新1万円札の“顔”、渋沢栄一の故郷へ(3):煉瓦のまち・深谷「旧煉瓦製造施設」
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日本の近代化を支えた深谷の煉瓦
実業家・渋沢栄一(1840-1931)には、枕ことばのように「500以上の企業の設立・経営に関わった」と付け加えられる。だが、現代の起業家や投資家のイメージで捉えると、渋沢の人間像を正確につかむことはできないだろう。大蔵省を退官し、実業に転じたのは1873(明治6)年。日本最古の銀行・第一銀行(現・みずほ銀行)を筆頭に、立ち上げた事業の多くが“日本初”を冠しているように、資本主義社会の基盤を整えるために奔走した人物といえる。その結果が「500以上」であり、立ち上げた社会公共事業や、力を注いだ民間外交は600以上に及ぶのだ。
渋沢の故郷・血洗島のある埼玉県深谷市では、そんな経済活動の一端を知ることができる。JR「深谷」駅に降り立つと、駅舎は小ぶりの東京駅といった雰囲気で、周辺にも煉瓦調の建物が多い。市役所庁舎や渋沢栄一記念館を訪れても、外観には煉瓦や煉瓦風タイルがあしらわれている。
1888(明治21)年、深谷市上敷免(じょうしきめん)で日本初の機械式煉瓦工場が操業を開始した。運営した日本煉瓦製造の設立を主導したのは、もちろん渋沢である。深谷産の煉瓦は、東京駅や司法省(現・法務省旧本館)など、明治・大正期を代表する建築物に使用され、日本の近代化に大きく貢献。深谷は「煉瓦のまち」として、広く知れ渡った。
市は地域の歴史を伝え、郷土の偉人を顕彰するために、1995(平成7)年に「深谷市レンガのまちづくり条例」を制定。中心市街地の建築物が、煉瓦や煉瓦調タイルを使用した場合には補助金を交付する。2006(平成18)年に日本煉瓦製造は廃業となったが、工場跡地に残る「ホフマン輪窯6号窯」「旧事務所」などを「旧煉瓦製造施設」として保存・整備し、土日限定で一般公開している。
良質な粘土が採れる利根川流域の町
旧煉瓦製造施設は深谷駅から北へ約4キロ、上敷免の北部に位置する。敷地内に残る「旧事務所」「旧変電室」「ホフマン輪窯6号窯」、南西へ徒歩5分の場所に架かる「備前渠(びぜんきょ)鉄橋」は、1997(平成9)年に国の重要文化財に指定された。旧事務所の内部は煉瓦史料館になっており、精巧な模型や貴重な史料、パネル展示によって、日本での煉瓦の歴史や製造工程などを知ることができる。
機械式レンガ工場の設立は、「官庁集中計画」を推進した外務大臣・井上馨によって、渋沢らに持ち込まれた。井上は不平等条約の改正を目指し、諸外国と対等に交渉を進められるように、霞が関を中心に近代的な官庁街を築くことを構想。1886(明治19)年に自ら臨時建築局の総裁となり、ドイツの建築家や技師を招聘(しょうへい)して計画を進めた。そして、建築資材として必要になったのが、大量の煉瓦だった。
渋沢が大蔵省時代に設立を指揮した富岡製糸場など、幕末から明治初期の煉瓦建造物では、現場近くに窯を作り、瓦職人や大工が焼いていたという。1872(明治5)年から始まった銀座煉瓦街の建設用に、東京・小菅に煉瓦製造工場が造られたが、手作業が中心で大量生産は難しく、質にもむらが出た。そのため、大規模な機械式工場の建設が急務となり、井上は政府の財政が厳しいことから経済界を頼った。
ドイツの建築家・ベックマンらが、東京近郊で煉瓦用の粘土を調査した結果、選ばれたのが上敷免村であった。北には利根川支流の小山川、南には農業用水路・備前渠が流れており、利根川本流も程近い。たびたび氾濫を起こす利根川流域では、上質な粘土が採れ、古くから瓦づくりが盛んだった。
富岡製糸場の煉瓦づくりでも、上敷免の東隣にある明戸町の瓦職人が活躍した。それを知る渋沢は、故郷に工場を誘致することを当然狙っていたであろう。地元での用地交渉では、富岡製糸場で資材調達を切り盛りした韮塚直次郎らが奔走したという。
民の力で成し遂げた大事業
井上は大蔵省時代の渋沢の上司で、以後も深い関係を持ち続けた。かんしゃく持ちの井上が、渋沢の前では決して怒らないため、「雷おやじと避雷針」と呼ばれる名コンビだった。1901(明治34)年、組閣の命を受けた井上が、渋沢に蔵相就任を断られたことで、首相就任自体を諦めたという話は有名である。
そんな関係から、機械式煉瓦工場の建設は官民癒着と捉えられることもあるが、実際は渋沢が標榜した「官尊民卑の打破」を実現するための困難な事業であったという。当初、渋沢は一理事として参加。江戸川周辺で煉瓦製造に関わっていた千葉県の県議会議員・池田栄亮を理事長とし、工場候補地としても千葉が有力であったという。
井上は1887年に条約改正に失敗し、日本煉瓦製造の設立と同時期に外相を辞任。官庁集中計画も頓挫する中、翌年9月に当時最先端だった「ホフマン輪窯」の1号窯が完成。臨時建設局から22万個の発注を受け、なんとか操業を開始した後、渋沢が理事長に就く。上敷免工場は1889(明治21)年9月に竣工したが、その半年後に臨時建築局は廃止となり、大本の発注先を失ってしまうのだ。
それでも、日本の発展には大量の煉瓦が不可欠だと考えた渋沢は、政府に頼らず、民間の力だけで成し遂げようと突き進む。いとこの諸井恒平(後に会長、秩父セメント創業者)を支配人に据えて、私財を投じた。地元での原料調達でも苦労したが、渋沢は畑の下の粘土を提供した農家には、田んぼにして返す約束をしたという。利根川周辺では、粘土が堆積した土地で畑作をしている場合が多かったので、粘土を採集して土地を低くすれば、稲作に向くようになる。当時は畑よりも水田の方が重宝されたので、両者の利益が一致したのだ。
1891(明治24)年、碓氷トンネルの建設用に1250万個の煉瓦を受注。その頃から、経営は軌道に乗っていく。創業当初は利根川水運を利用して出荷したが、舟運は天候に左右されて不安定なため、1895(明治28)年に深谷駅から上敷免まで約4.2キロの専用鉄道を敷設。これは日本初の民間専用線となった。同年、日清戦争が終結したことで建設ラッシュが始まり、煉瓦の需要は急拡大。1907(明治40)年、ホフマン輪窯6号窯が完成して生産体制が整うと、諸井が専務取締役に就任し、その翌年に渋沢は会長を辞職した。深谷産の煉瓦は、東京駅や司法省のほか、日本銀行旧館や迎賓館、万世橋高架橋など、そうそうたる建造物に使用され、文字通り日本の近代化を支えたのであった。
1923年(大正12)の関東大震災を機に、建材の主流は煉瓦からコンクリートに変わっていき、煉瓦の需要は徐々に減退。1975(昭和50)年には専用線が廃止され、2006年に日本煉瓦製造の歴史は幕を閉じた。
旧煉瓦製造施設
- 住所:埼玉県深谷市上敷免28-10
- 開館日:土曜日・日曜日(年末年始を除く)
- 開館時間:午前9時~午後4時(最終入館は午後3時30分まで)
- 入館料:無料
- アクセス:深谷市コミュニティバス「くるリン」北部シャトル便で「せきね商店前」下車すぐ。深谷駅からタクシーで約10分
●関連情報
誠之堂・清風亭
深谷市には他にも、渋沢と煉瓦に関連する史跡がある。大寄公民館(深谷市起会)の敷地内に建つ、誠之堂(せいしどう)と清風亭だ。どちらも、東京都世田谷区瀬田にあった第一銀行の保養施設「清和園」から、1999(平成11)年に移築したものだ。誠之堂は国の重要文化財、清風亭は埼玉県の有形文化財に指定される。
誠之堂は渋沢の喜寿(77歳)を記念し、第一銀行の行員らが出資して1916(大正5)年に建築。この年、渋沢は第一銀行頭取を辞任しているため、いかに部下から親しまれていたかが伝わってくる。総煉瓦造りで、当然ながら上敷免の煉瓦が使用された。清風亭は1926(大正15)年、当時の頭取・佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して建てられたもの。こちらも装飾として煉瓦をふんだんに使っているが、建物は鉄筋コンクリート造り。2つを見比べると、煉瓦からコンクリートへの建材の変遷が感じられる。
深谷の旧中山道沿いにも、歴史を刻んだ煉瓦仕立ての建物が点在するので、ゆっくりと散策してみてほしい。
誠之堂・清風亭
- 住所:埼玉県深谷市起会84-1 大寄公民館内
- 開館時間:午前9時~午後4時(最終入館は午後3時30分まで)
- 入館料:無料
- 休館日:年末年始(12月29日-1月3日)
- アクセス:深谷市コミュニティバス「くるリン」北部シャトル便で「大寄公民館」下車すぐ。深谷駅からタクシーで約10分
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部