沖縄・読谷村「やちむんの里」:登り窯が生み出す、個性豊かな伝統陶器と出会う
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17世紀に確立された沖縄の伝統工芸
「やちむん」は、沖縄の方言で「焼き(やち)物(むん)」のこと。厚みのある素朴な風合いで、絵柄もおおらかなものが多い。読谷村の「やちむんの里」には、20軒ほどの工房が点在。土産物の器やシーサーを探したり、赤瓦の巨大な登り窯を眺めたりして散策すると時間を忘れてしまう。
沖縄の焼き物は琉球(りゅうきゅう)王朝が成立し、交易が盛んになった15世紀頃から、中国や朝鮮、東南アジアなどの陶磁器の影響を受け、大きく技術が向上したという。現在のやちむんの基礎を築いたのは、17世紀初期に薩摩(現在の鹿児島県)から沖縄に渡って来た朝鮮人陶工だった。
1682年、焼き物生産を奨励する王府が、材料調達や輸送に適した安里川近くの壺屋(現・那覇市壺屋)に、島中の職人を集めた。これが、沖縄を代表する陶器「壺屋焼」の始まりである。壺屋焼は王府への献上品の他、泡盛や海産物など輸出入品の容器に使われ、食器や酒器として庶民の生活にも浸透していった。
公害問題から生まれた「やちむんの聖地」
戦後、沖縄一の繁華街・国際通りに程近い壺屋は、住宅が増えて都市化が進んでいく。1970年代初頭、窯元が出す煙が公害問題となり、那覇市の規制で薪(まき)を使用する登り窯が使用できなくなった。
多くの窯元がガス窯への転換を強いられる中、後に沖縄初の人間国宝となる金城次郎氏など、薪窯にこだわる陶工もいた。同時期、読谷村では米軍跡地を活用した文化村構想を進めており、登り窯の建造を提案。金城氏が72年に移住を決意すると、それに追随する窯元が増えていき、80年頃に「やちむんの里」が形成されたのだ。
やちむんの里のシンボルといえるのが、1980年に建造された「読谷山焼共同窯」。斜面を利用して9つの房を並べた大きな登り窯で、一番下で薪を燃やすと、全体に熱が行き渡る仕組みだ。1992年には、若手陶工らが13連房の「読谷山焼北窯」を稼働させた。両窯とも共同売店を併設し、各工房の作品が個性を競い合うように並んでいる。
今では壺屋を「やちむんの故郷」、読谷村を「やちむんの聖地」と呼ぶそうだ。やちむんの里で生まれる作品は、伝統的な登り窯での火入れにこだわりながらも、自由で革新的だと評されることが多い。共同売店をのぞくだけでも多彩なやちむんに出会えるが、各工房を訪ねて作品を眺めつつ、ゆっくりと里内を散策するのをおすすめしたい。
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部
バナー:9連房の登り窯「読谷山焼共同窯」