長崎 五島列島:潜伏キリシタンの歴史をたどる旅

文化 歴史

2018年5月4日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録を勧告した。その構成資産である集落跡が残る五島列島を、島写真家・黒岩正和が旅する。

明治維新直前の1865年3月17日、公開が始まったばかりの長崎・大浦天主堂。祈りをささげるフランス人のベルナール・プチジャン神父に、杉本ゆりをはじめとする浦上の潜伏キリシタン15人が歩み寄り、自らの信仰を告白した。

イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルによって、日本にキリスト教が伝わったのは1549年。九州地方を中心に急速に広まり、長崎港を開いた大村純忠などのキリシタン大名も誕生した。しかし、豊臣秀吉が1587年と1596年に禁教令を布告。江戸幕府は1612年に直轄地で禁教令を発布すると、1613年に全国へ拡大し、1614年には大半の宣教師を海外に追放した。17世紀中頃には鎖国体制が整ったことで、キリスト教徒に対する厳しい弾圧も250年以上続くことになる。

そんな状況下の日本で、潜伏しながら信仰が受け継がれていたという奇跡に、神父は大いに感動したという。そして、この「信徒発見」は世界中のカトリック関係者に伝わっていった。

若松島の里ノ浦にあるキリシタン洞窟は、潜伏キリシタンのつらい歴史を物語る

旅の始まりは長崎港から

それから150年以上が過ぎた2018年、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺跡」がユネスコの世界文化遺産に登録されようとしている。長崎県の五島列島には、その構成遺産が点在する。五島行きの船は複数の港から出ているが、潜伏キリシタン遺跡をたどる旅は、やはり長崎港からスタートしたい。

大浦天主堂の正式名は「日本二十六聖殉教者堂」という。秀吉の命令によって1597年に処刑された26人のキリシタンにささげられた教会である。彼らは日本最初の殉教者としてヨーロッパで崇敬され続け、1862年に聖人に列せられた。そして1864年末、大浦天主堂はその名を冠し、殉教地である長崎市西坂に向かって建てられたのだ。

教会正面中央にある八角形の尖塔(せんとう)が美しく、教会内には厳かで神秘的な光がステンドグラスを通して降り注ぐ。創建当時、「フランス寺見物」という名目でこの教会を訪れた潜伏キリシタンたちは、どんな思いでステンドグラスを見上げたのだろうか—。

国宝にも指定されている大浦天主堂

潜伏キリシタンが移り住んだ島々へ

長崎港から五島列島へと向かうには、フェリーとジェットフォイルという選択肢がある。急ぐ旅でなければ、甲板に上がることができるフェリーをおすすめする。朝の便は午前8時5分に、汽笛を上げて福江島へと向かう。

五島列島は、江戸時代から多くの潜伏キリシタンが移り住んだ場所だ。1865年の「信徒発見」は宗教史上の奇跡ではあるが、禁教令はそのまま明治政府に引き継がれ、廃止されたのは1873(明治6)年。その間、逆に潜伏キリシタンが信仰を自ら告白する機運が高まり、表明した者たちは「浦上四番崩れ」を代表とする数々の弾圧を受けた。そして五島でも、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧事件が起きている。

船は定刻通りの11時15分に福江港に到着した。五島列島最大の福江島には、五島自動車のバスが走っているが本数は少なめ。自分のペースで島を巡りたければ、レンタカーなどを借りた方が良い。私はレンタルバイクを借りて、教会巡りへと出発した。まずは福江港の北方向にある、奥浦地区の堂崎天主堂に到着。禁教令廃止以降の五島列島で初めて聖堂が造られた場所で、現在の建物も赤レンガのゴシック様式がとても美しい。

初代教会は1880年に創建され、現在の堂崎天主堂は1908年に建て替えられたもの

次の目的地は島最西端の玉之浦地区にある、日本で最初にルルドが作られたことで知られる井持浦教会。ルルドとはフランス南西部にある町の名前。1858年に小さな洞窟内で少女の前に聖母マリアが出現し、そこにあった岩から病を治癒する泉が湧いたという。1891年、バチカンでもルルドの模型が造られたことが世界中に伝わった。それに倣って、井持浦教会でもマリア像を飾った洞窟を1899年に築いた。

井持浦教会のルルド

夕刻に三井楽半島の北西部に向かい、渕ノ元カトリック墓碑群で東シナ海に沈む太陽を眺めた。厳しい弾圧の中、強く生き延びたキリシタンたちの信仰心を象徴するような荘厳な空気をまとった場所だった。

夕日が墓碑群のシルエットを美しく浮かび上がらせる

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