名将たちの魂が宿る上杉家の城下町・米沢

歴史

江戸時代には上杉家の城下町として栄えた山形県米沢市。9代藩主・鷹山は質素・倹約の徹底によりひっ迫した藩財政を立て直すとともに、新しい産業を興し、借金に依存しない藩政を目指した名君として知られる。新型コロナウイルス感染症の拡大によって傷ついた現代においても、改革と新しい産業と未来への希望が求められている。鷹山の残した名言「なせば成る なさねば成らぬ 何ごとも」を心に刻みつつ、米沢の歴史を写真でお楽しみください。

歴史ロマンが漂う米沢の町

英国の旅行作家イザベラ・バード(1831-1904)が1878(明治11)年に訪れ、著書『日本奥地紀行』の中で「アジアのアルカディア(理想郷)」と称した山形県南部の置賜(おきたま)地方。その中心都市・米沢は、西吾妻山(2035メートル)を主峰とする吾妻山系の北側に広がる盆地にある。最上川と支流が走り、豊かな自然が育むブランド和牛・米沢牛や館山りんごなどの特産品で知られる土地だ。

置賜地方には平安時代末期から地頭が置かれたが、米沢が城下町として発展し始めたのは室町時代末期。南北朝時代の1380年に伊達氏が置賜を占拠し、伊達晴宗(だて・はるむね)が1548(天文17)年に居城を米沢城に移してからのこと。伊達家の中でもとりわけ知名度の高い独眼竜・政宗(1567-1636)は、晴宗の孫にあたり、米沢城内で生まれている。

そして、米沢が歴史ファンをひきつけてやまないのは、戦国時代の名将・上杉謙信(1530-1578)を祖とする上杉家が江戸時代を通じて治めた町であるためだ。謙信が「越後の虎」の異名を持つために「上杉家=新潟」と思い込んでいる人もいるが、跡を継いだ景勝(かげかつ、1556-1623)から13代にわたって米沢藩を治めた。

上杉神社には県内外から多くの参拝客が訪れる 写真提供:米沢観光コンベンション協会
上杉神社には県内外から多くの参拝客が訪れる 写真提供:米沢観光コンベンション協会

上杉神社境内の上杉謙信像 写真提供:山形県
上杉神社境内の上杉謙信像 写真提供:山形県

軍神・上杉謙信を祀る上杉神社

景勝は織田軍との争いで一時は窮地に追い込まれたが、信長が本能寺の変で死んだ後は、豊臣秀吉に味方して復活を遂げる。小田原征伐や朝鮮出兵に参加し、越後・佐渡などの91万石から会津120万石へと国替えとなった。その際、重臣の直江兼続(なおえ・かねつぐ、1559-1620)が米沢を拝領し、城下町の整備を進めた。しかし、関ヶ原の合戦(1600年)において豊臣方に加勢したことで、勝者である徳川家によって上杉本家が米沢30万石に減封される。それから明治維新までの約270年間、米沢は上杉家の城下町となったのだ。

米沢城が「松岬(まつがさき)城」と呼ばれたことにちなんで、城址は「松が岬公園」として整備されている。廃藩置県の2年後の1873(明治6)年に城内の建物の取り壊しが完了し、翌年から一般開放が始まり、1876(明治9)年には本丸跡に謙信と9代藩主・鷹山(ようざん)を祭神とする「上杉神社」が創建された。上杉神社は1902(明治35)に、国家に貢献した人物を祀(まつ)る別格官幣社(かんぺいしゃ)の指定を受けたため、謙信のみを祭神とする神社に変わっている。

上杉謙信を祭神とする上杉神社 写真提供:山形県観光物産協会
謙信を祭神とする上杉神社の本殿 写真提供:山形県観光物産協会

松が岬公園は、米沢城の面影を残す堀に架かる橋から、本丸跡にある上杉神社に向かう。橋を渡ると参道脇に「伊達政宗公生誕の地碑」があり、その手前を右手に入ると「上杉謙信公之像」がどっしりと構えている。

現在の本殿は1923年に再建したもので、米沢出身の伊藤忠太(1867-1954)が設計を担当。明治神宮の設営を指揮し、築地本願寺なども手掛けた名建築家である。その北側には、上杉家の宝物殿「稽照殿(けいしょうでん)」がある。謙信、景勝、鷹山の遺品の数々はもちろん、「愛」の一文字をあしらったかぶとの前立てで知られる兼続の甲冑(かっちゅう)は必見だ。

豊かな自然に包まれた境内は多くの市民が集う憩いの場となっており、初詣やお宮参りでにぎわい、結婚式が執り行われることもある。四季折々に美しい表情を見せ、春には約200本もの桜が咲き乱れる。

上杉神社の宝物館である稽照殿は、1923年に開館 写真提供:山形県観光物産協会
上杉神社の宝物館である稽照殿は、1923年に開館 写真提供:山形県観光物産協会

松岬神社で政治家の鑑・上杉鷹山をしのぶ

上杉神社から遷(うつ)された鷹山を祀るのが「松岬神社」で、松が岬公園の東に隣接する。鷹山時代の重臣3人と景勝、兼続も合祀(ごうし)する神社だ。

鷹山が藩政を継いだ江戸時代後半、米沢は全国で最も貧窮した藩であった。鷹山は「質実剛健」「質素倹約」を柱とし、大倹約令を発するとともに、藩校「興譲館(こうじょうかん)」を再興して教育に力を入れ、養蚕と織物業を奨励して米沢織を生み出すなど産業も発展させた。その結果、90万人以上が飢え死にや病死をしたという天明の飢饉(ききん)(1782-87)においても、米沢藩では被害はほとんどなかったという。

「為(な)せば成る 為さねば成らぬ 何事も」という格言は、日本人なら誰もが聞いたことがあるだろう。これは鷹山の言葉で、「成らぬは人の 為さぬなりけり」と続く。「どんなことでも強い意志を持ってやり抜けば必ず成就する」という、改革に対する固い決意が感じられる。

鷹山の政治手腕は、明治期の思想家・内村鑑三が英語で著した『代表的日本人』(1894年刊)で海外にも紹介された。国内外の政治家に鷹山ファンは多く、米国大統領だったジョン・F・ケネディが鷹山を称賛していたとも伝わっている。

米沢藩中興の祖・上杉鷹山 写真提供:山形県観光物産協会
米沢藩中興の祖・上杉鷹山 写真提供:山形県観光物産協会

名庭園を眺めて「かてもの」が味わえる上杉伯爵邸

東京の浜離宮に倣って造られた美しい庭園 写真提供:上杉伯爵邸
東京の浜離宮に倣って造られた美しい庭園 写真提供:上杉伯爵邸

松が岬公園の南、米沢城二の丸跡にあるのが「上杉伯爵邸」だ。最後の米沢藩主で、明治維新後には伯爵となった13代藩主・茂憲(もちのり、1844-1919)の旧邸宅を利用した食事処である。1896年に建てられ、その後火災で焼失したが、1925年に再建。銅板ぶきの屋根や総ケヤキ造りの玄関など、風格のある造りは一見の価値がある。

上杉伯爵邸では、米沢牛といった豪華な名産品と、「かてもの」を受け継いだという米沢の郷土料理が味わえる。かてものとは、凶作の時に主食を節約するための代用食のこと。鷹山は飢饉に備えて米を蓄えるとともに、食の手引書『かてもの』を編さんして藩内に配布した。山野に生える草木の食べ方や調理の仕方、栽培や貯蔵方法などが解説され、天明の飢饉の際には大いに役立ったという。米沢の郷土料理には、山菜や野草、鯉(こい)など『かてもの』から受け継がれた知恵と工夫が詰まっているのだ。

ぜいたくな米沢牛と節約の「かてもの」を組み合わせたコース 写真提供:上杉伯爵邸
ぜいたくな米沢牛と節約の「かてもの」を組み合わせたコース 写真提供:上杉伯爵邸

【DATA】

  • 住所: 山形県米沢市丸の内1-3-60
  • アクセス:JR米沢駅から車で10分
  • TEL:0238-21-5121
  • 営業時間:午前11時~午後8時(14時30分以降予約制)
  • 定休日:第2・4水曜(12~3月は水曜)
  • 料金:見学無料 

●周辺情報

上杉家御廟所

松が岬公園の西北に位置する御廟町には、「米沢藩主 上杉家廟所」があり、かつては景勝以後の藩主の墓所が置かれ、11代藩主・斉定(なりさだ)まで並んでいた。米沢城本丸内に祀られていた謙信の遺骨も、廃城に伴って1876年にこの廟所に遷座。謙信の墓所を中心とする現在の景観となり、1984年に国の史跡に指定されている。

写真提供:山形県観光物産協会
写真提供:山形県観光物産協会

※新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、東北6県と新潟県は大型連休中の県境を越える移動や他地域との往来自粛を求めている感染者数が比較的低水準で推移している東北地方に他地域からウイルスを持ち込むことのないよう、本記事は感染症流行が落ち着いてから観光するための予習用としてお役立てください。

取材・文=シュープレス
(バナー写真=松が岬公園の入り口に架かる橋。謙信の軍旗として知られる「毘の一字旗」と「懸かり乱れ龍」が翻る 写真提供:山形県観光物産協会)

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