日蓮宗大本山「池上本門寺」:開祖入滅の地で、仏の教えを伝え続ける東京の名刹
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日蓮宗大本山・池上本門寺は、大田区中心部の高台に広がる都内きっての名刹(めいさつ)で、開祖・日蓮の入滅(臨終)の地として知られる。壮麗な大堂(祖師堂)や仁王門、関東最古の五重塔などが立ち並ぶ境内は3万坪。隣接する本門寺公園や子院といった旧境内地を併せると、約7万坪にも及ぶという。参詣者に加え、江戸時代の絵師・狩野探幽や人気プロレスラーだった力道山の墓所を巡る人、犬の散歩やウオーキングをする姿も多く、都民の憩いの場となっている。
霊宝殿の学芸員・安藤昌就(まさなり)主事は「都内には珍しい静逸な場所なので、気軽に訪れてください。その際には、ぜひお題目の『南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)』を唱え、他者を思いやる気持ちや、世界平和についても思いを巡らせてほしい」と語る。
“法華経の道場として長く栄えるように”
鎌倉時代の名僧・日蓮は、法華経を仏教の根本経典とし、題目に掲げた「南無妙法蓮華経(法華経の教えに帰依する)」を実践することで、世界平和が訪れると説いた。平易な教えは庶民に受け入れられたが、一方で他宗を批判したり、幕府に諫言(かんげん)して島流しになったりと、過激な人物というイメージもある。
安藤さんは「新しい宗派を開くには強い信念が必要であり、庶民の幸せを実現するために幕府との対立も辞さなかった。数多く残された直筆の手紙を読めば、気遣いが細やかで、とても論理的に法華経の教えを説いていたことが分かる」と解説する。
池上本門寺の本来の名称は「長栄山本門寺」。鎌倉時代の御家人・池上宗仲の邸宅内にあった法華堂に起源を持つ。1274(文永11)年、佐渡への流罪が赦免された日蓮は鎌倉へ戻る際、有力信者であった池上氏の邸宅に立ち寄り、裏山にあった持仏堂を「法華経の道場として長く栄えるように」と改め、開山したと伝わっている。
同年、日蓮は幕府への進言を諦め、身延山(現・山梨県身延町)に隠せいする。そこでも布教に力を注いだが、冬の厳しい身延の生活で体調を崩しがちになり、1282(弘安5)年9月に常陸国(現・茨城県)の温泉での病気療養へと出発。その道中で立ち寄った池上邸で病が重くなり、10月13日に息を引き取った。
宗仲は日蓮の死後、法華経の文字数6万9384に合わせ、法華堂を含む約7万坪もの土地を寄進。これが寺の基礎となり、やがて「池上本門寺」と呼ばれるようになったそうだ。日蓮が臨終を迎えた池上氏の屋敷自体は、後に本門寺の子院筆頭の本行寺となり、現在は日蓮宗本山「大坊 本行寺」として独立している。
徳川将軍家や有力大名の信奉を受けて繁栄
日蓮の遺言によって、本門寺で火葬された後、遺骨は身延山の久遠寺に納められた。本門寺の管理は、日蓮宗最古の寺院・妙本寺(鎌倉市大町)の貫首が兼務し、その後は「両山一首制」となった。
本門寺に豪華な伽藍(がらん)が立ち並ぶようになったのは、江戸時代のこと。1590(天正18)年に徳川家康が江戸に入府すると、時代を読んだ本門寺第12 世日惺(にっせい)が、鎌倉から池上へと本拠地を移す。その結果、幕府の信頼を得て、江戸時代を通じて、将軍家や江戸詰の有力大名から手厚い保護を受けるようになったのだ。
幅25間(約45.5メートル)もあったという旧大堂、現在も残る石段「此経難持坂(しきょうなんじざか)」は、1606(慶長11)年に肥後熊本藩主・加藤清正によって建立されたと伝わる。五重塔は、徳川2代将軍・秀忠が病気平癒の礼として寄進し、1608年に完成。紀州徳川家や加賀百万石の前田家などからも、深く信奉された。
題目を唱えれば、世界平和が訪れるという教えは、芸術・芸能関係者や文人にも深く浸透した。その代表格が、狩野派の絵師である。室町時代から京都の日蓮宗本山・妙覚寺(京都市上京区)の檀家(だんか)で、江戸で徳川幕府の御用絵師になってからは、本門寺を菩提(ぼだい)寺とした。江戸狩野を確立した狩野探幽を筆頭とする墓所のほか、霊宝殿には狩野派の貴重な絵画が多数残っている。
同じく京都から移り住んだ本阿弥光悦も、熱心な信者だった。総門に掲げられる「本門寺」の扁額(へんがく)は、名書家として知られる光悦の字だという。
庶民に信奉され続ける池上本門寺
江戸っ子からの信仰の深さを表すのが、日蓮の命日法要「お会式(おえしき)」である。町人文化が花開いた江戸時代後半には、お会式が本門寺の代名詞となり、江戸の晩秋の風物詩となった。特に命日前夜の「お逮夜(おたいや、10月12日の夜)」に、団扇太鼓(うちわだいこ)を打ち鳴らし、お会式桜(日蓮が亡くなった時に咲いたと伝わる桜)をかたどったちょうちんや纏(まとい)を担いで練り歩く「万灯練供養(まんどうねりくよう)」は有名だ。江戸中の信者が集まる様子は、歌川広重の「名所江戸百景」など浮世絵にも多数描かれている。
歴史ファンにとっては、幕末に江戸城に迫る官軍の本陣が置かれたことも一大トピックだろう。1868(慶応4)年4月、薩摩の西郷隆盛と幕臣・勝海舟が本門寺奥庭の松濤園で、江戸城無血開城について会談したと伝わっている。
2人の交渉もあって江戸は戦火を免れたが、第2次世界大戦の東京大空襲では、本門寺も堂宇56棟が焼失するという大きな被害を受けた。そんな中でも五重塔と多宝塔、総門、経蔵は焼け残り、日蓮聖人坐像や開祖直筆の書簡などは寺僧が命懸けで守ったという。その後、大堂や仁王門などを再建し、本殿(釈迦殿)や霊宝殿なども新設されたことで、壮麗な境内がよみがえっている。
2022年は日蓮生誕から800年に当たる。数えで計算する日蓮宗の寺院では、昨年に降誕800年法要などを開いたが、新型コロナ流行で盛大なものにはできなかった。少しずつ観光業も復活する中、3年連続で中止となっていた万灯練供養も今年は開催予定なので、この機会に本門寺を訪れ、日蓮の教えに触れてみてはいかがだろう。
安藤さんは「法華経の教えを端的に言えば、他人の幸せを思いやり、日々正直に生きれば、平和が訪れるというもの」とし、こうした難しい時期だからこそ「お題目を唱え、そうした気持ちを胸に抱いてもらえれば」と繰り返していた。
池上本門寺
- 住所:東京都大田区池上1-1-1
- 霊宝殿:開館日=日曜日 開館時間=午前10~午後4時 拝観料=大人300円、子ども200円 ※企画によって変更があるので公式HPで確認
- アクセス:東急池上線「池上」駅から徒歩10分、都営浅草線「西馬込」駅から徒歩12分
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部
バナー写真:池上本門寺の大堂