日本の近代化を支えた坑道を巡る「足尾銅山観光」:光と影を持つ日光の産業遺産
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日光東照宮でも使われた足尾銅山の精銅
江戸時代には幕府の直轄地で、明治から大正にかけては国内トップの産出量を誇った足尾銅山。1973(昭和48)年に閉山となったが、その7年後にオープンしたのが坑道を利用した博物館「足尾銅山観光」だ。
国指定史跡の「通洞坑」内に、トロッコ電車に乗って進入。坑道内の駅で下車してから、鉱石採掘の様子を年代ごとに再現した展示を鑑賞し、日本の近代化を支えた鉱山の栄枯盛衰を学んでいく。
足尾銅山の採掘が始まったのは16世紀後半と考えられ、1610(慶長15)年に徳川幕府が直轄地とする。採掘した銅は、日光東照宮や江戸城の銅瓦などに使われ、長崎からオランダや中国への輸出品として貴重な財源にもなった。最盛期の17世紀後半には年間1500トンもの産出量があったが、18世紀中頃からは減退。幕府は鉱夫の職を確保するために、銭貨を鋳造発行する鋳銭座(ちゅうせんざ)を設置した。足尾銅山製の寛永通宝(一文銭)は、裏に「足」の字が刻まれていることから「足字銭」と呼ばれたという。
国内銅生産の4割を担った鉱都、公害事件も
幕末にかけて衰退の一途をたどったが、1877(明治10)年に政府から、渋沢栄一などの援助を受けた古河市兵衛が買収する。古河は欧米の採掘技術を導入し、新しい鉱脈を次々と発見。7年後には国内トップの銅山に返り咲く。1891(明治24)年には国内初の電車鉄道を敷設するなど、採掘量を順調に伸ばし、日本の銅生産の4割を担った。
最盛期の1916年(大正5)年には、年間の生産量が1万4000トンを超え、足尾町の人口は約3万8000人まで膨れ上がる。県内では宇都宮に次ぐ2番目で、「日本一の鉱都」と呼ばれたという。運営した古河鉱業は古河財閥を築き、現在の古河機械金属や古河電気工業、富士通などにつながるが、戦後の足尾銅山は採掘量が減少し続けて閉山を迎える。製錬部門のみはしばらく操業を続けたが、こちらも1988(昭和63)年に廃止となった。
日本の近代化を支えた足尾銅山だが、その名には暗い影が付きまとう。渡良瀬川流域で農作物などが被害を受け、1890年代から抗議活動が巻き起こった「足尾鉱毒事件」だ。日本初の公害事件と呼ばれ、抗議の先頭に立った代議士・田中正造が明治天皇に直訴した場面は、1980~90年代の小学校の教科書に取り上げられた。煙害による森林破壊もあって「足尾銅山=公害」のイメージが根強い。
足尾銅山観光までは、日光の社寺から車で30分ほど。坑道内を見学した後、古河足尾歴史館などを巡れば、その光と影がより強く感じられる。1957(昭和32)年からは緑化プロジェクトが進められるなど環境改善が進められ、今では渡良瀬川の水は澄み、足尾の山も豊かな自然を取り戻しつつある。
足尾銅山観光
- 住所:栃木県日光市足尾町通洞9-2
- 定休日:年中無休
- 営業時間:午前9時~午後5時(トロッコの最終便は午後4時15分発)
- 入坑券:大人830円、小・中学生410円
- アクセス:JR日光駅、東武日光駅から市営バスで約50分
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部