岩国「錦帯橋」:絶景を生む5連のアーチは、“流されない”ための機能美だった
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山口県最東部・岩国市の「錦帯橋」は、5つの太鼓橋が連なる木造橋。鵜(う)飼いで知られる清流・錦川に架かり、全長は193.3メートルもある。組木の技法でくぎを一切使用せず、中央3つの太鼓橋はたもとに石積みの橋台があるのみで、アーチの下には橋脚を持たない。頂に岩国城がたたずむ城山(横山、標高200メートル)、錦川と共に生み出す景色は、国指定の名勝となっている。
錦川で分断された岩国城と城下町
その見事なフォルムから、デザイン重視で建造されたものに思えるが、 実は“流されない”構造を追い求めた末に生まれた姿だという。
江戸時代の周防国岩国領を治めたのは、長州藩毛利家の家老・吉川(きっかわ)家。初代の吉川広家は錦川を外堀として利用し、西岸の山の頂に岩国城(1608年完成)を築き、麓の横山地区を政務の拠点とし、自らの居館や重臣の屋敷を置いた。
防衛力の高い要害の地だが、困ったのは中級以下の武士である。彼らが暮らす城下町は、錦川の東岸に形成されたのだ。職場に出向くのには、川幅200メートルもある錦川を渡らねばない。川の流れが速いため、出水のたびに橋が崩落し、渡し船に頼る不便な生活を強いられた。
“流されない橋”の誕生
錦帯橋を建造したのは、長年「流されない橋」を追い求めた3代目の吉川広嘉(ひろよし)。橋脚のいらないアーチ橋に早くから着目したが、当時の技術では川幅の狭い場所にしか掛けられず、「何か名案はないか……」と頭を悩ませていたという。
大きなヒントとなったのが、明(当時の中国)の帰化僧が見せてくれた杭州・西湖の絵。そこには、直線に浮かぶ4つの小島を、橋脚のない5つの太鼓橋で結ぶ景色が描かれていた。ここから着想を得て、小島の代わりに石積みの頑強な橋台を並べ、アーチ橋を連ねることを思い付いたのだ。
初代錦帯橋は1673(延宝元)年に完成。翌年の洪水で一度流出してしまうが、すぐに橋台を強化して再建し、以後も度重なる改良、定期的な架け替えを続けた。その結果、江戸時代はおろか、戦後1950(昭和25)年のキジア台風の濁流に飲まれるまで、錦帯橋は276年間も流されることはなかった。
岩国藩士が夢見た絶景
現在の錦帯橋は、1957(昭和32)年末に完成。コンクリート橋に変更する案もあったが、地元住民から反対の声が上がり、5連アーチの木造橋をよみがえらせた。その際に、橋台を1メートル高くし、コンクリートや鉄材で補強している。
岩国市街地方面から錦帯橋を渡ると、横山地区には吉香(きっこう)公園を中心に、藩政時代の建造物が点在している。吉川家が所蔵した史料や美術工芸品を展示する「吉川資料館」や「岩国徴古館」といった展示施設に加え、吉川家の居館跡には吉香神社、寺社地跡には紅葉谷公園が広がるなど見どころが多い。
岩国城までは「岩国城ロープウエー」の山頂駅から徒歩10分ほど。現在の天守は、1962(昭和37)年に再建されたものだ。
江戸時代の岩国は自治を許され、幕府からも藩に準じる扱いを受けたが、吉川家はあくまでも毛利家の家来として「領主」を名乗った。そのため、江戸初期の一国一城令によって、岩国城は築城からわずか7年後の1615(元和元)年に取り壊されている。つまり、錦帯橋の完成時には天守は存在しなかった。
錦帯橋と岩国城が織りなす景色が見られるようになったのは、現代になってから。春は桜、夏は鵜飼いや花火、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季折々の美しさを持つ。岩国藩士が夢見たであろう絶景を拝みに、訪れてみてはどうだろう。
錦帯橋
- 住所:山口県岩国市岩国
- 営業時間:料金所=午前8時~午後5時(観光シーズンは午後6時、夏季は午後7時まで) ※夜間料金箱が設置してあるので、24時間入橋可能
- 入橋料金:大人310円、小学生150円 ※岩国城ロープウエーと岩国城とのセット券あり
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部