【Photos】日本の城—戦国武将の夢の跡
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城郭様式を一変させた織田信長
15世紀末から約100年間続いた戦国時代に、戦闘のための砦や領主の居館など、「城」と名のつく建造物が数多く作られた。当初は戦に備えて険しい山頂など攻撃を受けにくい地に作られるケースが多かったが、天才武将・織田信長(1534~1582)の登場で一変する。信長は、城主の権力を示威するような、木造の高楼に金箔や漆などの装飾を施した「天守閣」(※1)を持つ安土城を琵琶湖畔の高台に築城。広範に石垣を積み、堀を巡らせ、櫓(やぐら)や頑丈な城門で防御力を高めるとともに、“見せる”ことを意識した新しい城郭様式を完成させた。
信長が本能寺の変で討たれたため、安土城は完成からわずか3年で焼失したが、その後、多くの武将が安土城にならって城作りを行い、壮麗な天守閣を持つ城郭が全国に建てられることになった。
戦の時代の終焉で消えた天守閣-江戸城も明暦の大火で焼失
こうした城の建築ラッシュは約40年間続く。日本を代表する名城として知られる国宝の姫路城、彦根城、犬山城、松本城もこの時代に建てられたものだ。しかし、16世紀末の豊臣秀吉(1537~1598)の天下統一、17世紀初頭の徳川家康(1542~1616)の江戸幕府のはじまりにより、戦の時代が終わりを告げると、新しい城は作られなくなる。
江戸幕府はまた、各地を治める領主たちが自らの居館以外に城を持つことを禁じたため、多くの城が取り壊された。残った城も火災で焼失したり、地震などの自然災害で倒壊したりして数は次第に減少。どんなに立派でも基本的な素材が木と土の天守閣は火災に弱く、江戸幕府の将軍の居館であった江戸城天守閣も1657年に起きた明暦の大火で焼失し、再建されないまま今日に至っている。
戦後まで生き延びたのは、わずか12城
さらに19世紀後半の明治維新の後で新政府は旧幕府方についた地域の城を取り壊すように命じたため、会津若松城など多くの名城が破壊された。また、第二次世界大戦末期に全国の地方都市が空襲を受けた際、名古屋城や岡山城などで天守閣が焼失した。戦争中に陸軍の施設となっていた姫路城は、周囲の城下町と城の一部が燃えたものの、天守閣が奇跡的に残った。こうした苦難を乗り越えて建造当時の姿を今に伝える天守閣(現存天守)は、先に挙げた国宝4城を含め、わずか12城しかない。
戦後、城の歴史的な価値が再評価され、各地で失われた天守閣が再び建てられるようになった。明治初期まで残っていた城は写真も数多く残されており、建造当時に忠実な姿で甦っている(復元天守)。古い時代に失われた城を史料などから復興する試み(復興天守)や、城があったと伝わる土地に天守閣を模したものを建てる取り組み(模擬天守)なども増えており、現在では全国で100以上の偉容を楽しむことができる。
(※1) ^ 「天守閣」と表記するのが一般的だが、安土城のみ「天主閣」。