世界遺産「姫路城」:現存天守で最大規模を誇る近世城郭の傑作
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JR姫路駅に降り立つと、北口(姫路城口)から続くメインストリート・大手前通りの奥に国宝「姫路城」がそびえ立つ。
圧倒的な存在感からすぐ近くに思えるが、姫路公園の入り口にある桜門橋までは約1キロで、徒歩だと15分ほどかかる。さらに広大な園内を歩き、入城口から二の丸、本丸へと曲がりくねった城郭を通り抜け、大天守最上部にたどり着くには、小1時間を要するとみておいた方がよい。
「白鷺城」「八方正面」「不戦・不焼の城」
姫路城の大天守の高さは31.5メートルで、江戸時代以前に建造された12の現存天守の中で最も大きい。構造は5層6階で、地下1階に当たる「地階」の入る石垣の土台を合わせると46.3メートルにもなる。さらに城を頂く小高い丘「姫山」は標高45.6メートルあるので、遠くからでもその堂々たる姿を見ることができるのだ。
姫路城の最大の特徴は、南東にある大天守に西小天守、乾(北西の意)小天守、東小天守が渡櫓(わたりやぐら)でつながる連立式天守閣。4つの天守の屋根が幾重にも重なり、眺める角度ごとに違う表情を見せるため、「八方正面」と呼ばれる。
全体的に白く見えるのは、「白漆喰総塗籠造」(しろしっくいそうぬりごめづくり)のため。火事に強い白漆喰で、外壁に加え、屋根瓦の目地まで塗り固めているのだ。その姿は翼を広げたシラサギのように華麗なことから、「白鷺城(しらさぎじょう、はくろじょう)」の異名でたたえられる。
「不戦・不焼の城」の呼び名もある。江戸時代初期に現在の城郭が完成して以来、一度も戦場になったことはなく、火事や地震による大きな被害も出ていない。幕末には官軍側に取り囲まれ、大砲を打ち込まれるが、すぐに城を明け渡している。第2次世界大戦の空襲でも、姫路の中心地が焦土と化す中で、姫路城は奇跡的に焼け残った。そのおかげで貴重な建造物が数多く残り、4つの天守、それをつなぐ4つの渡櫓(わたりやぐら)の計8棟が国宝に指定され、重要文化財も74棟に上る。
単独で世界遺産に登録される近代城郭の最高傑作
姫路城の起源は、鎌倉から南北朝時代にかけての武将・赤松則村が姫山に築いた砦(とりで)。その次男・貞範が1346(正平元)年、城へと改修した。
1467(応仁元)年に赤松氏を再興した政則が、本丸などを築く。以後、姫山城は赤松一族の小寺氏、その重臣・黒田氏が預かる。16世紀半ばに黒田氏が本格的な山城を築いたが、1580(天正8)年には黒田孝高(官兵衛、如水)が西国統治を目指す羽柴(豊臣)秀吉に献上。秀吉は石垣を巡らし、3層の天守を設けるなど近世城郭へと発展させた。その際に、姫山城から「姫路城」へと名称も変えている。
現在残る姫路城を造り上げたのは、徳川家康の次女を継室(けいしつ)に迎え、信任の厚かった池田輝政。関ケ原の戦い(1600年)後に姫路藩主となると、翌年から大規模改修を始める。その権勢から「西国将軍」とも称されただけに、豪華絢爛な連立式天守閣を1609(慶長14)年に完成させた。
輝政から家督を継いだ孫・光政は幼少だったため、鳥取城へと転封となる。徳川家の重臣・本多忠政が姫路入りすると、1617年に三の丸や西の丸を増築した。
徳川幕府は1615年、豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣直後に「一国一城令」を制定。諸藩の軍事力抑制を目的に、全国約400の城を取り壊している。同時期に発布した「武家諸法度」の中では、築城の禁止や居城修補の届出制まで規定した。つまり姫路城は、大規模築城が可能だった最終時期に完成したもので、今も残る近世城郭建築の最高峰といって過言ではない。
その文化的価値が評価され、1993年にはユネスコの世界文化遺産に登録された。その後、二条城や首里城などが世界遺産の構成資産となっているが、単独で登録されている日本の城は姫路城のみ。この事実も「日本一の名城」の呼び声を裏付けている。
石垣や門、狭間を眺めながら天守閣へ
遠くからでも堂々と美しい姫路城だが、有料エリアの城内に入れば、さらに見どころが満載だ。天守までの道のりは、敵の侵入を遅らせるため、「曲輪(くるわ)」と呼ばれる石垣や塀で、らせん状に囲まれている。
その塀には所々に、丸や三角、四角の穴が開いている。敵を迎え撃つために鉄砲を放つ「狭間(はざま)」というもので、この数でも姫路城は日本一を誇る。
石垣は羽柴と池田、本多時代に積まれたものがあり、年代別に見比べると面白い。特に有名なのが「姥ヶ石(うばがいし)」の逸話だ。秀吉が天守を築く際、石不足で工事が進まず、城下に石を提供するように触れを出した。すると、貧しい老婆が石臼まで持ってきたので、秀吉はいたく感動し、一番大切な天守の土台に差し込んだという。その話は瞬く間に広がり、その後は庶民からどんどん石が集まったと伝わる。
備前丸西側にある池田輝政時代の石垣は、上部にいくほど急傾斜となり、開いた扇のような曲線を描くので「扇の勾配」と呼ばれる。下から見上げると乗り越えるのは不可能に思われ、「難攻不落の城」の象徴の一つといえる。
天守内も超実戦的、最上階から姫路の町を一望
天守内部も通路が入り組んでいて、階段が急で狭く、攻め入るのは容易ではない。窓際には至る所に石落しや矢狭間が設置してあり、壁には武具掛けがズラリと並び、無骨な印象だ。
天守を殿様の居館だと勘違いしている人も多いが、あくまでも戦時の要塞。姫路藩主の場合は、三の丸や西の丸などに設けた御殿で暮らしていたので、天守内部の簡素さにがっかりしないように。三の丸などにあった御殿群は、残念ながら明治期に取り壊されている。
圧巻なのは地階から6階床までを貫く24.6メートルもある東大柱と西大柱。根元部分を補強しながら350年にわたって大天守を支えてきたが、西大柱は昭和大修理(1956-64年)で中まで朽ちていることが分かり、取り換えられた。旧西大柱は入城口近くに展示してあり、その巨大さを間近に見ることができる。
姫路城の守り神「刑部神社(長壁神社、おさかべじんじゃ)」のある大天守最上階からは、しゃちほこ越しに姫路の町を一望できる。
姫路城内には他にも、名建築や文化財がめじろ押しで、見どころは尽きない。時間に余裕のある人は、西に隣接する日本庭園「好古園」に立ち寄ったり、シロトピア記念公園から城の北面を眺めたりして、日没後のライトアップまで楽しもう。
姫路城
- 住所:兵庫県姫路市本町68
- 開城時間:午前9時~午後5時(閉門は午後4時)、※2023年の6月1日~9月24日は閉門時間を1時間延長
- 定休日:12月29日・30日
- 入城料金:大人1000円、小人(小学生~高校生)300円
- アクセス:JR・山陽電鉄「姫路」駅から徒歩約15分。姫路駅北口から神姫バスで「姫路城大手門前」下車、徒歩約5分
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部