【動画】世界遺産 厳島神社 Time Lapse Video
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平清盛が熱烈に信仰
★タイムラプスとは
長時間インターバル撮影した静止画を、動画の1フレームとして並べて再生することを「タイムラプス」と呼ぶ。ビデオの1秒間は30フレームが基本なので、20秒間に1回シャッターを切る設定にした場合、1時間撮影して6秒分のコマ送り動画が作成できる。長い時間をかけて変化する風景や状況を表現するのに適しているため、潮の干満で美しく姿を変える厳島神社の撮影にこの手法を採用した。
日本三景のひとつとして名高い「安芸(あき)の宮島」の正式名は厳島(いつくしま)。周囲約30kmの島で、本州とは大野瀬戸を挟んで、もっとも狭いところでは500mしか隔たっていない。厳島の名は「斎(いつ)く」(心身を清めて神に仕える)に由来するといわれる。主峰弥山(みせん、535m)がそびえる厳島は、島全体が聖地として太古の昔から崇められていた。
厳島神社の創建は、縁起によれば推古天皇元年(593)という。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりびめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)といわれる女神で、海上安全を守護する神といわれる。これらの神々を総称して厳島大神と呼ぶ。平安時代まで厳島神社は安芸国一宮としてこの地方の信仰の拠り所となっていたが、これを全国的な地位へ押し上げたのが、厳島神社を熱烈に信仰した平清盛(1118~81)である。
絶頂期に一新した海上社殿
平清盛は、伊勢平氏(桓武天皇の皇子を祖とする桓武平氏の一族)の頭領となり、保元の乱(1156)と平治の乱(1159)を勝ち抜いて武士の最高実力者となる。
後白河院政を支え、50歳で従一位太政大臣に就任。平氏一族は「平氏にあらざれば人にあらず」という栄達を遂げた。『平家物語』では驕り高ぶる独裁者というイメージがある清盛だが、朝廷と並び立つ武士政権を打ち立てた業績は、近年再評価されつつある。
なぜ、清盛は厳島神社を信仰するようになったのだろうか。清盛が1164年に奉納した「平家納経」の願文によれば、「ひとりの僧が厳島神社を信仰すれば必ず良いことがあると告げたので、その言葉を信じた」とある。
お告げのとおり、清盛は武士の最高実力者であるとともに公家の仲間入りを果たした。清盛は厳島の神への感謝を表すため、社殿を一新する。それが、海上に本殿ほか多数の社殿(しゃでん)を配した現在の厳島神社の姿である。清盛が絶頂を極める途上にある1168年頃のことだ。
それ以前の厳島神社の社殿がどのような姿であったかはつまびらかではない。厳島は神聖な地であるから陸上に社殿は造らず、もともと海上にあったという説や、本来は陸上にあったが、清盛のアイデアによって人工の入江を作って社殿を建てたという説など諸説ある。間違いないのは、寝殿造り(しんでんづくり)を基本とした社殿を海上に建てたのは清盛が史上初めてであり、かつ唯一の例ということだ。
社殿はその後、何度も火災にあい、現在の主要な社殿は鎌倉時代、室町時代、江戸時代に再建したものだ。とはいえ、清盛が建てたときの姿を基本的に継承している。厳島神社のシンボルともいえる大鳥居(おおとりい)は8代目で、明治に建てられたものだ。
高潮でも浸水しない緻密な計算
厳島神社の社殿は、「玉御池(たまのみいけ)」と呼ばれる入江の中に建てられている。そのほぼ中央に本殿、幣殿(へいでん)、拝殿(はいでん)、祓殿(はらいでん)という4棟からなる「本社」がある。本社に向かって左側に、同じく4棟からなる摂社、客(まろうど)神社がある。参拝入口から回廊に入るとまず客神社があり、こちらからお参りするのが厳島神社の正式な参拝方式だ。
厳島神社の社殿は海の上に建つため、陸からの通路として回廊が必然的に作られる。干潮時は社殿から150m沖の大鳥居まで干上がり、満潮時には社殿の回廊のすぐ下まで海面が迫る。満潮時に回廊を歩くと、水面に反射した陽光が朱の柱や梁の表面でゆらゆらと波打つ。まるで海中の宮殿にいるようであり、平安貴族らが厳島神社を「竜宮」と呼んだのもうなずける。
清盛のセンスが光るのは、回廊を折り曲げて、景観に変化をつけていることだ。回廊は通路としての役割のほかに、「千僧供養(せんそうくよう)」といって千人の僧がずらりと回廊に坐って読経する場に用いられたし、あるときは舞楽の奏者たちが居並んで演奏する場に、またあるときは舞楽や能を楽しむための観覧席としても使われた。回廊の床板は1枚1枚が密着せずに隙間があいている。これは高潮の際に、隙間から水が溢れて圧力を逃がし、建物が浮かばないための工夫だ。
屋根のゆるやかなこう配が美しい本殿は、正面間口が23.7m、奥行きが11.5mあり、日本一の規模を誇る。本殿と幣殿は戦国武将の毛利元就(1497-1571)が再建したものだ。本殿の中には玉殿(ぎょくでん)という御神体を祭る小さな社殿が6つ納められている。これまで台風の大潮などで、本殿が床上浸水することは幾度もあった。
だが、玉殿は本殿内に設けられた壇上にあり、回廊から1m50cm高いため、歴史上、一度も浸水したことはない。これも清盛の精密な計算によるものだろう。本殿、幣殿の前に建つ祓殿と拝殿は鎌倉時代の建築で、本殿よりも330年古い。
平家が滅んでも揺るがぬ厳島神社の権威
清盛は厳島に大規模な社殿を建立したが、実は厳島神社の対岸、本州側の海岸にも厳島神社と関わりの深い神社がある。地御前神社(じごぜんじんじゃ)といい、現在は拝殿と本殿が建つのみだが、ここは厳島神社の外宮である。清盛の時代、本宮と呼ばれた厳島の海上社殿は37棟の建物と鳥居4基からなり、対岸の外宮には19棟の建物と鳥居1基があった。つまり、大野瀬戸をはさんで本宮と外宮が対峙し、計56棟の壮大な社殿群を創出したのである。
清盛が厳島神社の規模を壮大なものにした理由は、ひとつは厳島神社を平氏の権威の象徴としたことが考えられる。朝廷に仕える有力な一族には、一族が崇敬し、一族を守護する氏神がある。藤原氏は春日大社(かすがたいしゃ)であり、源氏は八幡宮(はちまんぐう)である。そこで清盛は、厳島神社を平氏の氏神とし、平氏の威勢を象徴するような華麗で大規模な社殿を造営したのだろう。もうひとつは、瀬戸内の海上交通の安全を祈るためと思われる。
清盛は、父と自分の2代にわたって瀬戸内の海賊をたいらげ、瀬戸内の制海権を掌中にした。瀬戸内が安全になったことにより、中国・宋の貿易船は博多から瀬戸内を通って、清盛の本拠地である福原(神戸)に直接行けるようになった。清盛は宋との貿易による経済立国を構想していたため、瀬戸内の安全はなによりも重要であった。そこで、海上安全の神である厳島の神を篤く崇敬し、瀬戸内をゆく船の無事を祈ったのだろう。
分かっているだけでも、清盛は厳島神社に10回参詣している。なかでも1174年3月には、後白河法皇が厳島神社を参詣し、それに随行している。この栄誉のできごとによって、厳島神社へ参詣することが京の貴族らの流行となった。こうして厳島神社の信仰は中央政界にも広がっていった。
清盛の死の4年後、平氏は滅ぶ。しかし、厳島神社の権威はゆるがなかった。そして清盛が建立した社殿も再建されながら、その威容をいまに伝えている。厳島神社は清盛という不世出の英雄が後世へ残した、不朽の信仰芸術なのである。
文=内田 和浩
内田 和浩 UCHIDA Kazuhiro
1962年生まれ、神奈川県横浜市出身。早稲田大学第一文学部美術史学専修卒業。専攻は仏教美術。新人物往来社、雄山閣勤務を経て、2002年よりフリーライター、編集者として活躍する。1995年「シルクロードのペンフレンド」でJTB旅行記賞佳作受賞。『名城をゆく』『中国悠遊紀行』(小学館ウィークリーブック)、『五木寛之の百寺巡礼ガイドブック』(講談社)など執筆媒体多数。代表著作は『ふるさとの仏像をみる』(世界文化社)。