灘の酒【歴史・風土編】:日本酒生産量トップを独走する兵庫が誇る酒どころ
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清酒の生産量、販売量ともに断トツの日本一を誇る兵庫県。その大半を造り出すのが、神戸市東部の灘区から西宮市の甲子園球場辺りまでの海岸沿いに並ぶ「灘五郷」だ。
灘五郷は、西から西郷、御影郷、魚崎郷(以上、神戸市)、西宮郷、今津郷(以上、西宮市)と呼ばれる5つの地域の総称。日本人なら誰もが知る「白鶴」「大関」「日本盛」「菊正宗」「剣菱」「沢の鶴」「白鹿」「白鷹」といった清酒ブランドの本拠地が点在。京都市伏見区に本社がある酒造メーカー・宝酒造も、清酒「松竹梅」の蔵を魚崎郷に置く。
江戸っ子が飲む酒の約8割を下らせた灘五郷
「灘は、日本酒発祥の地といわれる奈良や伏見、伊丹(兵庫県)ほど、古くから酒造りが盛んだったわけではありません。江戸時代になってから繁栄した銘醸地なのです」
そう語るのは、御影郷にある菊正宗酒造記念館の後藤守館長。1659年に創業した菊正宗酒造は灘五郷の老舗酒蔵の一つで、料理に合う辛口の酒で抜群の知名度を持つ。創業一族の嘉納(かのう)家は江戸時代初期まで材木商で、冬になると自家用と取引先の接待用に日本酒を造っていたという。
「人口が急増する江戸では、酒の需要も一気に高まります。それまで酒どころとして知られた伏見や伊丹、池田(大阪府)は内陸のため、港までの陸路にも労力やコストがかかりました。そこに商機を見いだした嘉納治郎右衛門は、沿岸部の灘で本格的に酒造りを開始したのです」(後藤館長)
灘五郷の酒づくりが本格化したのは、寛永年間(1624-1644)に伊丹の酒造家が、海運に利点を持つ西宮に移住したのがきっかけとされる。それに倣って、灘へ蔵を移転したり、酒造業に進出したりする者がどんどん増えた。菊正宗創業者もその一人である。
町人文化が華やかだった元禄時代(1688-1704)頃から、江戸の酒消費量は急激に伸びる。日本最大の酒の消費地へ、上方(関西)の港から大量の樽酒(たるざけ)が船で下って行った。洗練された「下り酒」は江戸でもてはやされ、関東仕込みの「地廻り酒」は「下らない酒」として低い評価を受けた。特に灘の酒の人気はすさまじく、江戸時代後期には江戸市中で飲まれる酒の約8割は占めたという。
材木商だった嘉納家は海運のノウハウがあり、樽作りもお手の物だったろう。味にも定評があり、大量の酒を江戸へと下らせた。灘が繁栄していく中、嘉納家でも分家が生まれていく。本家は「本嘉納」と呼ばれ、分家の「白嘉納(はくかのう)」は現在、清酒売り上げ日本一を誇る「白鶴酒造」を1743年に創業した。柔道の創始者・嘉納治五郎も本嘉納の血縁「浜東嘉納」出身で、廻船(かいせん)業を営んでいた裕福な家庭で育っている。
関連記事>灘の酒【樽酒編】:江戸っ子を魅了した「下り酒」の味と伝統を守る
うまい酒を生み出す条件がそろう
灘の酒蔵が急成長し、今も繁栄を続けるのは、海運を含めて大きな理由が4つあるという。
- 海…大量の樽酒を、江戸を中心に全国へと下らせた
- 風…冬に吹く「六甲おろし」が蒸米を冷ます
- 米…大量の米を調達できる港があり、大正時代末には山田錦が誕生
- 水…ミネラルを豊富に含む六甲山系の水が酒造りに適していた
冬の間、背後の山から「六甲おろし」が海へと吹き抜ける。灘の酒蔵の建物は、北から風が入る構造にして蒸米を短時間で冷ませたため、生産量が増やせた。
港が近いことは、大量の米を調達するのにも有利に働いた。六甲山系からの急流で回る水車を利用したことで、精米量が増え、生産量も飛躍的に伸ばしていく。大正時代からは酒造好適米の「山田穂」が兵庫県内で広く栽培され、それを改良した「山田錦」が1923(大正12)年に誕生。現在も山田錦は酒米の最高峰に君臨し、その約8割は県内で生産されている。
灘で活躍した丹波杜氏(兵庫県東部)は、南部(岩手県)、越後(新潟)と並んで日本三大杜氏に数えられる。その製法は、六甲山系のミネラル豊富な硬水に適していたという。1840年には、日本酒造りに最適な「宮水」が発見された。
灘の酒の評価を高めた宮水
宮水は、灘の酒の名声を不動のものにしたが、その発見までのエピソードが面白い。
見付けたのは、櫻正宗(さくらまさむね、神戸市東灘区、1717年創業)の6代目当主・山邑(やまむら)太左衛門。江戸時代末期、櫻正宗は魚崎郷と西宮郷の2カ所に蔵を構えていた。材料や製法は全く同じだったが、毎年なぜか西宮の蔵の方が優れた酒になったという。杜氏と蔵人も交換してみたが、結果は同じ。試行錯誤の中で、とうとう仕込み水まで同じにしてみることにした。
西宮の井戸水を牛の背に乗せ、7キロ以上離れた魚崎の蔵まで行列になって運んだ。その様子を見て、「無駄な労力だ」と笑う者もいたらしい。しかし、2つの蔵でできた酒が両方良い出来となったため、西宮の水、略して「宮水」が優れていると判明したのだ。
当時の日本酒の多くは冬に仕込み、夏を越すと味が落ちるものだった。その大きな要因だったのが酒を変色させ、風味を悪くする鉄分。宮水はミネラル成分が豊富なのに、鉄分はほとんど含まれていない。そのため、仕込んだ酒は夏を越しても味が落ちず、それどころか秋を迎えると趣が加わって一段とうまくなる「秋晴れ」をすると消費者をとりこにした。
その後、灘五郷の酒蔵はこぞって宮水が湧く土地に井戸を掘った。現在も西宮の500メートル四方の区画に、清酒ブランドの井戸が密集している。
伝統を守りながらも、伝統に縛られない
明治期に入ると、製造工程に蒸気機関を利用するなどして、大量生産化をすすめた。今では当たり前になった瓶詰めの日本酒をいち早く販売したのも灘だった。江戸時代にあった優位性を失ってからも、製法や経営において工夫や改良を重ね、繁栄は続いている。
「現在の菊正宗、白鶴さんなども、大量生産する経済酒の印象が強くなっていると思います。でも、灘の酒蔵は、昔ながらの製法や伝統も大切にしながら、新しい挑戦を続けているから、今も繁栄しているのではないでしょうか。菊正宗は経済酒以外では、乳酸を添加する速醸酛(そくじょうもと)ではなく、生酛(きもと)造りにこだわっています。倍以上の時間と手間が掛かりますが、そうした努力と経験があるからこそ、安くてうまい酒も造れるのです」(後藤館長)
ピンクの菊が描かれた家庭向けのパック酒「キクマサピン」、白鶴の「まる」、大関の「ワンカップ大関」などは、いずれも手軽な値段と味の良さを兼ね備えてロングセラーとなっている。商売を見越して繁栄した銘醸地だけに、伝統を守りながらも、それに縛られない。気候風土と地の利に恵まれたことに加え、今でいうベンチャー精神を持った嘉納家や山邑家などの機転やチャレンジがあったからこそ、今日まで続く繁栄を築き上げたのだ。
ちなみに、灘といえば、日本屈指の名門「灘高」を思い浮かべる人も多いだろう。この学校は、本嘉納家と白嘉納家、山邑家からの寄付によって1927年に創立。当時、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長も務めていた嘉納治五郎が、顧問として教育方針の制定や教師の手配などをしたという。ここにも人材を大切にする、灘五郷の気風が感じられる。
菊正宗酒造記念館
- 住所:兵庫県神戸市東灘区魚崎西町1-9-1
- 定休日:年末年始(12月30日~1月4日)
- 見学時間:午前9時30分~午後4時30分 ※団体は要予約
- 入館料:無料
- アクセス:阪神電鉄「魚崎」駅から徒歩10分。神戸新交通・六甲ライナー「南魚崎」駅から徒歩2分
櫻正宗 櫻宴
- 住所:神戸市東灘区魚崎南町4-3-18
- 休館日:毎週火曜日
- 営業時間:「櫻蔵」・カフェ=午前10時~午後7時 酒蔵ダイニング「櫻宴」=午前11時30分~午後3時、午後5時~10時 呑処「三杯屋」午後5時~10時 ※ラストオーダーは1時間前まで
- アクセス:阪神電鉄「魚崎」駅から徒歩5分。神戸新交通・六甲ライナー「魚崎」駅から徒歩5分
取材協力=神戸観光局
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部