MINAMATA: W. ユージン・スミスへのオマージュ
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1. ユージン・スミス
世界的なフォトジャーナリストが日本の漁村に
「MINAMATA」と聞いて、ユージン・スミス(W. Eugene Smith)や、水俣病をすぐに思い浮かべる人は、今どれほどいるだろう。1956年5月1日に20世紀の最も象徴的な公害の一つ水俣病が公式に確認されてから、すでに63年の歳月が流れた。訴訟はいまだに続いている。
ユージンは1918年、米カンザス州ウィチタ生まれ。世界的なフォトジャーナリストだ。人々の生活に寄り添い、さりげない姿をフォト・エッセーに収めた。第2次世界大戦では従軍記者として、サイパン、グアム、硫黄島を取材し、45年には沖縄で日本軍の砲弾を受けて重傷を負った。2年にわたり32回もの手術をしたが、首の骨近くに砲弾の破片が残っていて、完全には摘出されていない。その後『カントリー・ドクター』『スペインの村』や『シュバイツアー』など人間愛をテーマにした写真を手掛けた。71年、日本の小さな漁村で起きている深刻な公害を耳にして、水俣に取材に来た時には50歳を過ぎていた。
当時、世界最大のフォトジャーナリズム週間誌、全盛時には700万部出ていた米国『ライフ』に水俣の『排水管からたれながされる死』(1972年6月2日号)を発表。75年には英語版写真集『MINAMATA: Words and Photographs』を出版し、広く世界に水俣病の惨状を伝えた。
2020年には、ジョニー・デップ主演の映画『MINAMATA』が公開され、ユージンの水俣での日々や果たした役割に再び光が当たる予定だ。
2. 水俣病
20世紀の最も象徴的な公害病
水俣病は、熊本県水俣市の化学薬品製造会社「チッソ」の工場から不知火(しらぬい)海に流れ出た廃液に含まれるメチル水銀が、魚や貝類にたまり、それを食べたことによって脳の神経がまひしたり、目が見えにくくなったり、四肢や五感に重い障害をもたらしたりする公害病。重症の場合は死に至る。特に、メチル水銀に汚染された魚介類を食べた母親の胎盤を通った水銀により、胎児の時に被害を受けた患者を胎児性水俣病患者と呼ぶ。患者は病気ばかりでなく、補償をめぐる怨嗟(えんさ)や、長引く裁判に苦しんでいる。
1956年5月1日に水俣病は公式確認されたが、その後、政府統一見解により原因が確定される68年まで水銀の排出が続き、被害は広がった。いままでに熊本・鹿児島で水俣病の認定を申請した人は延べ1万7000人以上と言われているが、認定されたのは2000人強にすぎない。しかし、水俣病の全容を明らかにするための調査は行われていなく、公式確認以前に亡くなった人、認定申請も医療事業への申請もできなかった人もいて正確な数は分かっていない。いまも1700人以上が熊本、鹿児島両県に患者認定を求めている。
経済活動を再優先にして、利益を求めて突き進んだ近代社会の負の遺産、水俣病。その苦しみはまだ終わっていない。
3. 「MINAMATA NOTE(1971~2012)」:写真家・石川武志さん
ユージンとの運命的な出会い
水俣でユージンと寝食を共にした人がいる。ひょんなことから一緒に仕事をすることになった写真家の石川武志さんに当時の話を聞いた。
「当時(1971年)私は原宿に住んでいました。写真学校を卒業したばかりでした」と石川さん。少し前にユージンの個展『Let Truth be the Prejudice』を見たばかりのある日、原宿で偶然ユージンを見掛けた。勇気を出して「ユージン・スミスさんですか?」と声を掛けると「そうだよ」と笑顔で答えてくれた。「写真展感動しました」と言うと「あなたも写真をやっているのかね?もしよかったらちょっとウチに来ないか」と言われた。世界的フォトグラファーの誘いを断る理由などなかった。まさか、それをきっかけに、アシスタントとして3カ月の予定が、3年間にわたって水俣の撮影に関わるとは夢にも思わなかった。ユージンは、病にむしばまれた人々に代わって写真による「小さな声」を発し続けた。
1971~74年、石川さんは水俣でユージンと妻のアイリーン・美緒子・スミスのアシスタントを務めた。撮影を終えると、英語版写真集『MINAMATA』の出版と個展の手伝いを頼まれて75年にニューヨークに渡った。しかし、石川さんが水俣を自分の題材として考えることはなかった。長年「MINAMATA」は、ユージンのフィールドだと思っていた。
水俣再訪
2008年秋、京都でユージン没後30周年の追悼会が開かれた。150人以上が出席して盛会だったが、実際にユージンを知る人は2、3人しかいないことに驚いた。改めてユージンは水俣で何を見て、何を考えていたのだろう、また水俣を見てみたいと思った。患者たちと40年間、時々連絡をとっていた石川さんは、自分の問題として再び水俣に通うようになった。「それはユージンの足跡と自分の写真の原点をたどる旅でした」
2012年、それまで封印していた1970年代の水俣で自分が撮った写真と、できるだけ同じ場所で患者を撮影した写真集『MINAMATA NOTE(1971~2012)』を出版した。40年以上の歳月がたち、汚染された海は埋め立てられ、すでに亡くなった人もいたが、みんな覚えていてくれた。水俣病患者という苦難の人生の証しを伝えるというユージンの宿題に取り組めればという気持ちだった。
水俣の40年前と今
「宝子」たち
「私が『宝子(たからご)』という言葉を耳にしたのは1971年、ユージンと上村家を訪れた時です」と石川さん。教えてくれたのは、水俣病を代表する写真と言われる浴室でユージンが撮影した『入浴する智子と母』の被写体、智子さんの母、良子さんだ。ユージンは患者の家を訪れても、すぐに撮影するとは限らなかった。何度かユージンと家を訪ね、話を聞かせてもらう度に、良子さんは言った。
「私が食べた水銀を智子が全部吸い取ってくれました。水銀の毒を自分一人で背負って生まれてきたのです。だから私や後から生まれた残り6人の弟妹は無事だったのです。智子は家族の宝子ですたい」。智子さんは、胎児性水俣病の中でも最も重篤な患者の一人だった。77年、21歳で死去した。
ジツコが撮れない
田中実子さんは、18歳。胎児性水俣病患者の一1人だ。ふっくらした唇からはわずかに涎(よだれ)が垂れていた。時々うつろな目でこちらを見てほほ笑む。ユージンは「ジツコチャンは病なんだよ。ジツコチャンは年頃の娘なんだ。好きな人に好きともいえない女性なんだよ」と涙を流した。「ジツコチャン、私の写真には、あなたの移ろいやすい乙女心の闇や、奥底が写っていない」。結局、1000枚の中から写真集に使った実子さんの写真は1枚だけだった。巨匠と呼ばれたユージンが、石川さんの前で赤子のように大泣きした。
まだ終わっていない―水俣条約発効
2017年8月、国際的な水銀規制のルールを定めた「水銀に関する水俣条約」が発効した。世界で最も深刻な被害の水俣病を二度と繰り返さないという意味を込めて。今でも途上国を中心に金採掘現場では水銀が使われ、健康被害が起きている。水俣病患者の坂本しのぶさんは、同年9月、スイス・ジュネーブで開催された水俣条約第1回締結国会議(COP1)でスピーチした。「私も悪くなっています。水俣病は絶対に終わっておりません。一緒に水銀汚染を根絶していきましょう」
仲良し3人娘
高齢化する水俣病患者
第2次世界大戦従軍記者時代に沖縄で負った古傷のため、ユージンは固いものがほとんど食べられなかった。水俣では、毎日牛乳を瓶10本とウイスキーのサントリーレッド1本(640ミリリットル)を欠かさなかった。今思うと、痛み止め代わりだったのかもしれない。1972年には、患者たちの抗議について行った千葉県市原市にある「チッソ」の五井工場で従業員数十人に暴行され、瀕死(ひんし)の重症を負い、失明寸前に追い込まれた。神経が圧迫され次第にカメラのシャッターを切るのも難しくなったが、日本を恨むような言葉はついに一度も口にしなかった。
(壁の落書き)
ボクの写真は、静かに語る
いいかい、見て、耳を傾けて
いいかい、見て、自分で考えて
いいかい、見て、反応して
そして、キミは動いた
誰に強いられたわけでもなく、みずから
写真は性急に、かつ静かにうながす
考えて、そして感じて
ボクは写真に望んでいるんだ、それを(訳:ニッポンドットコム)
1974年11月、一時的な帰国と言い残して米国に帰っていった。アリゾナ大学で教鞭(きょうべん)を執っていたユージンは、78年10月15日、アリゾナ州ツーソンの自宅そばで脳出血のため倒れ、帰らぬ人となった。享年59歳。
今でも石川さんは東京の暗室でプリントをすることがある。ユージンからどれぐらい影響を受けたか尋ねた。「100パーセント影響を受けたね。人生に必要なことは、写真も音楽(ジャズ)も全て教えてくれた。写真は『小さな声』だとも」
「教科書に出てくるユージンに初めて街で出会った時は『写真で食っていきたい』と思っていた。でも今は『写真で何ができるか』を常に考えている」
写真撮影・提供=石川 武志「MINAMATA NOTE(1971~2012)」、追加撮影(2018)
バナー写真:田中実子を撮影するユージン・スミス(1971年)撮影=石川 武志