったりといった被害が発生する。

関東大震災直後の銀座。マグニチュード7.9の地震により、被害は神奈川県を中心に茨城県から静岡県まで及び、死者不明者10万5000人余と日本災害史上最大級の被害となった。(写真=時事)
関東大震災直後の銀座。マグニチュード7.9の地震により、被害は神奈川県を中心に茨城県から静岡県まで及び、死者不明者10万5000人余と日本災害史上最大級の被害となった。(写真=時事)

1927年金本位体制復帰の理由


大正・昭和期の財政家、政治家(1869-1932)。1919年に日本銀行総裁に就任。1923年に山本権兵衛内閣の蔵相となり、翌年貴族院議員に勅選。1927年、高橋是清蔵相の下で再び日銀総裁となる。1929年、浜口雄幸内閣の蔵相となり、金解禁を実施。1931年に辞任後、血盟団事件で暗殺された。(写真=国会図書館)

しかし当時の大蔵大臣井上準之助は危機管理の専門家であった。ただちに金融の貸借についてモラトリアムを発令するとともに、その後は信用の怪しい手形だろうと、日銀に思い切った割引をさせ、流動性をまき散らすことで金融危機の発生を未然に防いだのである。この時の井上による「流動性管理政策」については、日銀にあまりに見境のない貸出を実行させたために、本来は破綻すべき企業が生きながらえ、1927年の金融危機の下地を作ったという批判もある。

震災後の金融についてはもう一つ特筆すべきことがある。震災直後は、今回の東日本大震災の場合と同じように、世界各国からの救援金が来て、それで助けられたものの、やがて本格的な復興を図る段階になると、救援金だけでは足らず、ニューヨークやロンドンなど国際的マーケットでの起債が必要になったということである。これをきっかけに日本の対外債務は次第に拡大し、JPモルガン銀行など外国資本家は日本が金本位制に復帰しない限り、さらなる貸出を渋る態度を示した。1930年という大恐慌の最中に、民政党浜口雄幸内閣の大蔵大臣として、井上が無謀とも言える金本位制への復帰を強行したのはこれが原因である。

震災直後の外国からの救援についてクローデルが面白い観察を書き記している。

「新聞によれば、アメリカからの義援金の額はすでに4000万ドルを超えたということである。それだけに、被災地に艦船を到着させたのも、また救援隊を上陸させたのもアメリカ艦船が最初であり、時にそれは日本政府の派遣した救援隊よりも先に現地に到着した。東京湾には、多数のアメリカの駆逐艦や哨戒艇が航行し、首都の道路にはいたるところ「USA」のマークをつけた救急車やトラックが走り回っていた。帝国ホテルは、ワイシャツの袖をまくった陽気な救世主たちで一杯となり、それは、あたかも第1次大戦が終わった1918年から1919年頃のパリの情景を思わせた。」

この22年後の夏に東京において同じような情景が繰り返されるというのは誠に皮肉である。しかも今度は、アメリカ兵は救援者としてではなく、占領者として日本に進出するのだ(今回の東日本震災においても、「友達作戦」による米軍の協力は被災者救援に大きく貢献した)。

1995年、日本の金融システムは1992年に起こった不動産バブルの崩壊によって、ふたたび深刻な状態に置かれていた。その中で起こったのが阪神・淡路大震災である。アメリカの研究者ジョージ・ハーウィッチ(Purdue UniversityのGeorge Horwich)がこの震災について、総括的にうまくポイントを押さえた論文「Economic Lessons of the Kobe Earthquake」を書いている。

早かった阪神・淡路大震災からの復興

まず、この論文は震災が発生した直後に、外国では復興のために要する時間を非常に長く見ていた事実を指摘する。例えば、オックスフォード大学出版会が編集する『世界災害報告(World Disaster Report 1996)』は、復興に要する時間を10年間と予測していた。それだけ神戸の受けた損害は甚大だった。住宅の倒壊が総被害額の半分を占めていたが、産業への打撃も重大だった。特に、震災前の神戸の工業生産の4割を占めていた港湾業が、港湾施設の破壊による痛手を受けた。それを含めて資本ストックの被害が大きかった。(この論文ではそれを、当時の為替レートで測って1140億ドルくらい、約9兆円と見積もっている)

1995年の阪神淡路大震災では、死者6434名のうち8割弱が家屋の倒壊や家具などの転倒により即死状態とされている。この震災を契機に耐震基準など、日本の防災体制は大きく見直された。(写真=Studio Right/PIXTA)
1995年の阪神淡路大震災では、死者6434名のうち8割弱が家屋の倒壊や家具などの転倒により即死状態とされている。この震災を契機に耐震基準など、日本の防災体制は大きく見直された。(写真=Studio Right/PIXTA)

復興までに10年を要するという予測とくらべて、実際の復興は驚くほど早かった。いくつかの事実を挙げてみよう。まず、震災発生から1年後に、港湾施設の復旧はまだ半分だったが、神戸税関の記録する輸入額は震災前の水準に戻り、輸出額も震災前の85%まで戻る。

1996年3月(震災発生から15カ月後):製造業の生産は震災前の98%を回復。

1996年7月(震災発生から18カ月後):100%の百貨店と79%の商店が営業再開。

1996年10月(震災発生から21カ月後):阪神高速再開。

1997年1月(震災発生から2年後):震災による瓦礫の処理完成。

神戸の復興のスピードをこの論文は「経済原理」に照らして説明している。震災によって破壊されたのは資本ストック(資本設備)である。しかるに、資本ストックというのは、それがなかったら生産活動が不可能だというほどの必要不可欠な生産要素ではない。そのような生産要素は他にある。それは人的資本である。つまり働く意欲が強く、高い技能を修得した労働者、それがあって初めて生産が可能なのである。

何カ所も道路が寸断され、壊滅的被害を受けた阪神高速も21カ月後には再開した。(写真=カワグチツトム/PIXTA)
何カ所も道路が寸断され、壊滅的被害を受けた阪神高速も21カ月後には再開した。(写真=カワグチツトム/PIXTA)

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竹森 俊平TAKEMORI Shunpei経歴・執筆一覧を見る

経済産業研究所上席研究員、三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長、政府の新型コロナウイルス基本的対処方針等諮問委員会メンバーや経済財政諮問会議民間議員。1956年東京都生まれ。1981年慶應義塾大学経済学部卒業、1986年同大学大学院経済学研究科修了後、1989年ロチェスター大学経済学博士号取得。慶應義塾大学経済学部教授を経て現職。著書に『経済危機は9つの顔を持つ』(日経BP社/2009年)、『世界を変えた金融危機』(朝日新書/2007年)、『経済論戦は甦る』(東洋経済新報社/2002年/読売吉野作造賞受賞)など。

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