【幕末、明治を駆けぬけたブラキストン】ライカ北紀行 ―函館― 第99回

歴史

箱館の開港からまもない1861(文久元)年、中国・揚子江の探検を終えて英国人トーマス・ライト・ブラキストンは箱館に現われた。いったん母国にもどり、ほどなく新妻をともなって箱館に移り住んだ。それから20年、かずかずの足跡をのこし、エピソードにはこと欠かない。

官軍と旧幕府軍との艦隊による箱館湾海戦。港のそばの邸宅で、ブラキストンが朝食のさなかに官軍の砲弾が飛びこんできた。元砲兵大尉の彼は、同じところには撃ってこないと平然と食事をつづけていたという。飯をともにしていたジョン・バクスター・ウイル船長が回想録に書きのこしている。

1876(明治9)年の函館全景。港のそばにあった左手前の白い洋館がブラキストン邸。ここに砲弾が飛び込んだ(函館市中央図書館蔵)
1876(明治9)年の函館全景。港のそばにあった左手前の白い洋館がブラキストン邸。ここに砲弾が飛び込んだ(函館市中央図書館蔵)

ブラキストン邸に幼いころから出入りするうちに、片ことの英語を話すようになったお寺の住職の娘・堀川トネ。のちに日本近代地震学の父といわれた英国人お雇い教師ジョン・ミルン。ブラキストンはふたりの仲をとりもち、夫婦となって英国にわたった。

ブラキストンは貿易、海運業にのりだし、さらにわが国初の蒸気機関による製材業を営んだ。また、箱館丸を建造した続豊治(つづき とよじ)の次男で、新島襄の米国への密航を手助けした福士成豊(なりとよ)に気象観測をおしえ、日本人による気象観測の始まりとなった。

そのかたわら、鳥類をはじめとする剥製(はくせい)標本をつくり北海道開拓使に寄贈。その研究により津軽海峡に鳥類などの分布境界線があると指摘した論文を欧米の専門誌に発表した。函館にかかわりがある学者のジョン・ミルンが激賞し、これをブラキストン・ラインとよぶこととなった。

1875(明治8)年、ブラキストン紙幣事件が起きる。明治となり商会の経営が思わしくなくなると局面を打開するため、清国むけ海産物の交易をさかんにする貿易会社の設立をもくろんだ。資金調達のため「現金10銭を差し出すと、利息2割前渡しの12銭の証券を渡す」旨のドイツで印刷した証券を発行。これを知った明治政府は紙幣とみなし、国権を侵していると外国人による紙幣発行を禁じた。

ブラキストンが発行した10銭の証券(函館市中央図書館蔵)。現物を撮影(2022)
ブラキストンが発行した10銭の証券(函館市中央図書館蔵)。現物を撮影(2022)

1884(明治17)年、帰国。のちにアメリカへわたり、1891年、カリフォルニアのサンディエゴにて59才で没した。

ブラキストン・ラインの発見を記念し、函館山山頂には彼のレリーフをはめこんだ石碑がある。

函館山山頂に建立されたブラキストンの石碑(2022)
函館山山頂に建立されたブラキストンの石碑(2022)

●道案内
函館山 函館山ロープウェイで山頂まで3分(地図へ

観光 北海道 ライカ北紀行 函館 ブラキストン・ライン