【今宵最後、中島三郎助の宴】ライカ北紀行 ―函館― 第93回
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幕末、ペリー提督が上陸した沖之口番所跡を背に、弥生坂の急な坂を登りつめた坂上で振りかえると、眼下に港がひろがる。ここが幕末箱館随一の名園といわれた咬菜(こうさい)園の跡。
ちなみに、咬菜とは粗食のことで、咬菜園の名づけ親は五稜郭を築いた武田斐三郎(あやさぶろう)といわれる。
旧幕府軍が本陣をおいた基坂(もといざか)上の旧箱館奉行所(ぶぎょうしょ)からほど近いこの名園は、榎本武揚(たけあき)政権が生まれ、官軍が攻めのぼるまでは、戦闘もなく平穏な日々で、武士たちのつかの間の清遊の場であった。箱館市中取締役の土方歳三も句会に参じている。
1869(明治2)年3月4日、新政府による旧幕府軍への追討令が下って官軍の軍艦が品川を出航したとの急報があった。
そこで榎本は、大鳥圭介、中島三郎助、高松凌雲(りょううん)らの幹部と今宵(こよい)は最後と咬菜園で夜通し酒を酌(く)みかわし詩を吟じた。
そのおり、咬菜園の主のもとめで、「木鶏(もっけい)」の俳号をもつ中島三郎助が句を詠んだ。
「せわしさのこれやまことの花こころ」
官軍が迫ってくるなかでの心境をあらわしている。
ペリー艦隊が浦賀沖に来航したとき、浦賀奉行与力(よりき)の中島は、いち早く米艦に乗りこみ応接するなど、外交に大きな足跡をのこしている。そのあと、旧幕府軍に加わり蝦夷(えぞ)地に上陸し、榎本武揚のもとで箱館奉行並をつとめた。
宴から二カ月あと、官軍による箱館総攻撃で市街地はすでに官軍の手に落ち、五稜郭にこもる榎本から千代ヶ岡陣屋を退去するよう使者がきた。が、陣屋の守備隊長中島は、最後まで壮絶な戦闘をつづけ息子二人とともに北の地に散った。
今もこの地は中島町と呼ばれている。
●道案内
咬菜園跡 市電「大町」下車、徒歩10分(地図へ)