【海の快男児ウイル船長】ライカ北紀行 ―函館― 第91回
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戊辰戦争最後の箱館湾海戦。官軍の軍艦から放たれた砲弾が、食堂の開いていた扉をぬけテーブルクロスをかっさらい、裏庭の牛の飼い葉桶をこなごなに粉砕して止まった。牛はモウ! とびっくりしたが、誰もかすり傷ひとつ負わなかった。
港のそばのブラキストン邸。ブラキストンとウイルが朝食をとっている最中の出来事であった。ウイルが回想録でこのことを語っている。
英国・スコットランド東部の港町・ダンディーに生まれたジョン・バクスター・ウイル。あこがれの船乗りをめざし見習い水夫、航海士、船長とキャリアをかさね、帆船をあやつって人や物資をはこび、欧州、米国、中国の海を駆けめぐってきた。
幕末、1860(万延元)年。各国の軍艦、商船、捕鯨船が行きかい、米、英、仏、露の領事館があってにぎわっていた開港場の箱館に、ウイルは現われた。
箱館で交易、製材工場、廻船などを切りまわしていた商会の主、英国人のトーマス・ライト・ブラキストン陸軍砲兵大尉。彼のもとで、長崎、樺太、小樽、根室はもとよりウラジオストク、上海と風まかせの帆船をあやつって嵐のなかを縦横無尽に動きまわり、米、昆布、石炭などの交易に精を出した。
戊辰戦争のあと、釧路にむかいそこで昆布を積み、箱館にとって返し昆布を売り払った。さらに木材を積みこみ上海で売りさばき、現地のドックで船の水もれを修理。帰路、立ちよった長崎で箱館の米不足を知り、積めるだけの米を買って箱館へむかった。ときには、開拓使のもとめで移民と物資を樺太にはこぶ。まさに大車輪の活躍そのもの。
『ウイル船長回想録』(訳・杉野目康子、道新選書)を種に書きつらねてきた。その原本、ウイル自筆による回想録『Looking Back』が函館市中央図書館に所蔵されている。寄贈したのは、甥の坂井長治郎。短躯(たんく)のウイルは、三尺船頭さんと市民から慕われていたという。晩年、英国領事館の警保官を務めた。
幕末の動乱から60年、函館を拠点に変転する時代の波をのりこえ、1920(大正9)年、80歳で世を去った。
海の快男児ウイルは、函館山のふもとの外国人墓地に眠る。墓碑には「船長ジョン・バクスター・ウイルを記念して坂井よし子と家族これを建つ」とある。
●道案内
函館外国人墓地 市電「函館どつく前」下車 徒歩15分(地図へ)