福島・会津「喜多方ラーメン」:朝ラー文化が根付く“蔵のまち”で、御三家の味を堪能
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札幌・博多と並び、日本三大ラーメンに数えられるのが福島・会津地方の「喜多方ラーメン」である。
ラーメンブームが到来した1980年代の喜多方市は、人口わずか3万人台。そんな小さな町に、最盛期は120軒ものラーメン店がひしめき、大都市の味に肩を並べた。さらに、朝食にラーメンを食べる「朝ラー」という独自の文化が根付く。
平打ち縮れ麺の生みの親「源来軒」
「中国料理 源来軒」は、「元祖」の文字を掲げる喜多方ラーメン発祥の店。
おすすめを聞くと、「やっぱり普通の中華そばだね」と返ってきた。元祖にふさわしいシンプルな見た目で、あっさりとしながらも味わい深いしょうゆ味のスープが、コシのある中太の縮れ麺によく絡む。「喜多方ラーメンは、毎日食べても飽きない」という評判にたがわぬうまさだ。
創業者は、大正末期に中国から来日した藩欽星(ばん・きんせい)さん。長崎や横浜で働いた後、喜多方の北西にある加納鉱山で働く叔父を頼ってやって来たが、職を得られず、中華そばを屋台で売り始めたそうだ。故郷の味を思い出しながら、独学で研究を重ね、後に源来軒をオープンした。
藩さんは、水分をたっぷりと含ませてからじっくりと寝かせる「平打ち熟成多加水麺」を開発。レシピを教えることをいとわず、多くの弟子を育て、源来軒の麺を手本にした製麺所も誕生した。
しょうゆ味スープを完成させた「まこと食堂」
喜多方ラーメンは、この平打ち熟成多加水麺を使用するのが特徴だ。スープはしょうゆ味が一般的だが、塩味の人気も高く、みそ味やつけ麺を提供する店もある。源来軒と、しょうゆ味の代表格「まこと(満古登)食堂」、塩味の「坂内食堂」が、地元では「御三家」と呼ばれている。
まことと坂内のように、喜多方では「食堂」が付くラーメン店が多く、地元民にとっては毎日通うような身近な存在。「今日はしょうゆ、明日は塩」と1日おきに、まことと坂内へ通うような熱狂的ファンも少なくないとか。
まこと食堂は、下宿屋などを営んでいた初代店主・佐藤ウメさんが、戦後間もなく開業。スープの改良に熱心で、煮干しと豚骨からだしを取るしょうゆ味は「まこと発祥」といわれる。
スープの味は少し濃い目で、かなり深みを感じる。それでいて、毎日食べたくなるような、すっきりとした後味も併せ持つ。レジでは土産用のラーメンを販売しており、おなかはいっぱいなのに、ついつい手が伸びてしまった。
全国的な知名度を誇る、塩味の王様「坂内食堂」
喜多方のラーメン店で、全国区の知名度を誇るのが坂内食堂。麺が見えないほどにチャーシューを敷き詰めた「肉そば」が名物だ。
創業者の坂内新吾さんは老舗・上海食堂で修業し、1958(昭和33)年に独立。塩味のスープは豚骨ベースで、チャーシューを煮るのに使うしょうゆを隠し味として加えている。塩とだしのうまみがしっかりとありながら、スープは薄味のため、大量のチャーシュー、もちもちの麺と相性抜群だ。
「坂内」の名が知られるようになったのは、初代が相談役を務め、1988年に設立されたチェーン店「喜多方ラーメン坂内」(運営:麺食)の存在が大きい。坂内食堂の味にほれ込んだ創業者が、その味を受け継ぎ、現在は東京を中心に全国で60店舗以上を運営し、米国にも展開している。この店が喜多方ラーメンの名と味を首都圏に広めるのに一役買い、「喜多方ラーメン=坂内」のイメージも植え付けた。
坂内食堂とまこと食堂は、朝7時から営業している。
現店主の坂内章一さんは「仕込みや子どもの弁当作りで早朝から電気をつけていると、常連さんが『開いてるの?』『ラーメン作れる?』と入って来た」と語る。工場の夜勤明けや、朝早くから農作業をする人の食を支え、「朝ラー」文化は自然と喜多方の地に根付いたようだ。
醸造業とラーメン店を育む飯豊山の水
喜多方ラーメンが全国区に上り詰めたのは、喜多方の歴史や風土、地元民の気質によるところが大きい。
江戸時代、会津藩の北部に位置することから「北方(きたかた)」と呼ばれた。鶴ヶ城(若松城)のある会津若松が封建的な武家社会だったのに対し、当時から自由な気風の商業地であったという。1875(明治8)年に近隣5村が合併し、縁起の良い字を当てた「喜多方町」が誕生した。
酒やしょうゆ、みそづくりが盛んな地である。その醸造業を支えてきたのが、平成の名水百選に入る飯豊山の「栂峰渓流水(つがみねけいりゅうすい)」。良い水がうまい酒やしょうゆを醸し、うまい多加水麺とスープを生み出したのだ。
しょうゆ蔵が多いことも、恩恵が大きい。まことのスープは、地元しょうゆ店の協力によって誕生したという。どこのしょうゆを使うかで、スープやチャーシューに味の違いが出る上に、店専用の特注品も発注しやすい。そのおかげで、各店の個性が出しやすく、多くの店が共存できている。
“蔵のまち”とともに全国区へ
ラーメンに先駆け、喜多方では1970年代から「蔵のまち」ブームが起きた。
写真展の開催やテレビ番組で特集されたのがきっかけで、醸造業などの蔵が立ち並ぶ風景が話題を呼び、観光客が徐々に増えていった。しかし、街並み散策だけで帰られてしまうのは惜しい。そこで市の商工観光課が、1983年に観光ガイド誌とタイアップし、地元で評判のラーメンを売り出したのだ。
それを機にテレビ番組や雑誌が次々と取材に訪れ、観光客も爆発的に増加。さらに喜多方ラーメン坂内のチェーン展開も重なり、知名度は全国に広がっていく。
喜多方ラーメン・ファンの裾野を広げた存在として、土産物を忘れることはできない。その中で、絶大なる人気を誇るのが、黄色い箱でおなじみの「河京」だ。
元々はなめこの缶詰などを製造していたが、約30年前に地元店の協力の下、生麺とスープの素をパッケージした商品を開発。持ち前の営業力を生かし、今では会津のみならず、福島を代表する土産物へと成長させた。
喜多方ラーメンのブランドを守った老麺会
一大ブームの中で「老麺(ラーメン)会の果たした役割は大きい」と、坂内さんは言う。
「蔵のまち喜多方 老麺会」は1987年、ラーメン店40軒と製麺所5社で結成。加盟店を掲載したラーメンマップが大好評で、ラーメン店巡りが流行するきっかけとなった。マップは、現在も発行されている。
ラーメンブームで客が急増すると、地元の常連客からは「スープが薄い」「ぬるい」「麺が伸びている」と不満が漏れるようになった。老麺会では無理な営業をせず、早めに店じまいするなど、接客の質を落とさない方針を打ち出し、衛生面での改善なども求めた。そうした活動なくして、喜多方ラーメンのブランドを守り、人気を維持し続けるのは難しかっただろう。
「同業者の集まりで、ライバル心もあるため、こうした活動は他の町では難しいでしょう。喜多方は古くから商売の町で、他地域の人でもウエルカムな自由な雰囲気。だから老麺会は、今でも存続しているのだと思う」と坂内さんは語る。
その開放的な気質は、藩さんがレシピを広め、坂内の初代がチェーン店に協力し、河京が土産物に手を広げられたことなどからも見て取れる。喜多方ラーメンの歴史や人気の秘密を探る旅は、老舗の味を堪能しながら自由な気風に触れ、喜び多きものであった。
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部
取材協力=喜多方観光物産協会