新1万円札の顔・渋沢栄一が壮年期を過ごした「旧渋沢邸」:青森から東京・江東区に里帰り

歴史 建築

近代日本経済の礎を築き、新1万円札の肖像となった渋沢栄一。働き盛りの30代後半、東京・深川(現・江東区)に建てた自邸は、息子や孫、ひ孫と4代が暮らした。平成初期に青森へ移築されていたが、令和になって江東区に帰還。清水建設のイノベーション拠点「温故創新の森 NOVARE(ノヴァーレ)」の中心で、改革者の精神を伝えていく。

115年ぶりに江東区に帰還した旧渋沢邸

JR京葉線・潮見駅の東口を出ると、曙北運河までの約250メートルに洗練された現代建築が並んでいる。ゼネコン大手の清水建設が、約500億円を投じたイノベーションと人材育成の拠点「温故創新の森 NOVARE」(江東区潮見)だ。建物沿いを運河に向かって歩くと、中庭部分に和洋折衷の立派な邸宅が現れる。一見、周りの建造物と似つかわしくないように思えるが、しばらく眺めていると調和していくのが不思議だ。

潮見駅東口の目の前にある人材育成や技術継承を行う施設「NOVARE Academy」
潮見駅東口の目の前にある人材育成や技術継承を行う施設「NOVARE Academy」

左からNOVARE Academy、NOVARE Hub、NOVARE Archives。その奥に曙北運河がある
左からNOVARE Academy、NOVARE Hub、NOVARE Archives。その奥に曙北運河がある

この歴史を感じさせる重厚な建物は「旧渋沢邸」。そう、「日本資本主義の父」と呼ばれ、新1万円札の顔となった渋沢栄一(1840-1931)が暮らした家である。元々は1878(明治11)年、深川福住町(現・江東区永代2丁目)で建造された日本家屋だった。1888年に栄一が日本橋兜町に転居してからは、長男の篤二(とくじ)や、孫で渋沢家の跡継ぎ・敬三の住居に。1908年に港区三田に移設した後、大規模な増改築によって和洋折衷の建造物となった。

戦後、財産税として物納。大蔵大臣公邸や省庁の共用会議所として使用したが、民間に払い下げられ、1991年に青森県六戸町に移築。2018年に清水建設が譲り受け、2年後に潮見で再築を開始した。2023年に工事が完了したので、旧渋沢邸が江東区へ里帰りしたのは115年ぶりということになる。その長い物語の一端を紹介したい。

旧渋沢邸は左から洋館、「表座敷」、「御母堂」と並ぶ。洋館と表座敷をつなぐ部分も、和洋折衷の建造物になっている
旧渋沢邸は左から洋館、「表座敷」、「御母堂」と並ぶ。洋館と表座敷をつなぐ部分も、和洋折衷の建造物になっている

当時の写真を参考に内部も忠実に再現し、展示パネルも設置してある。写真は洋館内にある敬三の書斎
当時の写真を参考に内部も忠実に再現し、展示パネルも設置してある。写真は洋館内にある敬三の書斎

流浪の生活の後にたどり着いた安息の地

渋沢栄一は1840(天保11)年、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれた。豪農の跡取りとして裕福な暮らしであったが、21歳ごろに江戸に出て剣術や学問の塾に通い始めてから、流浪の生活を送ることになる。

深谷市の旧渋沢邸「中の家(なかんち)」にある「若き日の栄一」像
深谷市の旧渋沢邸「中の家(なかんち)」にある「若き日の栄一」像

次第に尊王攘夷(じょうい)運動に傾倒した栄一は、外国人居留地の焼き打ちを企てたことで幕府に追われ、1863年に京都へと逃げる。縁あって一橋徳川家に拾われて庇護(ひご)を受けると、1867年に主人の一橋慶喜が徳川宗家を継ぐことになり、今度は幕臣となった。同年、慶喜の弟・昭武に随行してフランスへ。欧州視察中に徳川幕府は終焉(しゅうえん)を迎え、1868(明治元年)年に帰国。一橋家の領地・駿府(現・静岡県)に一時住むが、留学経験と高い能力を買われ、すぐに東京の明治新政府から招かれるのであった。

幕府を倒して、外国人を追い出そうとしていたのに、幕臣となって外国で学び、帰ってくると主君の敵方だった新政府へ―。目まぐるしく思想や立場、環境が変化した20代、当然一つ所にとどまることはなかった。明治政府でも、近代日本の仕組み作りに追われる毎日。そんな渋沢が実業家になり、初めて建てた深川の家は、成人してからようやくたどり着いた安息の地といえる。

旧渋沢邸が最初にあった場所は現在、澁澤倉庫本店などが入る澁澤シティプレイス永代などになっている。永代通り沿いの緑地には「渋沢栄一宅跡」の説明板が立つ
旧渋沢邸が最初にあった場所は現在、澁澤倉庫本店が入る澁澤シティプレイス永代などになっている。永代通り沿いの緑地には「渋沢栄一宅跡」の説明板が立つ

生涯、深川を愛し続けた栄一

1873(明治6)年、33歳で大蔵省を退官。自身が設立に関わった第一国立銀行(みずほ銀行の前身)の総監役を務めながら、数多くの会社設立・運営に関わっていく。

当初は銀行のある兜町の借家に住んだが、事業が軌道に乗り始めた1876年、深川に2800坪強の土地と建物を購入して転居。当時の第一国立銀行社屋は「擬洋風建築の傑作」と称され、浮世絵にも描かれたほどだったので、それを手掛けた清水屋(現・清水建設)2代目の清水喜助に依頼し、建坪170坪の母屋「表座敷」を建造する。庭には海水を取り込むことで水位が変化する「潮入りの池」があるなど、自然豊かな邸宅だった。

潮入りの池をモチーフにした水盤と美しく調和する
潮入りの池をモチーフにした水盤と美しく調和する

表座敷2階の客間には、喜助が精美な加工を施した床柱などが残る
表座敷2階の客間には、喜助が精美な加工を施した床柱などが残る

表座敷の階段には、希少な最高級木材「黒柿」などが使用されている
表座敷の階段には、希少な最高級木材「黒柿」などが使用されている

栄一は深川で12年間過ごした。その後、兜町に辰野金吾設計の豪華な洋館を建て、晩年は北区王子の飛鳥山で暮らしたことが知られている。

ただ、兜町に移り住んでからも深川区会議員となり、議長も務めた。飛鳥山時代にも深川区教育会会長に就任。そして生涯、本籍は深川に置き続けたという。それだけ思い入れの強い土地だったのだから、今回の旧渋沢邸の江東区帰還を栄一も喜んでいるだろう。

晩年の渋沢栄一 写真:国会図書館所蔵
晩年の渋沢栄一 写真:国会図書館所蔵

跡取り・敬三の暮らし伝える洋館

篤二や敬三の住居となった深川の渋沢邸は明治時代中期、東側に敬三の母が暮らす「御母堂」を建てるなど増改築を繰り返す。1908年には、深川の地から三田へと移築した。

渋沢家4代が勢ぞろいする有名な写真は、ロンドンに赴任していた敬三一家が帰国した1925(大正14)年、三田の渋沢邸で撮影したもの。ひ孫の雅英氏と対面し、栄一が優しい表情を浮かべているのが印象的だ。

雅英氏を抱く栄一の左に座るのが篤二。後列中央が敬三 写真:渋沢史料館所蔵
雅英氏を抱く栄一の左に座るのが篤二。後列中央が敬三 写真:渋沢史料館所蔵

写真が撮影された表座敷1階の居間
写真が撮影された表座敷1階の居間

三田時代の1930(昭和5)年、西側に洋館を増設するなど、現在の和洋折衷の独特な建造物へと変貌。洋館は主に敬三夫妻の生活空間で、家具や調度品の一つ一つから、海外駐在を経験した敬三ファミリーの豊かでハイカラな暮らしぶりがうかがえる。

客間に置かれるピアノにまつわる話は興味深い。世界三大ピアノに数えられるベヒシュタインが1922年に製造したもので、今回の再築に伴って完全修復した。その際に、ドイツ本社が販売記録を確認したところ、注文主の欄には「三菱」と記されていたのだ。

洋館1階の客間は、家具やシャンデリア、壁や天井のしっくい装飾まで再現した
洋館1階の客間は、家具やシャンデリア、壁や天井のしっくい装飾まで再現した

ベヒシュタイン製のピアノは、湿度の変化が大きいアジア輸出用に接着部分をびょうで補強した特注モデル
ベヒシュタイン製のピアノは、湿度の変化が大きいアジア輸出用に接着部分をびょうで補強した特注モデル

歴史小説やドラマの中では、栄一と三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎はライバルで、犬猿の仲として描かれることが多い。しかし、孫の敬三が中学の同級生の妹として知り合った妻・登喜子は、弥太郎の次女の娘だった。2人が結婚したのは1922年なので、同年製造のピアノは、岩崎家からの結婚祝いだったのかもしれない。

栄一と弥太郎は経営思想は違えども、互いの能力を認め合っており、栄一が敬三の結婚に反対することも一切なかったと伝わっている。そして、弥太郎のひ孫でもある雅英氏を抱き、いとおしそうな表情を写真に残した。こうした史実を伝える旧渋沢邸は、歴史ファンにとっても貴重な場所といえるだろう。

食堂のステンドグラスも、保存されていた2枚を参照して完全に復元した
食堂のステンドグラスも、保存されていた2枚を参照して完全に復元した

移築に伴って耐震補強も施した。屋敷内に新設したガラス張りのエレベーターからは、鉄骨フレームや補強筋違(すじかい)などが見える
移築に伴って耐震補強も施した。屋敷内に新設したガラス張りのエレベーターからは、鉄骨フレームや補強筋違(すじかい)などが見える

大切に守られ続ける旧渋沢邸

なぜ青森に移設され、清水建設が譲り受けたのかについても触れたい。建物の老朽化によって、三田共用会議所の解体計画が持ち上がった際に、払い下げを願い出たのが、当時、十和田観光開発の社長だった杉本行雄だった。杉本は栄一の時代に渋沢家の書生となり、敬三の時代には秘書や執事を務めた。戦後、渋沢家の農場があった青森県十和田市に移住し、温泉開発やホテル運営で成功を収めていた。

栄一が暮らした兜町の洋館は関東大震災で全壊し、飛鳥山の居館も戦火に焼かれ、残ったのは離れの青淵文庫と晩香廬(ばんこうろ)だけだった。杉本は元主人らが暮らした貴重な居住空間を保存するため、自分が経営する古牧温泉渋沢公園内に1991年に移設する。だが、十和田観光開発や古牧温泉は2004年に経営破綻。旧渋沢邸は後に清水建設が譲り受けることになったのだ。

杉本も暮らしたであろう玄関横に残る書生部屋
杉本も暮らしたであろう玄関横に残る書生部屋

清水建設にとっても、栄一は単なる施主ではない。3代目の清水満之助が1887(明治20)年に急逝した際、4代目がまだ8歳だったため、栄一に相談役就任を依頼。その後、30年にわたって経営指導を受けたという。さらに2代目当主・喜助が手掛けた建物で現存するのは、旧渋沢邸の表座敷だけになっていた。社の混乱期を支えた功労者が住み、2代目の技を伝える建物は、創業の原点やイノベーティブな精神を学ぶのに格好の遺構なのだ。

そうした経緯で旧渋沢邸は、清水建設の未来を担う施設「NOVARE」の中心に据えられ、取材時にも社員が見学に訪れていた。今後「NOVARE Archives(清水建設歴史資料館)」と共に一般公開を予定しているが、開始日は未定となっている。旧渋沢邸の外観は、運河沿いに整備された「潮見しぶさわ公園」からも見えるので、近くを訪れた際には立ち寄ってみてほしい。日本一の高層ビル「麻布台ヒルズ森JPタワー」を建設した会社が、明治初期に手掛けた邸宅を眺めるのは一興だろう。

潮見しぶさわ公園から眺める旧渋沢邸
潮見しぶさわ公園から眺める旧渋沢邸

NOVARE Hubのエントランスホール(一般見学可能)では、清水建設が手掛けた建造物の解説パネルなどが展示してある(写真は5月末までの展示)
NOVARE Hubのエントランスホール(一般見学可能)では、清水建設が手掛けた建造物の解説パネルなどが展示してある(写真は5月末までの展示)

撮影=土師野 幸徳(ニッポンドットコム編集部)

バナー写真:115年ぶりに江東区に帰還した「旧渋沢邸」

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