ノスタルジックな雰囲気漂う北九州市「門司港レトロ」:港町の歴史を物語る名建築を巡る
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九州の表玄関だった門司港
九州最北端に位置し、関門海峡に面する門司港。戦前は貿易港として栄え、神戸、横浜と並んで日本三大港に数えられた。明治から昭和初期の名建築が点在するノスタルジックな街並みは、昭和末から保存・整備が始まり、1995年に都市型観光拠点「門司港レトロ」としてオープン。夜景が美しいことでも知られ、コロナ禍前は年間200万人以上が訪れた人気スポットだ。
江戸時代、関門海峡の本州側・下関が北前船の寄港地としてにぎわっていたのに対し、門司側は塩田の広がる漁村だったという。渋沢栄一らによって門司築港会社が設立され、大規模な埋め立て工事が始まったのは1889(明治22)年から。
筑豊(福岡県中部)の石炭や米を積み出す特別輸出港の指定を受け、1891年には九州鉄道(現・JR鹿児島本線)が門司駅まで開通。九州鉄道の起点として本社も置かれ、陸海ともに九州の表玄関となったのだ。
大陸貿易で繁栄するが戦後に衰退、観光地化へ
中国大陸や朝鮮半島に近いため、日清戦争や日露戦争などを契機に商業が急発展。海運会社や商社、銀行などの支店が立ち並んだ。
1899(明治32)年の開港後、入港隻数では3年連続全国1位になるなど、神戸とトップ争いを続けていく。輸出入額も順調に伸び、明治後期から横浜、神戸、大阪に次ぐ第4位の貿易港に成長。第1次世界大戦後には青島航路が開かれ、1932(昭和7)年には満州・大連との間で定期便が就航した。
第2次世界大戦が近づくと、門司の繁栄にも陰りが見え始める。貿易は中国大陸に偏るようになり、戦況悪化とともに急速に衰えていく。1942(昭和17)年には、門司港から約5キロ南の大里町(だいりまち)付近に関門鉄道トンネルが開通。大里駅が門司駅に改称され、九州における陸路の玄関口となる。元の門司駅は門司港駅に変わり、鉄道路線における重要度は低下してしまう。
戦後は進駐軍に埠頭(ふとう)の一部を接収され、朝鮮戦争(1950~53)特需の恩恵にもあずかれなかった。石炭の輸出量も減少する中、近くにはコンテナ化に対応した新たな埠頭が完成し、貿易港としての役割は次第に失われていった。
1988(昭和63)年から、歴史的建造物を保存活用する「門司港レトロ」の整備事業を開始。跳ね橋のブルーウィングもじや、街を見下ろす和布刈(めかり)公園第二展望台なども新設する。その後も、九州鉄道記念館や海峡プラザ、レトロ展望室といった観光施設が増え、九州北部の人気スポットへと生まれ変わった。夜間はライトアップで、よりノスタルジックな雰囲気に包まれる。
トロッコ列車で関門橋方面へ、周辺観光も魅力的
週末や夏休み中は、九州鉄道記念館の前から関門橋が架かる和布刈地区まで、トロッコ列車「潮風号」が走っている。この「門司港レトロ観光線」は片道2.1キロ、所要時間約10分で駅は4つだけだが、それぞれに見どころがある。
「九州鉄道記念館」駅の次は「出光美術館」駅。門司港は石油元売り大手・出光興産の始まりの地で、出光美術館(門司)では創業者が収集した書画や陶磁器を中心に展示している。
その隣は、北九州市と姉妹都市を結ぶ米国バージニア州の港湾都市にちなむ「ノーフォーク広場」駅。巨大ないかりのオブジェ越しに、関門橋と行き交う船を間近に眺められる。この広場から終点の「関門海峡めかり」駅近くまで、海沿いには「めかり観潮遊歩道」が続く。関門橋の下をくぐり抜けてから和布刈公園でのんびりし、帰りは潮風号で一気に戻るのがおすすめだ。
和布刈公園の第二展望台は、関門橋の一番のビューポイント。その傍らにある、平家の終焉(しゅうえん)を描いた巨大壁画「源平壇ノ浦合戦絵巻」も見ものだ。
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部