福島・猪苗代町「野口英世記念館」:世界へ飛躍した細菌学者の偉業を伝え、生家も保存
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大やけどで農家を継げず、勉学に励む
明治から昭和にかけて活躍した細菌学者・野口英世(1876-1928)は、福島県・会津地方の猪苗代町(当時は翁島村)で、貧しい農家の長男として生まれた。幼少期の大やけどで左手に障害を負いながらも、米国を拠点に欧州や南米、アフリカで黄熱病や梅毒の研究に打ち込み、3度にわたりノーベル医学賞の候補となった。
野口が生まれ育った家は、当時と同じ場所に残っている。そのわらぶき屋根を、雨や雪から守るように建つのが「野口英世記念館」だ。
入館すると、まず生家エリアを見学する。野口清作(後の英世)は1歳半の時、いろりに落ちてしまう。左手の指が癒着し、力仕事が必要な農民として生きていくことが難しく、母・シカに「学問で身を立てよ」と育てられた。
床柱には、医術開業試験のために上京する際に刻んだ「志を得ざれば再び此地を踏まず」という言葉が残っている。
恩師と出会い、医師を目指す
展示室は「英世の生涯」「素顔の英世」「博士の研究室」といったコーナーに分かれており、貴重な写真や資料、遺愛の品を公開している。
野口の人生を語るのに欠かせないのが、人との出会いに恵まれたことだ。
生活が苦しく、進学を諦めかけていた清作を支援したのは、猪苗代高等小学校(現在の中学校に相当)の教員・小林栄だった。在学中の学費を援助したのに加え、16歳の時に癒着した指を切り離す手術を受けることができたのも、小林が中心となって呼び掛けた募金活動のお陰である。
執刀したのは米国帰りの医師・渡部鼎(わたなべ・かなえ)。野口は指が動かせるようになったことに感動し、医学の道に進むことを決意。会津若松の会陽医院で渡部の書生となり、医学の基礎を学んだ。
上京の際にも小林に借金をしたが、前期試験に合格した後、放蕩(ほうとう)生活で資金を使い果たす。その時頼ったのが、渡部の友人で高山歯科医学院に勤める血脇守之助。寄宿舎に潜り込ませてもらい、後期試験に向けての学費も出させ、1897(明治30)年に若干20歳で医師免許を所得した。
その後も海外への渡航費用などを使い込み、たびたび小林や血脇を頼ったという。野口の実像は伝記で読むよりも少しだらしなく、恩師の助けなくして成功はなかっただろう。
野口英世記念館学芸員の森田鉄平さんは「偉業は一人では成し得ません。特に野口家は『清作が医者になったら、太陽が西から昇る』と村人に言われるほど貧しかった。野口英世は、母の愛情や恩師の援助に感謝し、恩返しを忘れなかった人物でもある。この記念館から、人とのつながりの大切さを感じてもらえたらうれしい」と語る。
野口は渡米後に帰郷した際、母と共に小林夫妻を連れて関西旅行に出掛けている。血脇が米国を訪れた時には約1カ月にわたって世話をした。
世界を股に掛け、ノーベル賞候補に
左手が不自由な野口は、医師ではなく研究者を目指し、1898(明治31)年に北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所の助手となった。この頃、英世に改名している。
1899年、米国ペンシルバニア大学の細菌学者サイモン・フレクスナーが来日し、野口が案内役を務めた。翌年末、北里の紹介状を頼りに米国へと渡り、フレクスナーの助手になることに成功する。
野口は、寝る間を惜しんで研究に没頭。蛇毒の研究で認められ、デンマークの血清研究所にも留学した。1904年、フレクスナーがニューヨークのロックフェラー医学研究所の初代所長に迎えられると、野口も移籍して梅毒スピロヘータの研究で成果を出す。その働きぶりから、同僚には「ヒューマンダイナモ(人間発電機)」と呼ばれたという。
1914(大正3)年にはロックフェラー医学研究所正員に昇進し、初めてノーベル医学賞の候補に入る。そんな絶頂期に、15年ぶりに日本の土を踏んだのだ。
自らの命を顧みず、アフリカで死す
そして、黄熱病との闘いが始まる。1918年、エクアドルで病原体を突き止めたとし、野口ワクチンを開発。一躍世界的な英雄となる。その後も、
野口は1927(昭和2)年、周囲の反対を押し切り、自らアフリカへ渡る。翌年春に自説の間違いを確認し、米国に帰って研究を継続しようとした矢先に黄熱病に感染。ガーナの首都・アクラの病院で、51歳で生涯を閉じる。
野口ワクチンが効果を発揮したのは、
私生活でも好奇心にあふれる
逆境に屈せず、海外で活躍した日本人研究者の先駆けとして、野口の生涯は今でも多くの人を魅了する。
彼の原動力の一端を、35歳の時に結婚したメリー・ダージスと過ごした部屋を再現する「素顔の英世」コーナーで見ることができる。壁には野口自筆の絵画や書が多数飾られており、粋な背広やブーツなどこだわりのライフスタイルを紹介。他にも釣りやチェスなど多彩な趣味の持ち主で、好奇心旺盛だったことがうかがえる。
野口英世記念館の展示は「2015年のリニューアル時に、小学校高学年生や海外からの来館者にも伝わりやすいように工夫した」(森田さん)というように、どのコーナーもデザイン性が高く、英訳付きの文章も理解しやすい。特に、野口英世のロボットが質問に答える「博士の研究室」は、子どもたちに大人気だ。
2024年度上半期には、千円札の肖像は野口の恩師の一人・北里柴三郎へと引き継がれる。依然として、世界はコロナ禍の中にあるが、感染症と戦った2人の偉人に思いをはせたい。
野口英世記念館
- 住所:福島県猪苗代町大字三ツ和字前田81
- 開館時間:4~10月=午前9時~午後5時30分、11~3月=午前9:00~午後4時30分 ※入館締め切りは閉館の30分前
- 休館日:12月29日~1月3日
- 入館料:大人800円、小中学生400円
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部
バナー写真:ロックフェラー医学研究所から寄贈された野口の銅像と生家