【ペリー提督のあだ名】ライカ北紀行 ―函館― 第98回
Guideto Japan
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米国の捕鯨船が水や薪(まき)をもとめ蝦夷(えぞ)地の近海にあらわれ、ロシア、英国などの軍艦や商船が通商を要求して鎖国の扉をたたくも、扉はひらかれなかった。
艦隊を組んだペリー提督の黒船が江戸城をのぞむ湾ふかくに侵入。一発の砲弾も打たぬも威嚇(いかく)の砲艦外交をくりひろげ、仰天した幕府は鎖国の扉をあけた。
1854(安政元)年、開港場となった箱館で、ペリーはそこかしこに足跡をのこしている。『ペリー提督日本遠征記』は、箱館を「HAKODADI」と表わした。箱館弁がそのまま伝わったのだろう。
ペリーがやって来ると幕府より通知があった箱館は、てんやわんやの大騒ぎ。
お触書が出された。「女と子供は外に出すな」「外出はするな」「海に近寄るな」「居酒屋の営業は禁止」……。さらに海上から市中が見えぬよう板塀でかこみ、町々の境には木戸を設けた。
海からの玄関口、沖之口番所にペリーは上陸した。
ペリーと松前藩との会談は、港ちかくの豪商の山田屋寿兵衛(じゅへえ)宅で行われた。松前藩の応接係は、のちに家老となった松前勘解由(かげゆ)。ペリーは藩主が来ないことに強い不満をあらわした。家老は、幕府から公式の通達が来ておらず、藩主の臨席は無理とつっぱねた。さまざまな要求にものらりくらりと返答するばかり。
これが「勘解由のコンニャク問答」と評判になって幕閣(ばっかく)の耳にはいり、幕府からごほうびの紋付を賜った、とか。
この間にも、箱館の街は大騒ぎであった。禁止だらけのお触書もなんのその、町民たちは物見高く海浜にでたり、異人の水兵に話しかけたりした。
ペリーの上陸は計4回であったが、沖之口番所に設けられた特設市場で三段重ね漆塗りの重箱などを買い大満足であった。
ペリーは部下から「熊おやじ」とか「くま提督」のあだ名でよばれた。熊のうなり声のような迫力満点の大声。だが、語学に長け生物学などに関心をもち、幅ひろい教養とやわらか頭のもち主でもあった。
だからこそ、鎖国の扉を硬軟織りまぜてどんとたたき、徳川の世は泰平の眠りから覚めたのであった。
●道案内
沖之口番所跡 市電「大町」下車、徒歩3分(地図へ)