世界遺産「富岡製糸場」の歴史:大規模洋式工場に宿る和の文化
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一見すると西洋式れんが造りの建物は、瓦ぶきの屋根で、れんがの目地にはモルタルではなく、漆喰(しっくい)を使っている。フランス人が引いた図面を基に、職人や大工が、日本にある材料と技術で工夫して建造したものだ。
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生糸の品質向上を目指した官営工場
江戸時代末期、鎖国を解いたばかりの日本の主力輸出品は生糸だった。需要は急速に伸びたのだが、その分、粗悪品も多く、輸出先の国からは次々とクレームが寄せられた。外貨獲得を至上命題としていた明治新政府は、国策として生糸の品質と生産性向上に取り組むこととし、1870(明治3)年2月、洋式の繰糸機械を備えた官営模範工場設立を決定した。
計画を取り仕切ったのが、当時、大蔵官僚だった渋沢栄一。渋沢は、現在の埼玉県深谷市で養蚕業も営む豪農の家の生まれで、養蚕や生糸に関する知識と、欧州への渡航経験があることを買われて大役を任されたのだ。
横浜の商社で生糸検査人をしていたフランス人のフランソワ・ポール・ブリュナを指導者として雇い入れ、渋沢のいとこで民部省の役人だった尾高惇忠(じゅんちゅう)がブリュナと共に建設予定地の選定に当たった。尾高は、後に富岡製糸場初代場長を務めることになる。
渋沢は、10代半ばから家業を手伝い、染料になる藍玉の買い付けのため、地元の埼玉から、群馬、長野辺りまで何度も出向いたことがあった。その旅には尾高も同伴することがあったため、工場建設の調査地にはある程度の土地勘があり、選定はスムーズに進んだと考えられる。富岡が選ばれたのは、養蚕が盛んな地域であったことに加え、高崎炭田が近く、工場の動力源を確保しやすいなどの条件が整ったためだ。
深谷の三偉人が短期間で完成させた
工場を設計したフランス人のエドモン・オーギュス・バスティアンは、直前まで横須賀製鉄所の建設に携わっていた。製鉄所で使った「木骨れんが造り」工法を応用することで、わずか50日ほどで製糸場全容の図面を完成させた。
難題だったのは建材の調達だ。ガラス窓やドアのちょうつがいなどはフランスから輸入したが、大量に使うれんがや目地は富岡近くで調達するしかなかった。
尾高が資材調達を一任したのが、瓦職人の韮塚直次郎。かつて尾高の実家で働いていた職人の息子で、子どもの頃から見知った仲だった。韮塚は、深谷や富岡周辺の瓦職人らを取りまとめ、ブリュナやバスティアンの指導を受けながら、試行錯誤を重ねてれんがを焼き上げた。
1871(明治4)年3月に着工、主要施設は72年7月完成。生糸の原材料を保管する全長100メートルの置繭所2棟に、繰糸所には300釜のフランス製の繰糸器が並んだ。当時としては、世界最大規模の工場である。渋沢を中心に、深谷出身の3人が政府の計画決定から2年半足らず、着工から1年4カ月という驚異的に短い工期で偉業を成し遂げたのだ。
れんが造りには後日談がある。1880年代後半、明治政府は日比谷周辺を官庁街にするなどの都市整備に着手し、良質なれんがが大量に必要となった。これに対応するため、渋沢は深谷に「日本煉瓦(れんが)製造会社」を設立、地元住民への説明に奔走したのは韮塚だった。
深谷のれんがは司法省(現・法務省旧本館)や東京駅、赤坂離宮(現・赤坂迎賓館)などに使われ、東京の街の近代化に貢献。富岡製糸場のれんが製造で苦労した2人が、故郷に新たな産業をもたらし、深谷は「れんがのまち」として発展した。
第1号の工女となったのは尾高の娘
建物は完成したものの、肝心な働き手が集まらず、操業開始は1872(明治5)年10月にずれ込んだ。
長らく鎖国していたため、日本人にとって外国人は恐ろしい存在で、赤ワインを飲むブリュナたちを見て「西洋人に生き血を吸われる」などという根も葉もないうわさまで広まった。窮地を救ったのは、尾高惇忠の娘・勇(ゆう)だった。父の意向をくみ、志願して第1号の工女となることで、うわさを完全に否定。場長の娘がいるなら安心だと、志願者が一気に増えたという。
『女工哀史』『ああ、野麦峠』など大正期の製糸場を舞台としたルポルタージュや小説には、過酷な労働で苦しむ工女の姿が描かれている。一方、官営模範工場として設立された富岡製糸場は、西洋の最新技術を教え、やがては各地の製糸場でリーダーとなるべき人材を育てる教育施設的役割を担っていた。士族や地方の名家出身の子女が多く、中には華族の娘もいたという。地元の人は、製糸場で働く工女たちを「糸姫」とも呼んだ。
日曜日は工場の稼働を止める週休制の勤務態勢を日本で初めて導入。夜間操業は禁止し、研修環境も整っていた。また、敷地内に無料の診療所を設置するなど福利厚生も手厚く、当時としては時代の先端を行っていた。操業開始から間もない時期に工女となった女性の回想録『富岡日誌』には、日本の近代化のために西洋技術を学ぶ先駆者としての意気込みや、フランス人指導者との交流を楽しむ様子がいきいきと描かれている。官営・富岡製糸場は「哀史」とは無縁で、むしろ若い女性にとって憧れの職場だったのだ。
民間企業が保存し、世界遺産へ
工場の設計から携わったブリュナらは、操業4年目の1876(明治9)年に富岡を去り、官営工場は日本人の手だけで運営されるようになった。品質最優先のために、利益が出ない年もあったが、日本産生糸の世界的評価を高めることに成功。富岡を手本とした機械式製糸工場が日本各地に誕生し、富岡で技術を学び、故郷に戻った工女たちが指導にあたった。
1893(明治26)年、富岡製糸場は「官営」としての役割を終え、三井家に払い下げられた。その後、1902年に原合名会社が所有者になり、1939(昭和14)年には当時、日本最大の紡績会社だった現在の片倉工業の傘下に入った。時代に合わせて、最新の機器を導入しながら、100年以上にわたって製糸工場として稼働し、1987(昭和62)年、ついに操業を停止した。
片倉工業は、2005(平成17)年に富岡市に寄贈するまで、「日本近代化の象徴」として、「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げ、膨大な維持管理費をかけて富岡製糸場を大切に保存し続けた。2014年6月には、「富岡製糸場と絹産業遺産群」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
富岡製糸場
- 住所:群馬県富岡市富岡1-1
- 開場時間:午前9時~午後5時(最終入場は午後4時30分)
- 休場日:12月29日~31日
- 見学料:大人1000円、高校・大学生250円、小・中学生150円
- ガイドツアー:大人200円、中学生以下100円 ※予約不要
- 音声ガイド貸し出し:200円
撮影協力=富岡市・富岡製糸場
取材・写真・文=ニッポンドットコム編集部
(バナー写真:富岡製糸場のシンボル・東置繭所)