日本遺産「安積疏水」:不毛の地・郡山を潤した猪苗代の水と開拓者魂
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不毛の地を潤し、郡山を発展させた安積疏水
福島県郡山市は、東北地方において経済規模で宮城県仙台市に次ぐ2位、人口では仙台、同県のいわき市に次ぐ3位の中核市。農業も盛んで、ブランド米「あさか舞(まい)」を代表とする米の生産量は県内トップで、野菜や果物の産地としても知られる。
しかし、江戸時代までは農作物が育たない“不毛の地”であった。奥州街道の宿駅が置かれたが、当時の地図を見ると、宿場町の周囲には「不毛」と記された土地が広がっている。その理由は、慢性的な水不足。年間降水量は平均約1130ミリと全国平均の3分の2程度で、南北に走る阿武隈川は低地を流れるため、用水路が引きづらかった。そのため、当時は安積原野とも呼ばれた郡山盆地では、作物が育たないどころか、飲料水の確保にすら苦労し、水をめぐって村同士が争うこともあったという。
明治時代に入り、不毛の地を潤し、経済の発展にも大きく寄与したのが、猪苗代湖(標高514メートル)がたたえる清らかな水だ。
郡山中心地から西へ25キロほどに位置するが、水が流れ出すのは西側の会津方面に向かう日橋川だけだった。その水を郡山方向に引く安積疏水は、1882(明治15)年に完成。幹線水路の長さは52キロ、分水路は78キロで、約3000ヘクタールの土地を潤したという。明治後期には、水路の高低差を利用した水力発電所も建造されたことで工業化が進み、郡山の経済成長も促したのである。
現在、安積疏水は琵琶湖疏水(滋賀県-京都市)、那須疏水(栃木県)と共に日本三大疏水に数えられる。2016年には、開拓時の遺構や記念碑を結ぶストーリーが『未来を拓いた「一本の水路」-大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代-』として、日本遺産にも登録された。
郡山には南北に東北新幹線と東北自動車道が通り、東西に走る磐越自動車道は東のいわき、西の猪苗代湖や会津若松を結ぶ。県内きっての交通の要所なので、福島観光に訪れる際には、不毛の地を潤した安積疏水の関連施設を巡ってみるのも一興だろう。
開拓を国家事業にした大久保利通
安積開拓は1873(明治6年)から始まり、岩倉使節団の一員として欧米を視察した福島県令・安場保和の命を受け、県の典事(課長職)だった中條政恒が主導した。開拓の必要性を説いた県の告諭書には「一尺を開けば一尺の仕合あり、一寸を懇すれば一寸の幸あり」と記されていたという。
地元商人らが開拓組織「開成社」を設立し、江戸時代に郡山を治めた二本松藩の旧藩士19家族が入植。現在の開成山公園辺り(当時は安積郡桑野村)で、かんがい用のため池の整備や西洋農法の導入を進め、200ヘクタール以上の土地を開墾した。
開拓を加速させたのは、安場と共に岩倉使節団に参加し、国の近代化を進めていた内務卿・大久保利通だった。76年、天皇の東北巡幸の下見に郡山を訪れた際、官民一体での開拓に感心したのに加え、中條から安積開拓に関する請願も受け、頭を悩ましていた士族の救済策にすることを思い付く。当時は、廃藩置県によって職を失った元武士が、困窮した末に全国各地で暴動などを起こしていた。広大な安積原野に猪苗代湖の水を引けば、仕事と土地を与えられるので、「士族授産」のモデルケースになると考えたのだ。
政府は78年、オランダ人技術者のファン・ドールンを現地に派遣。調査の結果、安積疏水の開削を国直轄の農業水利事業第1号に決定し、翌年に着工した。そして、地元の二本松藩や会津藩に加え、九州の久留米藩や四国の土佐藩など9藩から、元武士の500家族、2000人が移り住んだ。
この事業に力を注いだ大久保は、調査段階で暗殺されたため、郡山の発展を見届けることはできなかった。
電力も生み出して郡山、東京の発展を支える
初めに着手したのは、日橋川への流出口で猪苗代湖の水位を調整する十六橋水門。すでに猪苗代湖の水を利用する会津方面への配慮もあり、流域の洪水を防ぐ役割も持つ水門の建造を優先したようだ。
猪苗代湖と安積地方の間には奥羽山脈が立ちふさがるため、37カ所ものトンネルを築くなど、工事期間は3年に及び、延べ85万人の労働力、総費用40万7000円(現在の貨幣価値で約400億円)が費やされた。その結果、米の生産量は10倍以上に増え、今では郡山の名産品となったコイの養殖なども始まった。
1899(明治32)年には、安積疏水の落差を利用した沼上発電所が運転を開始。高圧電力の長距離送電に日本で初めて成功したことで、郡山は繊維産業を中心に工業や商業でも発展していく。大正時代には、十六橋水門のある猪苗代湖の西側にも発電所が建設され、東京を中心に関東地方にも電力を供給した。
郡山に今も宿るフロンティアスピリッツ
明治期の名建築と知られる安積歴史博物館の建物は、「旧福島県尋常中学校本館」として国の重要文化財に指定される。当時、福島県唯一の中学校だったが、桑野村の農民が学校用地と校舎建設の労働力を提供し、1889(明治22)年に福島市から移転した。そうした地域の協力もあって、「開拓精神」が校風として根付いていったという。
開拓者への尊敬の念を伝えるのが、十六橋水門近くに立つファン・ドールンの銅像だ。第2次世界大戦における金属類回収令で、学校などの銅像まで壊される中、「恩人の銅像を砲弾なんかにしてはならない」と地元農民が山中に隠したそうだ。その足先には、再設置の際にコンクリートで補強した跡が残っている。
この逸話が1973年、テレビ番組で紹介されたことがオランダにも伝わると「敵国の人間だったのに」と感動を呼んだ。その後、郡山市はファン・ドールンの出身地、オランダのブルメン市と姉妹都市関係を結んでいる。
戦後に通水した新安積疏水などによって、現在の安積疏水のかんがい面積は1万1000ヘクタールに及ぶ。不毛の地を実り多き土地に変えた開拓精神は、今でも郡山の人に流れ、全国から入植者が集まったことで、産業や技術、文化は多様性に富むといわれている。
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部
バナー写真:猪苗代湖の清らかな水が流れる三穂田町の水橋