平家終焉の地、関門海峡「壇ノ浦」:源氏による武士の世が幕を開けた古戦場跡
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潮流が速い海の難所・壇ノ浦
源平合戦最後の舞台として知られる「壇ノ浦」。本州と九州を結ぶ関門橋の本州側の橋脚下に、山口県下関市壇ノ浦町という地名が残る。関門海峡が一番狭まる「早鞆ノ瀬戸(はやとものせと)」の北岸に当たる。
「壇ノ浦古戦場跡」は、壇ノ浦町に隣接するみもすそ川町の「みもすそ川公園」にある。目印となるのは「八艘(そう)飛び」する源義経と、「碇潜(いかりかつぎ)」をした平知盛の像だ。その傍らには「安徳帝御入水之処」の石碑が立ち、二位尼(にいのあま、平時子)の辞世の歌が刻まれている。
関門海峡は潮の流れが1日に4回変化し、特に早鞆ノ瀬戸は流れが速く、海の難所として知られる。1185年の壇ノ浦の戦いまで源平合戦は6年にもおよび、平家は前年の一の谷の戦い以降、負けが続いていた。追い詰められた状態だったが、壇ノ浦では潮の流れを利用して優位に進めたという。源氏は猛攻に耐え、長期戦に持ち込む。すると逆潮に変わり、形勢は一気に逆転。敗色が濃厚になった平家一門は、次々と海に身を投じたのだ。
清盛の異母弟・教経は、敵の大将・義経を海の中へ道連れにしようとしたが、義経は2丈(約6メートル)も離れた味方の船に飛び移り、難を逃れる。鎌倉時代に書かれた『平家物語』では、飛び移ったのは一度だけだが、後に「次々と8隻も」と誇張されて「八艘飛び」の伝説が生まれた。
辞世によって後生に伝わる平家の最後
二位尼は平清盛の妻で、安徳天皇の祖母。まだ8歳の安徳天皇を抱き寄せて「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」と辞世の歌を詠んだ。町の名の由来となった「みもすそ川(御裳川)」は、伊勢神宮内宮(ないくう)の神域を流れる五十鈴川の別称。天皇家と伊勢平氏の血を引く孫に、「海の底にも都がある」と言い聞かせながら、一緒に入水(じゅすい)したのだ。
知盛の最後の言葉も有名である。母やおい、妹の建礼門院(安徳天皇の母)、多くの家来が海に身を投げるのを見届け、「見るべきほどのことをは見つ」と自害を覚悟した。今では“人生を全て味わい尽くした”という心境を表す格言となっている。知盛は遺体が浮かび上がり、辱めなどを受けないように、重い鎧(よろい)を2重に身に付けたと平家物語には記してある。こちらも時代を経て、能や歌舞伎の世界で、いかりを担いで沈む名場面へと変化した。
みもすそ川公園には、巨大な長州砲も並んでいる。幕末、この地には「壇ノ浦砲台」が築かれ、1863(文久3年)に始まった下関戦争(馬関戦争)の舞台となった。英・米・仏・蘭の四国連合艦隊から砲撃を受け、長州藩は屈服。西洋文明のすごさを目の当たりにし、攘夷(じょうい)派から開国派へとかじを取り、薩長同盟を中心とする明治維新へとつながっていく。武士の世の幕開けを告げた壇ノ浦は、その終幕にも大きく関わる場所なのだ。
壇ノ浦の戦いゆかりの地を巡る
壇ノ浦古戦場跡から国道9号線を西へ1キロ進むと、安徳天皇を祭る「赤間神社」(下関市阿弥陀寺町)がある。まるで竜宮城のような水天門は、二位尼の辞世の「海の底の都」を想起させる。境内の七盛塚は、平家一門を弔うもの。赤間神社の隣には、安徳天皇の墓「安徳天皇阿弥陀寺陵」があり、中国地方唯一の御陵となっている。
古戦場跡から東側に向かうと、国道9号線に「平家の一杯水」の石碑が立つ。そこから海辺に降りると小さな鳥居と社がある。何とか岸にたどり着いた平家の武者が、この場所で湧き水を見付けたという。必死にすすると、一口目はおいしい真水だったが、2口目は海水に変わっていたと伝わっている。
関門橋のビューポイントとして人気が高い和布刈公園の第2展望台には、巨大な壁画「源平壇ノ浦合戦絵巻(壇ノ浦合戦壁画)」がある。夜にはライトアップされるので、関門海峡の美しい夜景と共に眺めに行ってみてはどうか。
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部