織田信長が天下を望んだ「岐阜城」:金華山の頂に立つ天守や麓の居館跡、城下町を巡る

歴史

戦国武将・織田信長が本拠地とした山城「岐阜城」(岐阜市)。金華山の頂にそびえる再現天守は、街のシンボルであると同時に、信長の革新的な政治手腕を今に伝える。近年は山麓にある居館跡の調査が進み、日本で最も有名な英雄の新たな側面が明らかになってきた。

信長が天下統一に向けて拠点とした山城

「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」

戦国の風雲児・織田信長(1534~1582)が好んだ舞曲『敦盛(あつもり)』の一節である。小国・尾張(現在の愛知県西部)の大名から、天下統一目前まで成り上がった信長は、まさに50年足らずの生涯をドラマチックに駆け抜けた。奇襲や鉄砲の活用といった戦術をはじめ、柔軟な発想と破天荒な振る舞いで多くの逸話を残し、人々を魅了し続けている。

JR岐阜駅前に立つ黄金の信長像。2009年に市民の寄付により建立された
JR岐阜駅前に立つ黄金の信長像。2009年に市民の寄付により建立された

戦いに明け暮れたイメージが強い信長だが、為政者としても革新的であった。

それを伝えるのが、鵜(う)飼いで有名な長良川の南岸、金華山(標高329メートル)の頂に立つ岐阜城である。この山城を1567(永禄10)年から本拠地とした信長は、斬新な施策で戦力強化や城下町の整備を進め、天下取りへの足場を固めたのだ。

長良川の岸辺から見上げる岐阜城。現在の天守は1956(昭和31)年に再建された
長良川の岸辺から見上げる岐阜城。現在の天守は1956(昭和31)年に再建された

金華山ロープウェー「山頂駅」から天守に向かう途中、二ノ門近くで撮影
金華山ロープウェー「山頂駅」から天守に向かう途中、二ノ門近くで撮影

斎藤道三の治めた城と町を“岐阜”に改名

信長と岐阜の地との初縁は「結婚」だった。10代半ばで、隣国の美濃(現在の岐阜県)を治める斎藤道三の娘・濃姫を妻に迎えている。

政略結婚であるが、道三は「うつけ(愚か者)」とうわさされていた信長を一目で気に入り、将たる器と認めていたという。長男の義龍によって居城・稲葉山城を追われた1556(弘治2)年、死を目前にして“美濃は娘婿に託す”と書き残したと伝わる。

その遺志に従い、信長は9年越しで美濃を攻略。井ノ口と呼ばれていた城下町を「岐阜」、稲葉山城を「岐阜城」へと改め、自らの拠点とした。岐阜は日本の東西の境目といえる東山道の「不破関(ふわのせき)」(関ケ原町)に程近く、京都へ進出する上でも絶好の地。「天下布武」の印紋を用い始めたのもこの頃からで、天下統一への歩みを本格化したことがうかがえる。

岐阜公園の入り口に、城を背に立つ「若き日の織田信長」像
岐阜公園の入り口に、城を背に立つ「若き日の織田信長」像

岐阜城にて展示されている天下布武の印(複製)
岐阜城にて展示されている天下布武の印(複製)

岐阜統治期のエポックメイキングな取り組みが「楽市楽座」と「兵農分離」である。

楽市楽座は、誰でも自由に商売ができる規制緩和策。商業を活性化することで、戦乱で衰退していた城下町を一気に発展させた。また、当時は兵士の多くが農業に携わっていたが、武士と農民を明確に分離。武士を支配階級として城下町に住ませることで、常に戦に備えさせると同時に、農業生産量の安定化を図った。

経済力と戦闘力を高めた信長は1576(天正4)年、不破関を越えて近江(現在の滋賀県)の安土城へと移り、岐阜は嫡男・信忠に委ねた。しかし、天下取りを目前にした1582(天正10)年、京都の本能寺において信忠ともども非業の死を遂げる。

岐阜城は以後、羽柴(豊臣)秀吉傘下の大名らが入城したが、関ヶ原の戦い(1600年)後に徳川家康の命により廃城となった。

木造織田信長坐像(複製、岐阜城展示品)。信長の一周忌法要のために制作されたものなので、容姿は実物にかなり忠実だと推測できる
木造織田信長坐像(複製、岐阜城展示品)。信長の一周忌法要のために制作されたものなので、容姿は実物にかなり忠実だと推測できる

信長も眺めた絶景が目玉

歴史から長らく姿を消していた岐阜城が再建されたのは、1910(明治43)年のこと。日本初の外観復元天守で、観光地として人気を博したが、太平洋戦争下の1943(昭和18)年に焼失してしまう。現在の天守は金華山ロープウェーが設置された翌年の1956(昭和31)年、再び復興されたものだ。

麓の岐阜公園からロープウェーの山頂駅までは約4分。そこから登城路を10分ほど歩けば、3層4階の天守に到着する。

岐阜公園内の山麓駅を出発した金華山ロープウェー
岐阜公園内の山麓駅を出発した金華山ロープウェー

山上の登城路から眺める岐阜城復興天守
山上の登城路から眺める岐阜城復興天守

天守内部は3階まで資料館となっており、信長時代を中心とする史料や模型、パネルなどを展示している。

一番の目玉は、最上階の廻縁(まわりえん)から眺める360度パノラマ。岐阜城の園部徹副館長は「岐阜の市街や長良川はもちろん、名古屋の高層ビルまで望める。信長の本拠地だった尾張方面や岐阜攻略の拠点とした小牧山、関ケ原なども見渡せて、まさに天下統一を胸に見下ろした雄大な景色を追体験できる場所」と解説する。

4階は展望室。パノラマ夜景を楽しめる時期も
4階は360度見渡せる展望室。夜景を楽しめる時期も

東側は南アルプスを遠望、南に濃尾平野を眼下に望む
東側は南アルプスを遠望、南に濃尾平野を眼下に望む

西側は長良川を見下ろせる。夏の夜には川面に鵜飼い船のいさり火が浮かぶという
西側は長良川を見下ろせる。夏の夜には川面に鵜飼い船のいさり火が浮かぶという

天守は古文書などを参考にして再建されたものだが、周辺には戦国時代の石垣が点在し、歴史好きなら見逃せない。園部副館長は「天守南側の崖の下は、信長が築いた石垣越しに天守を仰ぎ見ることができるスポット」とお薦めする。

天守の真下に築かれた石垣。巨石を用いて隙間に石を詰めるなどの特徴から信長のものとされる
天守の真下に築かれた石垣。巨石を用いて隙間に石を詰めるなどの特徴から信長のものとされる

二ノ門近くに残る石垣。角ばった横長の石材を積んでおり、斎藤道三のものと考えられる
二ノ門近くに残る石垣。角ばった横長の石材を積んでおり、斎藤道三時代のものと推測される

発掘により明らかになった「見せる城」

山頂の天守はあくまで戦時の要塞(ようさい)で、信長と濃姫が日常生活を送ったのは山麓にあった居館。巨大な石垣がめぐらされた中に、自然景観を取り入れた庭園が広がり、屋敷は4階建ての壮麗なもので、招待を受けたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「宮殿」と呼んだという。

織田信長公居館跡は1984年から発掘調査が始まり、多くの遺物が見つかっている。特に史料的価値が高いのが、2012年に金箔で飾り付けられていたと判明した菊とぼたんをかたどった瓦。それまで、金箔瓦を最初に使用したのは安土城(1576年に信長が築城)と考えられてきたが、岐阜城が先駆けだったことが判明したのだ。

この瓦も信長の革新的な政治手腕を物語る。「戦うための要塞」だった戦国時代の城を、華美な演出を施して「見せる城」とすることで、統治のシンボルとすると同時に、財力と権威を誇示して敵をひるませるものへと変化させた。

ロープウェーから見下ろした織田信長公居館跡
ロープウェーから見下ろした織田信長公居館跡

発掘品の菊とボタンをかたどった金箔飾り瓦(複製、岐阜城展示品)
発掘品の菊とボタンをかたどった金箔飾り瓦(複製、岐阜城展示品)

ルイス・フロイスは城下町のにぎわいについても、「バビロンの混雑を思わせる」「信長の楽園」と評した。信長が保護した鵜飼い文化を筆頭に、現在の岐阜市街地には当時の影響が残されている。

鵜飼い観覧船の船着き場から延びる川原町通りは、岐阜公園から徒歩すぐ。かつては長良川上流から運ばれた材木や奥美濃の和紙などを扱う問屋が軒を連ね、城下町の発展を支えた場所だ。今でも古い日本家屋が立ち並び、美濃和紙を使った和傘やちょうちん、うちわなどの伝統工芸品店が点在。風情あふれる街並みを散策すれば、信長が武将としてだけでなく、為政者としても革新的であったことが実感できるだろう。

古い町家や蔵が立ち並ぶ川原町通り
古い町家や蔵が立ち並ぶ川原町通り

岐阜城

  • 住所:岐阜県岐阜市金華山天守閣18
  • 開館時間:夏季 午前9時30分~午後5時30分
  •      冬季 午前9時30分~午後4時30分
  • 休館日:年中無休
  • 入館料:一般200円、4歳以上16歳未満100円
  • アクセス:JR・名鉄「岐阜」駅からバス15分「岐阜公園歴史博物館前」下車、岐阜公園内の金華山ロープウェー(所要4分・一般往復1100円)下車後、徒歩8分

取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部

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