【神主、錯乱?】澤辺琢磨 ライカ北紀行 ―函館― 第97回
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坂本龍馬を従兄弟(いとこ)にもつ土佐藩士・山本数磨は、江戸藩邸につめ、名のある武芸道場の師範代をつとめていた。だが、あるとき、彼の運命を左右する事件に巻きこまれる。
1857(安政4)年、時計拾得事件。道場の仲間、田那村作八と外出した際、田那村が酒に酔って商人にからみ、商人は持っていた風呂敷包みを投げ出して逃げた。その時、中に入っていた金時計を質入れした。やがてこの事件が明るみに出、土佐藩で問題となった。
そのころ、同じく江戸づめの龍馬は、事件の収拾に走りまわるも事態は予断を許さず、数磨に江戸から逃げよ、と。数磨は仙台、会津など奥州をさまよい、越後で前島密に出会う。のちに「郵便の父」といわれ、箱館で航海術を学んだ前島は、「箱館は文明開化の街、いま日本で新しいことを学ぶなら箱館しかない」と北を目指せとすすめた。
1858(安政5)年の春、流れ流れて箱館にわたった数磨は、旅籠(はたご)に押し入った強盗を持ち前の剣術で撃退。その縁で箱館神明宮(現・山上大神宮)境内にある掘立小屋の道場を任されることに。さらに神明宮の宮司(ぐうじ)に後継ぎがいないがゆえに懇願され、婿養子となり神官となった。以後、姓を澤辺、名を琢磨と名乗る。
「邪教をひろめ、やがては日本をロシアの属国とする気か!」と殺(あや)める覚悟で、「頼もう」と声をはりあげる攘夷論者の琢磨。顔をだした若く大男のロシア領事館附属礼拝堂司祭、ニコライに太刀を腰に語気鋭くせまった。
領事館に武術の指南役として出入りしていた琢磨は、ニコライのことを日本侵略に来たロシアの密偵と思いこんでいたのだ。
「邪教か否か、ハリストス正教を知らずして論ずることなかれ。吾を一刀両断にするなら、ハリストスの教えを知ってから切れ」と、司祭は微笑みさえ浮かべる。「それも一理ある」と、琢磨はニコライのもとに納得するまで通った。
1868(明治元)年、師の品格と教えに魅せられ、キリスト教禁制下で密かに洗礼をうけ、日本で最初の正教会信徒となる。
神道の祭司職が「邪教」へ改宗して、「神主が狂った!」といわれ、琢磨の家族はひどく困惑し貧窮におちいった。
そのあと、東北にわたり熱心な伝道をつづけ投獄されたが、禁教が解かれ自由の身となる。ニコライ、妻子が待つ函館にもどり、やがて日本人初の司祭にえらばれた。侮られても迫害を受けても一途(いちず)に信ずる道をあゆむ琢磨の姿に、家族も信徒になり、布教の手助けをした。
新島襄の脱国にも一肌ぬぎ、龍馬とは江戸脱出以来会うことはなかった。また、日本初の女子米国留学生に選ばれ、帰国後、「鹿鳴館の華」といわれた幼いころの大山捨松(すてまつ)をあずかった。会津戦争にやぶれてふるさとを追われ、米もとれない下北の斗南(となみ)藩で飢えの日々にあった捨松は、口減らしのため津軽海峡の対岸、箱館の琢磨のもとに里子にだされたのだ。
1913(大正2)年、琢磨はニコライ主教の後を追うようにその生涯を閉じた。79歳、洗礼名はパウエル。東京・青山霊園にねむる。
●道案内
函館ハリストス正教会 市電「十字街」下車 徒歩10分(地図へ)