ニッポンの三大祭り

【日本三大盆踊り】秋田「西馬音内盆踊り」・大分「姫島の盆踊り」・岐阜「郡上おどり」:先祖の魂と陽気に楽しむ日本独自の風習

イベント 文化 地域

日本全国に数ある祭りの中から、ジャンル別の御三家を取り上げるシリーズ企画。今回は津々浦々で独自に発展した、夏の風物詩「盆踊り」を紹介する。

古来の先祖崇拝が仏教行事と習合

梅雨が明けるとあちこちの公園や広場、寺社の境内で開催される「盆踊り」。提灯(ちょうちん)で飾り付けた会場には、にぎやかな音曲が流れ、綿あめにかき氷といった食べ物や、金魚すくい、射的などの屋台が並び、誰もが心弾ませる。

盆踊りは地域住民の交流の場でもある
盆踊りは地域住民の交流の場でもある

盆踊りは日本独自の行事で、複雑な歴史、宗教観が組み合わさってきた。古代に中国から月の動きをもとにした太陰暦や、太陽の動きをもとにした二十四節気が伝わると、旧正月や立春といった年や季節の変わり目を重要視するようになっていく。そして正月と7月の年2回、先祖の魂がこの世に戻ると考えた。7月については、仏教の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」という行事が習合し、「お盆」が生まれたのだ。

盂蘭盆会は、インドのサンスクリット語で“逆さづりにされたような苦痛”を表す「ウランバナ」に中国で漢字が当てられたもの。飢えて苦しむ魂を救うため、旧暦7月15日の「解夏(げげ)」に飲み物や食べ物で盛大に供養した。どちらかというと、現在も寺院が営む「施餓鬼(せがき)」に近いものだが、この法会に、先祖の魂が家に戻ってくるという日本独自の思想が重ねられたのだ。

606年7月15日に、推古天皇が斎会(さいえ)の供養式を行った記録がある。当時からお盆の時期に先祖の魂を迎え、一緒に過ごした後、お帰りいただくために念仏を唱えていたようだ。

鎌倉時代に浄土宗の一派「時宗」を開いた僧・一遍(いっぺん)(1239-1289)は、念仏を唱えながら激しく踊る「踊り念仏」を広めた。また同時期から室町時代にかけて、「風流(ふりゅう)」と呼ばれる、人目を引くために華美で趣向を凝らした衣装やつくりもの、囃子などが、民衆の踊りの中に取り入れられる。宗教儀式の踊り念仏は、風流の影響を受け、「念仏踊り」と呼ばれる民俗芸能になった。それが盆踊りの原型となり、先祖の魂を迎えると、楽しく踊って過ごし、喜んで帰ってもらうという風習が根付いたのだ。

現在は8月13日から16日のお盆期間を中心に、盆踊りが開催される。数ある日本各地の盆踊りから、特徴ある形に発展してきた3つを紹介したい。

「踊り念仏」が発祥した長野県佐久市には古式の「跡部の踊り念仏」が伝わり、毎年4月の第1日曜日に西方寺で披露される
「踊り念仏」が発祥した長野県佐久市には古式の「跡部の踊り念仏」が伝わり、毎年4月の第1日曜日に西方寺で披露される

秋田「西馬音内盆踊り」

(羽後町、8月16~18日)

顔は見えないが、指先をすっと伸ばした所作が秋田美人を思わせる
顔は見えないが、指先をすっと伸ばした所作が秋田美人を思わせる

秋田県羽後町にあった西馬音内(にしもない)城を治めた小野寺氏は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで敗軍(西軍)に味方したため、翌年に滅亡した。城主をしのぶ遺臣らがお盆に営んだ供養踊りが、地元に伝わる豊年踊りと合流して、現在の「西馬音内盆踊り」に発展したと伝わる。

日が暮れると町の大通りには、「端縫い(はぬい)」と呼ばれる衣装をまとった女性たちの輪ができる。端縫いは着物生地の端切れを縫い合わせたもので、母から娘へと代々受け継いでいく。先祖の心に守られた彼女らの踊りは、日本最高レベルと評されている。篝火(かがりび)に照らされ、色鮮やかな端縫い、頭にかぶった編み笠(がさ)がよく映える。

母がまとった着物の端切れを娘が縫い合わせてまとい、さらに孫娘へと伝える
母がまとった着物の端切れを娘が縫い合わせてまとい、さらに孫娘へと伝える

中には、真っ黒な「彦三頭巾(ひこさずきん)」から目だけを出した、浴衣の女性もいる。祖先の霊と共に現れた亡者の霊を表し、その供養のために踊るのだ。実は彦三頭巾で踊っているのは未成年で、踊りが上達して先生から許可が出ると、端縫いの衣装をまとうことができるという。

沿道に立つ櫓(やぐら)では、「秋田音頭」のお囃子が演奏される。にぎやかな「音頭」ではゆるやかに、哀調を帯びた「がんけ」では速いテンポで踊り、見る者を魅了していく。秋田音頭は夜10時を過ぎると、ちょっと艶っぽい唄に変わり、秋田弁が分かる地元の人の顔には笑みが浮かんでいた。

黒頭巾に藍染め浴衣の妖しい姿は、亡者供養踊りの名残を感じさせる
黒頭巾に藍染め浴衣の妖しい姿は、亡者供養踊りの名残を感じさせる

大分「姫島の盆踊り」

(姫島村、8月14~16日)

「創作踊り」は毎年新作が生まれている
「創作踊り」は毎年新作が生まれている

大分県の北端で瀬戸内海に浮かぶ「姫島」は、『古事記』の国生み神話に登場する島とされる。人口約1600人と小さいが、大変ユニークな盆踊りが伝わり、島民の数を超える観光客が訪れる。「盆坪(ぼんつぼ)」と呼ばれる踊り場が、姫島港フェリー広場と6つの集落に設けられ、踊り手は地元の集落から順番に巡っていく。

毎年数十種類も生み出される「創作踊り」も楽しいが、やはり目玉は「伝統踊り」だ。着物に編み笠姿の女性が踊る「猿丸太夫(さるまんだゆう)」は、しなやかで優雅。男女一組で踊る「銭太鼓(ぜにだいこ)踊り」や「アヤ踊り」は、男性が激しく踊り、女性の美しい所作と対照的で面白い。

上半身裸の男性が竹筒のアヤ棒を持って女性と2人一組で踊る「アヤ踊り」
上半身裸の男性が竹筒のアヤ棒を持って女性と2人一組で踊る「アヤ踊り」

最も有名な「キツネ踊り」は、鎌倉時代に伝わった念仏踊りを起源とする。顔を真っ白に化粧し、白ずくめの格好の子どもたちが、キツネをまねてユーモラスに踊るのだ。

元々は青年の踊りだったが、戦後からは子どもたちが主役に
元々は青年の踊りだったが、戦後からは子どもたちが主役に

白キツネは古くから神の使いと信じられ、各地の稲荷神社が祀(まつ)る穀物の神と共に崇(あが)められてきた。島の言い伝えでは、盆の間に白キツネになることで、豊作や豊漁の願いを届けられるという。

いつしか、タヌキの化粧をした子どもによる「タヌキ踊り」も伝統踊りに加わった。子どもの仮装は愛らしく、観光客の人気の的だ。

創作踊りが定番化
創作踊りが定番化

岐阜「郡上おどり」

(郡上市、7月15日~9月9日)

誰でも踊れる参加型で、県内外から盆踊り好きが詰めかける。「徹夜おどり」期間には早朝の臨時列車も運行
誰でも踊れる参加型で、県内外から盆踊り好きが詰めかける。「徹夜おどり」期間には早朝の臨時列車も運行

岐阜県・奥美濃の小京都と呼ばれる郡上八幡(ぐじょうはちまん)は、城下町時代の古い町並みが残り、通り沿いの水路は長良川から引いた清流をたたえる。この美しい盆地の町では400年前から、夏の間に31夜にわたって盆踊りを開催する。特にお盆の4日間は「徹夜おどり」で盛り上がり、夜が白む朝4時まで踊り明かす。

蹴り鳴らすように踊る下駄(げた)は必需品。浴衣と共に現地でレンタルできる
蹴り鳴らすように踊るので下駄(げた)は必需品。浴衣と共に現地でレンタルできる

輪の中心では、そろいの浴衣をまとった郡上おどり保存会が、一糸乱れぬ踊りを披露。それにつられるように、参加者は思い思いの浴衣姿で踊るのだ。

踊り屋形の上では、三味線や太鼓、笛、拍子木などの囃子に乗せて、土地の風土が育ててきた民謡10曲をうたう。伊勢(三重県)の川湊・河崎から伝わった「かわさき」では、落ち着いた節回しに合わせて優雅に踊る。江戸時代に馬の一大産地であった郡上の誉れをうたい上げる「春駒」は、踊りにも勇ましい手綱さばきの動きを取り入れている。

「かわさき」は伊勢参りに出掛けた郡上の人が、現地の「河崎音頭」を持ち帰ったのが由来
「かわさき」は伊勢参りに出掛けた郡上の人が、現地の「河崎音頭」を持ち帰ったのが由来

郡上おどりの起源は、江戸時代初期の藩主が領民の親睦のために奨励したとも、増税に苦しみ一揆を起こした農民の悲哀を後世に伝えるためとも伝わる。

いずれにせよ、徹夜おどりの夜は無礼講で、身分の隔てなく皆で飲み、うたい、踊り、庶民の最大の娯楽となったのは確か。美しい風土と歴史を伝える山里で、人々は今も変わらず踊り続けているのだ。

「三百踊」の起源は、領民に身分の隔てなく300文ずつ与えた郡上藩主に、感謝を込めてささげた地踊り
「三百踊」の起源は、領民に身分の隔てなく300文ずつ与えた郡上藩主に、感謝を込めてささげた地踊り

※祭りの日程は例年の予定日を表記した

写真=芳賀ライブラリー

秋田 岐阜 祭り 大分 三大祭 祭り・行事・歳時記 年中行事 盆踊り 西馬音内 姫島 郡上おどり